茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。
島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎
■小貫大蔵は救世主?
さて、その小貫大蔵とは如何なる人物であったのだろうか?「早くから、宿敵佐竹氏と内通していて、主家を亡ぼし、己が野望を遂げた大悪党」と言われているが、果してそうであったのであろうか?
潮来町の関戸文書(関戸正蔵氏所蔵)の中に、新嶋村争論に係わって、大貫大蔵に関し、次のような記録が残っている。正保三年(1646)の文書である。
『(前略)島崎左衛門殿は、天正十九年辛卯
(1591)極月亡び、関戸玄番丞殿は、文禄三年甲午(1594)七月廿五日に亡び候へば、行方は、佐竹領となり、島崎大台の城には、小貫大蔵と云う人御座候時に、常陸下総の堺あらそい、度々出会い、嶋崎村、上嶋村、西代村斗り出来候時分、牛堀村前へ出会い度々棒打ち候事。行方は小貫大蔵殿の指図、新嶋は西代五郎右衛門罷り出、互に争い、済みかね、双方江戸へ罷り出、常陸下総の境、利根川切りと仰せ付けられ候事。(後略)』
筆者は、関戸玄番之丞の嫡男で、一時下総に難を逃れ、その後帰参した利右衛門(幼名国松)の嫡男関戸庄左衛門である。日付は正保三年丙戌(1646)となっている。島崎氏没落後五十五年、佐竹氏移封後四十四年が経過している。
この頃、既に時代を隔てて、最早権力者としての影響が顕在していないとも思われるこの時期に、尚且、「殿」の敬称も以って語られているのである。果して是れが大悪人に対する対応であろうかと考える。
時の勢いは、佐竹の南進は必然であったろうし、弱小地方政権が、必死の努力を傾注して、難を逃れ、生き残る途を模索したであろう事は想像に難くない。
一方、佐竹方にしても「何とか戦わずして勝ち、而も一日も早く旧敵を己が陣営に引き入れる」べく、あらゆる手段を弄した事は当然であろう。斯くして暗黙の合意が働き、生臭い地下の戦略が続けられ、これらが、島崎氏の存亡に大きく係わったことは否めまい。その故にか、佐竹側は攻城に方って、窮鼠の害を除くとして囲みを解き、決戦を避けたとされている。それのみか、戦後の処理に方って、残党狩り等を行った気配すら見られない。
一方、島崎の重臣達もいち早く近郷に土着してしまい、野に伏し山に潜んで、主家の仇を報ぜんと、必死の抵抗を試みた忠臣烈士のあった話も聞かない。
主家存亡の秋、和戦両派が激しく対立して渦巻く情勢の中に、小貫大蔵は常に冷静に和睦の条件を探り、精力的に和平策の論陣を張ったに違いない。そして、不幸にして主家崩壊の現実に直面するや、いち早く時局を正しく認識して、一部の過激な行動を抑え、それ等家臣団の心身の安泰を図った救世主であったのかも知れない。そうでなければ、如何に小貫大蔵が能弁者であったとしても、幾多俊秀の重臣達を向うに廻して、長期に亘って、戦前、戦中の重大な政・戦略に参画して行く経緯には納得が得られるものではない。
小貫大蔵の、このような生ぬるい戦中、戦後の処理を見聞きするに忍びず、切歯して、ずっと後世の第三者が(或いはひょっとして、島崎氏縁りの者が、為にする読物として)、「島崎盛衰記」なる物を書き起こしたのかも知れない。そして、この物語に起伏抑揚を付けるために、小貫大蔵を大悪人に仕立て上げ、薄幸の佳人、「お里の方」等を登場させたものであろう。
■お里殿は二人?
前記の関戸如水と云うは、所謂「お里由来」及び「稲荷山の由緒」等について、次のように書き残している。
『(前略)お里殿と云うは、丹波守殿室、玄番殿、御母公、嶋崎殿の姉也。丹波殿卒去の後、稲荷山を後にかまえ、閑居屋形を立て、お里殿と号して男女数人を指添へおかれ候由。嶋崎殿、玄番殿は、佐竹の為に亡ずともいへども、お里殿は尼にておわす故にや、何の構いもなく、其後十余年を経ておわり給ふと云ふ。国松流浪の内なれば、此山屋敷は此家に帰りたる様に聞き候へども、山は長勝寺支配に成し候や、御当家御一統の後、慶安年中(1648~51)に御朱印に定ける也。されば此山を古来長勝寺寺山とはいわず、稲荷山と云い伝へたり。此稲荷は、古来関戸家の鎮守として、玄番の丞殿より宮殿・拝殿を建立して、いなり税とて田畑を附け、中田外記という禰宜を附けて、是を守護させ候。(中略)端沢重友は、慶安四年辛卯(1654)ノ春廿四才にて此家を継ぐ。玄番殿没落より五十八年目也。然るに、養母貞林は、五才にて母におくれ、七才にて父にはなれ祖母永寿尼の養育にて人となる。其間、女わらんべの取りはからいにて内証うすく、しとけなき体なれば、鎮守の修理を加へべき力もなく、大破に及ぶ。従って重友来る翌年辰(1655)ノ春、宮殿拝殿を造立する。其後二拾四年を経て延宝年中(1673~80)に、水戸の大軍源義公、御国に、弐拾八万石の内、大寺大社をば御取立て、小寺小社をことごとく破却成られ候。此宮も其列になれば是非に及ばず。其後重友は、稲荷宮を屋敷の内へ観賞して是を祭る。然るに、壱丁目弐丁目の者共は、此いなりの下に生れ、数年氏神としてあがめ奉る所の社を失い、重友方へなげくに付き、ひそかに禰宜勘三郎屋敷の内へ観賞して、いまにおいて、両町の鎮守と是を祭る。
しかりといへ共、壱丁目の者共は、右山の下に住居すれば、たとへ社はなくとも、神霊のおわしますがごとくに志をはこび、破却の節より今において、思い思いに参詣致す事も止むを得ざる事也。
綱正(如水)此家を継ぐ事。貞享元年甲子(1684)二月九日に此家に来る。然るに、お里の畑の西南へ押廻し大きなる土手形あり。畑になにて居り候へども、雨振り候へば水たまり、作毛くさり損ない、依って元禄中に、綱正多くの人足を以って、土手をくぼき所へ切り平の畑となしたり。東北の上手は長勝寺の竹やぶの内に有り。
お里より東の方を向いて町へ出る道有り。此道は、はば四五間も之有るを覚えたる人有り。養父端沢覚えでも、三間斗りも之有り候処、段々左右の畑より、けずりこかし、今は漸く一間斗り也。此土手の行当り、お里殿の泉水の跡とて、くぼき所、畑と成りてあり。(後略)』(関戸本源記)
関戸如水がこの書を書いたのは、宝永五年(1708)正月である。この時代既に、お里殿は地名として定着していたのである。
如水は「地名のお里は、お里殿跡」として筆を進めているが、「お里の方」自害については一言も書いていない。当時としては、城主の美女の自害という最もショッキングな物語である筈が、時代がより近いに拘らず、一言も出て来ないのである。哀れなる落城物語としての「お里の方」が登場してくるのは、少なくとも宝永以前でない事は明白であろう。之を要するに、所謂「お里の方」伝説は、島崎滅亡史をより劇的にするために、後世になって語られ始めた「フィクション」ではないかと、考えては如何であろうか。
若しも、「お里の方」伝説が真実であったとすれば、佐竹氏の採った戦略方針、並びに戦後処理政策にそぐわないし、何よりも、島崎氏遺臣達の「お里の方」の遺跡に対する心やりが些かでも伺われなければならないからである。百歩譲って、前記「盛衰記」に盛られたような事実があったとすれば、島崎家には、ほゞ同時代に二人の「お里殿」が居られたことになり、一人は島崎公(如水は長国公と書いている)の姉君であり、もう一人は義幹公の奥方である。前者の「お里殿」は、前記のとおり、関戸丹波守の室となり、玄番之丞の母として存命し、丹波守なき後に尼となるが、佐竹の侵攻時には尼なるが故にお構いなしの扱いを受けて余生を全うしている。後者の「お里の方」は、島崎落城のみぎり、鹿島の宮居を目指し、落ち延びんとして、敵の重囲に陥り、潮来の近郷に自害して果てるのである。
以上の考察からすれば、何れが現実味をもって迫るかは自明であるが、しかし、我々の胸中には、この哀れなる「お里の方」伝説を、単なる俗説として一概に退け得ないものがある。それには、少なくとも弱者に対する同情、非道に対する抵抗等、根強い庶民感情が籠められていて、それ等が背景となって、この伝説が生れ、流布にされたのであろうからである。
■おわりに
遂に、此物語(島崎盛衰記)の著者、書かれた年代等、分からず仕舞に終わるが、少なくとも、関戸如水翁の亡くなった寛保(1743)以前に書かれた可能性はなく、世の中が落ちついて、諸人の記憶が薄れかけた。ずっと後世になってから、ひょっとすると、明治に近い幕末の頃に書かれたものでは?と一人妄想している次第である。
それにしても、義幹公には名前が幾つもあり、討死場所も所説がある。小貫大蔵の行動は、余りにも非現実的であり、お里殿に至っては、地名を廻って二人の女性が登場すると言う。僅か四百年の歳月が、このような、地方に於ける重大事件を曖昧模糊なものとしている。何れの日か、確証を掲げて真相を証明して頂ける日を待つのみ、と思っている。考えてみれば、天正十九年という年は、佐竹氏にとって、水戸移城一年目であり、而も、各地の占領地経営に謀殺されたる筈の秋であり、わざわざ太田に人を招くというだけでも奇異に感ずるのに、義幹公の討たれた場所が、太田からも、水戸からも可なりの道程の、奥方の郷里たる上小川であり、更には又、義幹公の母公が「里見家」の出であり、奥方の名が「お里」であっては,些か話が出来過ぎていると思われるのだが・・。
いずれにせよ、冒頭の土子書簡、及び関戸如水の記録に見られる限り、島崎氏崩壊の道程には、一部首脳は別として、即戦即決の華々しさは、極めて稀で、地味で陰湿な謀略戦が、執拗に行われた、と思料されるが如何であろうか。
菲才の身をも顧みず、波乱万丈の島崎攻防史の一端に挑み、敢て巷説に対称的な考察を試みた無謀をお許し頂き、諸先生方との御教示を賜わり度く、宜しくお願い致したい。
さて、ここで末筆であるが、関戸如水によって遺された「関戸本源記」の信憑性について附記しなければなるまいと思う。
関戸如水は、前述のとおり、近世潮来村に於いて、最も信頼に足る者の一人、と考えられている人物である。彼は、多くの生証人と古文等を通じて得た情報を駆使して、此「本源記」を書き記している。此書は、関戸氏家系の記録という形は採っているが、単なる家系内の人物の描写書ではなく、彼、関係ある個個人の動静等、万般に及んで、事細かに記録されている世相書でもある。彼自身、「此書は、他の人々に見せるものにあらず」と巻尾に記しているように、此書は、一族以外の第三者に、我家、我祖を誇示するため誇大に、又は真実を曲げて書かれたものでないことは確かであろう。この書は、彼が、自己の信念と己が子孫に対する戒めとを、将来に向けて真摯に示したものと受け止められ、その内容についても、歴史的に十分評価できるものと信じている。
参考のために、その巻尾の一節を紹介して、筆を擱こうと考える。(別紙5)
『(前略)1.綱正(如水此家に来るは、貞享元年子(1684)二月九日也。しかるに、玄番殿没落は文禄三年午(1594)ノ七月也。是を考ふるに九十一年也。先づ、土子氏が一巻、養父是を伝ふるに附いては、折々、昔語りを聞き、末世の咄しのたねにも成れかしと、貞享の初め比より、所縁の人々の子孫の替りたるわけなどを書き添へて指置く物也。然れども、予、一生他見は申すに及ばず、不断の物語りにも指控へ延引致す意は、粗き世間の上を見るに、今幸イなき身がらにて、先祖の系図物語りなどする人はおかしき物也。勿論、公家殿上人の末にても落ちぶれくだりたる時は、却って、先祖の名を汚し、己が不徳をあらはす也。されば、筋なき人にても、其器量を以って高位高官にも上りたる時は、其人々の誉を云い、先祖の名を起す也。願くは、時至り、幸イ有る時節に至り、誤りて未練の振舞、先祖の家名汚すまじき事を思い出す折からの助けともなれかしと、一巻に記して、残し置く物也。
宝永五年戌子正月 日 書之
関戸理(利)左衛門綱正(花押)』
最終になりましたが、この稿を起すに方って、潮来町、関戸家の御当主、関戸正敏殿より、好意ある資料の提出を頂きましたことを、感謝して報告します。(昭和59年6月)
引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会
茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。
島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎
■まえがき
「島崎盛衰記」をひもとくに当って、特に其の滅亡にきつわる経緯について、数々の疑問点が浮かび上ってくる。
郷土史に関係ありし思われる事柄を二三拾ってみると、概ね次のようなことどもである。
先ずその第一には、主君が討死し、主家が崩壊したにも拘らず、どうして重臣たちが容易に土着できたのか、ということである。このことは又、これに先だって、上小川における義幹公の憤死、それに引き続く嫡嗣徳一丸の奮戦・自害、更に又、城郭周辺に於いて戦われたとする激しい攻防が、果して有ったのかどうか、ということ迄に連ってくる。
第二には、小貫大蔵という人物の行動である。小貫大蔵なる人物は果して実在していたのか、そして主家を滅亡にまで導く大罪人であつたのか、ということである。
第三には、所謂「お里殿伝説」である。「お里の方」と呼ばれる義幹公の奥方が、潮来近郷に於いて、悲惨なる最期を遂げられたという、落城哀話の信憑性である。
そして、その第四には、何時の時代に、何人によって、この壮大な「島崎盛衰記」なる物語が書き綴られたのか、ということである。誠にお恥ずかしいことながら、浅学の身で、この「盛衰記」以外には全く知識がないので、「島崎滅亡の真相は違うのでは・・・」と常々想いつつも、何方か、「真相は斯くである」と教えて頂ければ、之れに勝る幸はなしと日夜考えている次第である。
■島崎義幹は水戸で謀殺
ここに貴重なる一編の記録が残されている。明暦元年(1655)6月、島崎村の土子彦兵衛という人物から、潮来村の関戸利兵衛という人物に宛てられた書簡文である。(潮来町・関戸正敏氏所蔵)
土子彦兵衛は、著名な島崎家の重臣の一人。土子越前守の嫡男であり、所謂島崎城攻防にも名を連ねている人物である。一方、送られた方の関戸利兵衛は、後に紹介する関戸如水(利左衛門綱正)の岳父であり、双方共に、当時に於ける最も由緒ある、信頼の置ける人々である。
先ず、その書簡文の一部を紹介する。
『関戸家と島崎家の御由緒一通り尋ね致し、承知し候。前の亡父越前、もの語り共粗々承り覚え申す所も御座候。其の外、古日記等も御座候間、見合せあらまし書き付け御覧に入れ候。関戸玄番丞辰尚、父丹波守と申すは、鹿嶋中居の城主、川口左馬之介殿のお弟由。元来中居も関戸たりといへども、故有りて川口を名乗り候由。(中略)
島崎左衛門尉と申すは、丈ケ六尺に余り大力量にして、智仁勇を兼ね、好く人を見、好く人を愛すと云へり。然るに、丹波守殿は、なお又、島崎殿に倍々の勇力有りて智深く、器量・骨柄と申し、その比並ぶ方なき猛将也。時節柄、両人心を合せ候はば、壱ケ国、弐ケ国切りしたがへ給ふ事は掌の内たるべしと思慮され、丹波守殿を姉婿として、弁財天台より立兼台まで屋形を建て並べ、上戸、潮来、辻、稲井川迄城下の地として居城を定め給ふ。然るに、玄番殿十五才の時、丹波守殿四十余才にして逝去と云々。 (中略)
島崎殿は、天正十九年卯(1591)の年中、和睦と称して水戸に召され、三の丸坂口にて、鉄砲数拾挺を以って取りはさまれて打ちころされ、佐竹の為に亡びたり。
島崎殿斯くの如くに成ら為せられ候間、玄番殿は降参もすべきものと見合せられ候や、其の間三年引き延し、文禄三年午(1594)夏中、これも和睦に事寄せて水戸にまねく。依って、三ノ丸坂口にまで乗り懸け候へば、島崎殿同様の仕懸に見え候や、馬に乗り乍ら、みづから、頸をはねて死に給ふと、云々。(中略)
明暦元年未(1655)六月 土子彦兵衛・信房 花押 関戸利兵衛殿』
この辺の事情を、関戸如水(註Ⅰ)は、後年(宝永五年・・・1608年)、その著書の中で、次のように述べている。(別紙2)
『(前略) 養父重友殿(註2)は、玄番没落より五十八年目に此の家を継ぎ、古き人の物語りにて早々相聞き候へども、島崎殿、玄番殿間の事、たしかなる人の物語り聞かまほしく思い候処に、或時嶋崎村へ用事有りて行き候時、嶋崎殿一の臣下に、土子越前と云う人の嫡男、土子彦兵衛と云う人と出会い候処、幸い昔語りいろいろ之有り候間、嶋崎殿と関戸玄番の由緒のわけ尋ね候へば、我等若年の比、亡父越前物語り、あらまし覚え候。其の外日記等も之有り候間、見合せ、書き付け進ずべき由、約束致し候。其の後、相認め送られ候間、則ち一巻の巻物と成して指し置き候由。貞享年中(1684~87)、綱正(如水)に譲られ候処、虫ばみ候間、宝永の初(1704)の比、綱正表具を直し、即ち本家へ伝へ置くもの也。(後略)』 (「関戸本源記」 本永五年 関戸如水)
(註Ⅰ)関戸如水(1661~1743)
麻生藩士 岡山半右衛門の三男、幼名六内、長じて綱正を名乗る。初め麻生藩江戸詰めとして勤務、後に故有って潮来村関戸家の養子となり、関戸利左衛門を名乗る。関戸家中興の士とされる一方、潮来村庄屋、年寄として地方の行政面でも多大な足跡を残す。又、優れた著述家としても実績を有し、「長勝寺物語」等、多数の著書を有す。
(註2)関戸重友(1628~1708年)
関戸如水の養父。麻生藩作事奉行 岡山孫左衛門安綱の三男 故有って関戸家を継ぎ利兵衛を名乗る。後に端沢と号し、長勝寺の再建、修復に力を尽す。
関戸如水は、島崎氏謀殺について、前記土子書簡の通り記述した後、玄番之丞自害、爾後の一族の動静について、次のようにのべている。
『(前略)嶋崎殿、斯くの如くならせ候間、玄番殿は降参にても、文禄三年午(1594)の夏中、是も和睦に事よせ、水戸にまねかれ、依って、三の丸坂口迄乗りかけ、件のしかけ見え候や、馬に乗りながら自ら頸をはねて死し給ふと云々。法名関宗道朝居士と号す。其の子国松、岩松とて、七十五才の男子弐人、母にははくおくれ孤児となる。土子、矢幡を始め、山本、桜井、須田今蔵、竹蔵などと云う者上下男女十三人、下総へ退き、廿余年を経て当地帰参して、兄弟両家を取立て候と云々。(中略)』(関戸本源記)
ここで、如水は、数多くの生き証人を登場させて、関戸玄番之丞の出陣の模様などを、更に詳細に次のように述べている。
『(中略)玄番殿水戸出立の刻、土子、矢幡、其の他の者共を召し寄せ、申され候は、「我此度、佐竹の為に滅ぶ。兼ねて覚悟の事なれば、少しも動ずることにあらず。我出馬致さば即ち屋形を仕廻い、目に立つ物をば心静かに取り仕廻い、日暮れに油断なく両人のせがれ並びに足よわ共を召しつれて、先ず矢幡は、津宮窪木水主方へ引き取るべし。土子は、残る者共に申し付け、夜中材物諸道具を引き取るべし。無益の諸道具をば家の中に積み、四方より火をかけ焼き捨つべし。見ぐるしき物少しも残し置くべからず。たれだればかり引きとり、残る物共には、それぞれに心付けをして、皆暇をとらすべし。返すがへすうろたゆることあるべからず。」と申し渡され候へば、土子、矢幡も是非御共の覚悟と見え候へば、又、玄番殿申され候は、「されば、今度一戦にもおよぶべき物なれば、両人左右にしたがへ、最期の一軍、目をおどろかし、名を後世に残し度きものなれども、此期に至り無益の事也。其程の事は、其方見とどくるにおよばぬ事也。此上は、両人のせがれ共の行末を見届け候処、千万の忠義也。今度は、山本三右衛門、須田今蔵、下部の吉平、権八、上下五人、すぐやかた出立、先の首尾次第、彼等四人は押つけ返すべし。」暇乞いの盃とて、大土器を取上げ、たふたふと引請け、土子、矢幡より順々に盃事之有り、黒き馬のふとりたくましきに、ふくりんの鞍をおかせ吉平、権八玄関までひき向い候へば、ゆらりと打乗りいざぎよく出立ち給ふ。其時の装束、上に黒羅紗の陣羽織、丸の内に、ききょうの大紋白くありありとぬい、すそに、山道にあられを紅白を以って縫いたるを召され、五尺余りの大刀を十文字に横たへ、丈ケは六尺に余り、色白く、年はいまだ三十余才、其の器量、骨柄、馬上すがた今見奉る様に覚え候と、見たる人、聞きたる人々、養父端沢、貞林、年さかりの此の物語り、其外、あわれなる物語り、今筆にも及びがたき事どもなり。いろいろたしかなる物語り也。其他召使いの物共とりどり話し、端沢重友は玄番没落より五十八年目、慶安四年卯(1651)の春、廿余才にして此家を継ぐ。此時、竹蔵七十六才、老女七十才。竹蔵は、木工殿の家に附いて行き八十六才にて死す。
(中略)但し、冬と云う老女は、利左衛門綱正が家に侍り、四ヶ年の老を養い、貞享四年卯(1687)四月十二日、行年百六十才にておわる。法名安宝比丘尼、即ち長勝寺関戸の墓所の片原に小石を立て置く也。(中略)』(関戸本源記)また、冬女について、如水は、別項に於いて、次のよう書いている。
『(中略)この冬と申す姿は、綱正此家に来て後にも、綱正が台所の方わらに伏所をかまい、尼に成りて四ヶ年の春秋を送りて、貞享四年卯の四月十二日に、行年百六才にして正念にりんじゅうをとげたり。其比の様体七八十才のたしかなる人の様体にて、少しも老衰の体もなく、五十七日絶食して水ばかり好みておわる。法名安宝禅尼、則ち長勝寺、関戸家の墓所の片原に小石を立て指し置く也。(中略)』(関戸本源記)
このように、関戸如水は、多くの確かなる生証人達が直接、間接に見聞きした情報を基にして、丹念に此書を綴っている。
前の土子書簡と併せ見る限りに於いては、島崎義幹(基)公の討死は、水戸三ノ丸坂口である。このことは、前年の天正十八年(1590)、佐竹氏が水戸に移城した歴史とも符節する。
歴史が示す佐竹氏の戦略は、何れも各個撃破を原則として遂行されたもののようであり、ここでも結集した敵方の統合戦力発揮ができぬように施策したに相違ない。敵の友好陣営のみでなく、政・戦略面に於いて、君臣を分ち、公民を離す挙に出たことは容易に伺い知れる。
義幹公の討死も、引き続き行われた徳一丸殿の奮戦・自害、将又、重臣達の対応等、島崎落城の歴史も、以上を前提として考察すれば、違った形で我々の心に蘇ってくる。
主君が、卑劣極まる謀殺に逢っているにも拘らず、重臣以下が、落城の直後から、少なくとも平穏に生計を維持し続けていたと云う背後には、島崎氏が、佐竹氏に対して、ただ単に力が及ばなかったから、とは思われない。それ以外に、ある何事かが陰に存在していたのではないか、と愚考する。
更に又、島崎家に小貫大蔵なる人物がいて、多年に亘り、彼の策略が多数を制して成功して行く道程には矢張り相互の軍事的関係のみではなく、何物かが係わっていた?と妄想している次第である。その2につづく
引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会
◆はじめに
一次に提示する古文書は行方氏玉造の大場家に伝わるものである。内容から推測すると、戦国時代の合戦を前に出された所謂「出陣の触れ状」と思われる。それと一緒に過去に起きた合戦の経緯を記録した顛末書が付け加えられている。
ところが、この古文書は原本からの最初の謄本を、複数の人達がそれを書き写し、それぞれ所有していることが分かった。「麻生の文化」第十二号の箕輪徳次郎氏が「戦国時代出陣の触れ状」と題してそのことを書かれている。
『前略、矢幡の土子進さん宅へ伺って、古文書を格納してあった木箱を改めさせて貰ったことがある。その時に、触れ状の断簡と覚しいぼろぼろの紙片を見た私は、その断簡が触れ状の最初の謄本であり、現存する触れ状はこれらから清書されたものであろうと想定された。
この触れ状が発せられた文禄元年(1592)は、佐竹軍に攻められて他の域と共に島崎城も落城した天正十九年の翌年である。当然戦死した者もあろうし、離散した者も大勢いたと思われるが、この時代の領主と家臣の関係は、江戸時代のように専門的武士階級が毎日登城する制度ではなくて、島﨑氏が支配する領土内に屋敷を構え、平時は農耕に専念し、一朝ことある時には触れに応じて定められた戦場へ赴く仕組みになっていた。いわゆる兵農一致の態勢であったから主家の島崎城落城後一年目にしても土着したままで、この触れ状を受け取るべき重臣やら家臣が存在していたと推察される。』
◆出陣の触れ状と合戦の顛末書
出陣の触れ状と合戦の顛末書が書かれた日付を見ると、文禄元年の一月と三月になっている。触れ状からは三月までの間に何らかの軍事行動があったことが読み取れるが、顛末書の方は内容からするとかなり前の年代になるので、触れ状とは直接関係はないと思われる。書物によっては、触れ状のみが掲載されてあるものや、両方が載せられているものなどいろいろあると言われている。
古文書を読み下し文にすると次のようになる。どうしても読めない漢字は□で表し、前後の文から推測して判読するところもあった。
嶋崎左衛門配文状
今度、小田兵乱ニ付キ、何茂柄崎表へ押シ寄セ相働クベク配文セシム者也 先一番 大平内膳 二番 窪谷四方之介 三番 三土子伊賀 四番 鴇田兵庫 五番 今泉将監 六番 大野與市 七番 平山雅楽之正 八番 柏崎 九番 塙織部少 十番 佐藤豊後 其外面々 寺田与兵衛 大山七郎 山野治兵衛 鈴木主水 萩原半兵衛 米川佐渡 小貫大蔵 原目徳兵衛 原弥兵衛 瀬能茂兵衛 茂木平助 石神弥次右衛門 新橋道問 根本与四郎 森伊佐衛門 榊原喜佐衛門 宮本弥次衛門 人見九兵衛 小浦勘助 山口三太郎 小川又五郎 片岡久 矢口新五郎 菅谷半平
右ノ通リ来ル二月四日、刻限ヲ相定メ申シ候間、何茂落花、故郷ヲ出デテ各西海波上戦場ノ望ミ大野原ヘ相詰メ御供申スベキ者也。 文禄元年壬辰正月大吉日 土子美濃守 大平馬生
仰モ常陸ノ國府中ト小山ノ御事、眼前ノ御外泧無キト雖モ其ノ紛レニ候。題目ヲ以テ望マズ。近年御不和其レ有ル以テ其ノフ問ク。然ル間、両家御品屓ノ方引キ扱イ、宇都宮・佐竹・土岐其外一家一族等、府内御塩味ノ方、結城・小山・那須其外一家一族等、近年邊々ノ為隔ル。今度筋目ニ任セテ各両家、幕下ヲ守ラ被ラレ、敢テ甲冑ヲ枕ニ弓矢ノ業ヲ為シ、且ツ暮ラシ油断ナシ。然ル間、行方小高ノ事、老父在世ノ頃子細有リ、手賀・玉造ヘノ遺恨忘レ難ク、小高一家逆慮ヲ含ミ、小田氏治ノ幕下ニ隋イ連々呢近ノ上続落被ラル。年月ヲ経テ土岐玄東・菅谷隠岐守氏治ヲ以テ之ヲ訴エル。行方郡中府内幕下ト雖モ、数年邪為ニ依リ胸底ヲ椊マレル。當郡ニ五三日御馬立テラレ候ハバ、何連茂幕下ヲ相守ル可ク、其ノ砌、小高・下河邊・麻生・嶋崎・手賀地ニ至リ、柄崎表ヘ押シ寄セ相勤ケベク、郷ノ東ハ山田勝治一家手賀ノ物見塚迄勤メ、郷ノ北玉造ノ地大木戸ヘ武田民部大輔通信ヲ頼ミ、三方自リ押シ寄セ、手賀・玉造・在地ヘ攻メ入ル、挙幕ニ於テハ郡内諸子、残リ無ク氏治幕下ニ疑イ由有ルベカラズ、頼リニ之訴エルニ依リ、小田勢数百騎ニ及ビ渡海有リ、小高ノ郷南ノ庄ニ御馬立テラレ、郡中ノ面々ヘ使者・書翰ヲ□検サ□、以テ一味有ルベキノ旨ニ隋ッテ隕スト仰セ出サレ候。何連茂堅固ニ矢ヲ払イ法ヲ計ルト申ス。一家ノ謀略何事哉哉。寔ニ毛ヲ吹キ疵ヲ求ム。府内為宗ノ勢五百余騎時刻ヲ移サズ玉造ニ御馬立テラレシ郷ノ北、大木戸ヘ玉造ノ士卒正忠、東物見塚ハ幕下鳥名木ノ庄時長、郡ノ北片倉ヘハ太田市之正、後詰玉造堀之内ニハ為宗、手賀堀之内ハ大田須原、柄崎表ヘ玉造与市景幹何茂曾合ス。時ニ天文五年申年、兵乱前後ノ造劇也。然ニ小高家来吉川半蔵、手賀ノ家来山口和泉討死シテ骸ヲ土中ニ埋メ、印ノ塚ヲ和泉塚ト云ウ。氏治方土岐・菅谷手賀堀之内ヘ□□忍ビ入リ、火ノ手ヲ揚ゲルベク謀略・密議ヲ以テ語リ隕ス。壁ニ耳有リ池ト云ウ。府内代官新九郎、此ノ旨ヲ注進シ候。然ル所、御陸(陣)半バ、結城・小山・真壁・下館領小田ノ近所、洞下・須賀・田中ノ庄、追テ兵乱ノ由風聞有ベシ。総州海上口ノ船、翌日鹿嶋浦ニ集メ兵乱ノ覚悟其ノ聞コエ有リ。陸地帰陣ノ上ハ府内衆必ズ恰モ出張ルベシト云フ。云テ惟ミルニ武田領青柳地郡ノ北然□ベシ。各此ノ儀尤モデ帰陣ノ口分大木戸ヨリ玉造忠、後詰芹澤打向カイ、悉ク打散シ、小田衆領三人討死ニス。
氏治ノ事、廿未満□幼人ノ為ニ乱有リ、強敵境ノ地諄ニ打チ透サルノ事、寄郡ノ襃賛此ノ事、然テ寛正五年甲申五月五日、玉造正重城ニ縄ワ立テ神前ニ流鏑馬ヲ号ス。文應元年丙戊八月十五日、手賀景幹城地ニ縄ヲ立テ、八幡ノ祭事ヲ号ス。之ヲ傅ル以上。 文禄元年壬辰三月
土子國政 田中主馬正 大場大和 國安豊後 宇都来掃部 尾東弥五郎殿
◆古文書から読み取れる時代背景
嶋崎左衛門配文状の「配文」は「配分」の書き誤りでないかと思う。文禄元年一月の段階では嶋崎城主、嶋崎左衛門尉義幹は、佐竹義宣が強行した所謂「南方三十三館の仕置」によって行方郡・鹿島郡の他の領主と共に謀殺され、一年前に既に亡くなっている。嶋崎の領内はかなりの混乱が続いていた時期ではなかったかと思われる。
佐竹義宣は、重臣の小貫頼久に命じて牛堀の夜越川を外堀とした堀之内大台城を築かせると共に、行方郡一帯に譜代の家臣を配置し、蔵入り地を設置している。従って嶋崎家の家臣達はこの時点では、佐竹の支配下に組み込まれていたことになるのである。
配文状の発信者は土子美濃守と大平主馬正となっているが、どちらも嶋崎家の重臣だった人物である。「何れも栖崎表へ押し寄せ」となっているが、行方郡には栖崎という地名はないので、箕輪氏は、柄(唐)ヶ崎表(玉造地内)ではないかとされている。
また、文禄元年の時点では常陸国の各領主達の力関係がそれまでとはがらりと変わっていたと思われる。佐竹氏は、天正十八年十二月十九日に水戸城の江戸重通を、同月二十二日に府中城の大掾清幹を滅ぼし、天正十九年二月九日に行方郡の諸館主を謀殺して各城館を落として一気に鹿島・行方の膨大な領地を手中に収めたのであった。義宣はその後任に諸代の家臣を配置して、領民を支配させたのであるが、新たな支配者に対して、領民は全く心を開くことはなかったといわれている。
更に、文禄元年は豊臣秀吉が朝鮮征伐の為に全国の大名に働きかけて十五万八千という大軍勢を肥前の名護屋城に召集した年でもあった。当然佐竹義宣にも出兵の命が下り、文禄元年正月に五千の兵を率いて水戸城を出発している。そして、名護屋には一年半滞在することになったのである。
ところで、「今度小田兵乱ニ付」とは何を表わしているのだろうか、これはあくまでも推量なのだが、その時、佐竹義宣は水戸にはいない。軍勢も五千となれば佐竹の規模から言っても三分の一程度は出陣していて領内はかなり手薄になっているはず、特に行方・鹿嶋はまだまだ不安定な状態にある。行方に侵攻するなら今しかない。そう思い、それが可能だった人物といえば、それは小田氏治以外にはない。
触れ状が出たのが正月、出陣は二月四日、おそらく二月中に小田氏治も軍事行動を起こし、栖(唐)ヶ崎周辺で合戦らしき事があったのかも知れない。島崎勢は佐竹勢に属して自分たちの領地を守るために戦ったという事になるのではないか。
触れ状の後半、「落華古郷ヲ出テ」であるが、箕輪氏は時季的にも二月では散る花も咲いていないし、出陣に際して落華という言葉は不吉なので、おそらく花々敷という文字を書き違えたのではないか。従って「華々敷古郷ヲ出テ」ではないかとされている。「西海波上戦場ノ望」とはこれも想像に過ぎないが、戦場が柄(唐)ヶ崎となると玉造近辺なので、小田勢が船で攻めてきた時には、霞ヶ浦の西側が船戦の戦場になるかも知れないという事ではないか。集合場所が「大野原」となっているが、この地名は行方には無いので、箕輪氏は「大生野原」ではないかとされている。次に、出陣の触れ状と一緒に添えられている過去に起きた合戦の経緯とその顛末を記録した文書であるが、「触れ状」とは特に関係は無いと思われる。合戦が起きたのは天文五年となっているので文禄元年より五十六年も昔になるのである。おそらく二月に起きた小山との軍事行動が結果は分からないが、何らかの形で全て解決した三月に、昔起きた小田と行方衆の間の出来事を記録に残したものと思われる。
◆おわりに
十六世紀中(天文年間1532~1554)に起きたとされる柄(唐)ヶ崎合戦とは、どういうものだったのか玉造町史より抜粋させていただいた。
【玉造氏(宗幹、正重)と小高氏(直幹、貞幹)の所領をめぐる争いが起こり、その紛争処理にあたった府中大掾氏(慶幹、貞国)の処置に不満を持った小高氏は、小田氏(政治、氏)に通じて紛争を有利に展開させようとした。小高氏には、下河邊氏・麻生氏・島並氏・嶋崎氏(利幹)・山田氏(勝治)・武田氏(通信)等が味方し、それぞれ柄(唐)ヶ崎、物見塚、大木戸へ押し寄せる。また、小田氏の軍勢も南野庄から渡船にて小高城に入る。これに対して玉造氏には、手賀氏(景幹)・鳥名木(時長)等が味方して防戦する。また、府中大掾氏からは、弓削為宗が軍勢を率いて玉造に向かい、小川氏・芹沢氏(秀幹)等が後詰の役をするという状況であった。
戦闘の状況がどれほどのものであったかは不明であるが、討ち死にした者が、小高家中の吉川半蔵と、手賀家中の山口和泉守の二人であったと伝えられているところをみると、両軍の主力部隊が全面衝突をしたわけではなさそうである。さらに、対陣の途中で小田氏の軍勢が、結城氏・小山氏・真壁氏などの小田領への侵入ありとの報によって、急遽退陣するという事態に至り、決定的な勝敗をみないまま対陣が解かれたようである。
しかし、形勢不利とみた小高氏は、小田氏を頼って逃れ、島崎氏は、府中大掾氏に詫び言を申し入れている。そして、当面の解決策として、芹沢秀幹が小高城へ入り、行方氏を称してその地域支配の任務にあたる。後には、小高貞幹の次男亀房丸(後の治部大輔)が、大場十郎左衛門に伴われて秀幹に詫び言を申し入れ、秀幹の娘を嫁に迎えて、秀幹を芹沢に帰し、ようやく小高城に復帰したのである。
この合戦の背景を考えてみると、玉造氏と小高氏という隣接する行方一族の間における争いを契機として、卓越したリーダーが存在しなかった行方地方の中小領主層の間で、かっての行方四頭とは異なる新たな勢力創出への気運が生じ、その動きと、府中大掾氏・結城氏・真壁氏や小田氏・佐竹氏・江戸氏など常陸の戦国史を彩る諸氏の勢力拡大に向けた利害関係とか複雑に絡み合っていたと思われる。さらに、その背景には上杉氏の勢力、及び古河公方の勢力と、新たな東国支配体制を築こうとしていた後北条氏の勢力が存在していたのである。』
柄(唐)ヶ崎合戦が起こったのは永禄二年(1599)という説もあるが、小田政治の没年が天文十七年(1546)、その後氏治が家督を継承、芹沢秀幹の没年は天文二十二年(1552)、更に、島崎家左衛門十五代・嶋崎左衛門尉利幹の没年は弘治三年(1557)、永禄二年はその二年後なので、おそらく天文年間に起きた出来事ではないかと思う。
そして、文禄元年は天文五年から数えると五十六年も経っているので、どこの家中も代替わりが起きていたはずである。小田氏治は、天文五年の段階では二十歳前後の若者だったようだが、長生きしていれば七十過ぎの老人という事になる。当然子の代に変わっていたはずである.。若い時に体験した柄(唐)ヶ崎合戦では、帰陣を余儀なくされ、おまけに途中で二・三名の戦死者を出すなど全く不本意な終わり方だった。その時の悔しい思いは時が経っても忘れられず、仕返しの時をじっと待っていた。小田氏にとって文禄元年はまさに千載一隅、絶好の機会だったのではなかったか。
但し、佐竹氏の側もせっかく手に入れた領地をそう簡単に手放すようなへまをするはずはないのであって、佐竹氏の勢力から推測するとたとえ留守部隊とはいっても小田氏の勢力では全く歯が立たなかったのではないか。そして、小田氏の目論見は一度ならず二度までも失敗に終わったのではないのだろうか。その結果を知る術はない。
最後に顛末書の最後の方「氏治ノ事、~寄郡ノ褒賛此ノ事」はどういう意味か分からない。更に、その後の年号であるが、寛正五年甲申は(1464)年、文應元年(1260)で寛正とは二百四年も隔たりがあり不自然、そして千支も庚申なので異なる。正しくは、文正元年丙戊(1466年)のことではないか。
そして、繰り返しになるが、両方の文書の日付から考えられる事は、文禄元年正月に小田が兵を挙げたので、佐竹の命令を受けて島崎家の元重臣が出陣の触を出した。二月中には一切の軍事行動に決着がついて元の静けさに戻った。三月になって、やっと落ち着いてほっとしたところで、自分たちがやったこと、即ち二度にわたって小田氏の侵攻を食い止め、撃退した事を子孫々にまで伝え残すことを考え、関係者で相談して書き留め、内容を確認した後著名したものと考えられるのである。 (行方市・山野恵通)
引用 鹿行の文化財第47号 平成29年4月30日 鹿行地方文化研究会
鹿行文化財保護連絡協議会 発行