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WATASI(M)のツイットNO.248

2015-03-30 10:11:52 | 日記
2015年3月26日(木)
 今日はピアノの鍵盤に一度も指を触れなかった。腰の具合が悪くて、ピアノに向かえば腰を更に悪くするような気がするからだ。何と言っても体が一番大事だ。体を壊すと、人間は何もできない。
 ピアノに向かう代わりにパソコンを開けてパソコン日記を書いた。それをブログに転載し、第247回目の投稿をし終わった。時計を見たら夕方の5時近くになっていた。

2015年3月27日(金) 
 これまで、パソコン日記もこのブログに掲載することを念頭に書いてきた。ブログに転載することが頭にあれば、書く材料に乏しい日であっても、それこそ“几帳面”に 、パソコン日記に“何か”書いておくことになる。だが、何時までもこの“几帳面”を維持することなど出来はしない。ブログに新規投稿する日が段々に間遠になるに違いない。
 そうなれば、本当に書きたいと思う事だけ書くことになるだろう。そして、たとえ投稿間隔が1ヶ月くらいになっても、“誰かに読んでもらいたい”と思った時だけ、それをブログに掲載するという形になると思う。

 今日から少し温かさが戻った。そして暫くの間、この温かさが続くようだ。23日(月)から昨日の25日(木)まで寒さが戻り、少し強い風の日もあったが、あの風は“冬の終わり、春の訪れ”を告げる「比良八講荒れ終い」だったのだろうか。

 70才を迎えようとして、私の体はガタガタになって来たように思う。最近気になり続けている事は“異常に体温が低くなっている”ことだ。原因が分からない。両親とも冷え性のようであったが、遺伝的なものとは考え難い。兄弟達に低体温で困っている者はいないからだ。もしかして服用している血圧降下剤やホルモン薬が影響しているのかも知れない。食生活を始めとする生活習慣が齎しているのかも知れない。或いは脊柱管が狭窄していること自体に根本的な原因があるのかも知れない。ということで、原因を探り出すことは困難である。私の掛かっている何人かの医師からも明快な答えは返ってこない。医師にも解らないことがあるのは当然で、またさほど気にすることはないのかも知れない。
 それにしても、春の温かさが始まろうとしているのに、パソコン日記のキーボードを叩く自分の手の冷たさに呆れるばかりだ。

 夜、テレビのスイッチを点けたら今日からプロ野球が始まっていた。しかし、プロ野球を始めとして“外界の事柄”に段々関心が薄れて来ている自分に気が付く。

2015年3月28日(土)
 NHKの朝の連続テレビドラマ、「マッサン」は今日が最終日のようだ。放映され始めたのは去年の4月からだっただろうか?半年間続いたのかそれとも一年間だったのかハッキリ覚えていない。もし一年間続いていたのなら、随分とこの一年は早く過ぎ去ったように思う。

 太陽が出ており、随分と温かくなった土曜日の朝。
 『雪やこんこ~♪、霰やこんこ~♪、降っては、降ってはずんずん積もる~♪』
 灯油巡回販売車の宣伝唱歌が聞こえてきた。
 『~♪・・この冬は御贔屓にして頂き誠にありがとうございました。本日をもちまして灯油販売は終了させて頂きます。未だ寒い日があるかと思います、どうかお買い上げ頂きますように宜しくお願い申し上げます・・・今年最後の巡回販売です・・~♪』
 『雪やこんこ~♪、霰やこんこ~♪、降っては、降ってはずんずん積もる~♪』

 「雪やこんこ~♪、霰やこんこ~♪・・・」
 この唱歌は“冬を唄った歌”であるけれども、天気の良い日、暖かくなって桜が咲き始めようとするこの季節に聴かされると、何だか“春の到来を喜ぶ歌”のように、とても愉しげに聞こえてくる。
 この歌は、よく考えて見れば、“冬を喜ぶ歌”だったのだ。

 【※「こんこ」の正確な意味・語源は不明で諸説あるが、「来む」(来い=降れ)と関係ある言葉と思われる。
   特に(1)「来む来む」(降れ降れ)、(2)「来む此」(ここに降れ)の2説が有力とされる。】

 我が家の梅の花に、美しい小鳥や蜂がやってきている。時折、風が吹き、梅の花弁が、桜の花弁と同じように、ひらひらと舞い落ちている。

 体温を計ってみた。最初35.9℃と出た。もう一度計ったら36.0℃だった。もう一度計ってみて数値が下がったら気分を悪くするので、計るのは2回で止めた。

 今日は土曜日で、ピアノのレッスンの日。
 25日(水)に小指を傷め、腰の具合もよくなかったので、25日以降全く練習しないまま今日のレッスンに臨んだ。練習不足は仕方ないとして、“小指がまた痛み出さないか?”、“レッスンの1時間、腰が痛まずにもってくれるだろうか?”を心配しながらのレッスンとなった。 
 幸いにもそんな支障は出現せず、無事レッスンを終えられてホッとした。

 今日は、「きらきら星変奏曲」の12個ある変奏曲の中の「第8番目の変奏曲」を教わった。この曲で唯一の短調(ハ短調)の変奏曲であるが、“何と巧みに作曲されている変奏曲だろう!”と感心してしまった。この変奏曲部分もやはり2拍子であるが(この曲は最後の第12番の変奏曲だけが3拍子となっている)、1拍目を2泊目が追いかけ、3度の和音が順次移動して行く部分や、3小節毎に同じメロディーが1オクターブ毎に順番に下がりながら追いかける(唱歌で言えば輪唱のような)部分が大変美しく、その巧みさに大変驚いてしまった。そして、先生が模範に弾いてみせてくれるのを聴いて、“表情の付け方によって、こんなにも美しい曲になるのだ”と、もう一度感心してしまった。

 「あと1年ほど、少なくともきらきら星変奏曲が終了するまで、レッスンが続けられたら良いのだが」と願う。
 やり残している「ブクミュラー25の練習曲」のNO.24,NO.25もやり終えることが出来たらもっと嬉しい。
 
2015年3月29日(日)
 お昼過ぎまで雨。
 午前中は10時過ぎ頃までテレビを見てのんびり過ごした。
 お昼御飯の後、昼寝にしてはぐっすり過ぎるくらい1時間以上眠ってしまった。
 身体がそれを赦さないこともあって、ピアノの練習から解放される(=サボリ始める)と、一日が随分と余裕のあるものになる。

 夕食は、私のリクエストに応じて、Hさんに特製の餃子を作って頂き、食べ過ぎるくらい沢山の御馳走になった。もう筍が出ているのか、筍の料理も作って下さっていた。この筍料理が主役の餃子を凌駕しそうなくらい美味しくて沢山頂いた。
 Aさんからいろいろ面白いお話を拝聴することも出来た。
 
2015年3月30日(月)
 プロ野球は、阪神は、昨日も競り勝って、3連勝のスタートを切ったようだ。
 年をとってきて、段々と過去が曖昧になってきているが、昨年の記憶を掘り起こせば、阪神は去年も“春の珍事”の良いスタートだったように記憶するのだが・・・。

 今日からNHK朝の連続テレビ小説は、「マッサン」⇒「まれ」に変った。
 その第1回目を見た。何だか面白そうだ。
 このテレビ小説の舞台は、私にとって思い出の深い場所、能登半島の“外浦”から始まっている。
 朝の連続テレビ小説はこれまであまり見なかったが、去年の「マッサン」から見始めた。朝の連続テレビ小説を見だすと、頭を痛める内容のものも含まれるテレビニュースだけを見てテレビを切っていた頃より、気分がほぐれてゆったりした心持になる。あくせくした気持も遠のくような気がする。生活も規則正しくなる。
 

WATASI(M)のツイットNO.247

2015-03-26 15:25:57 | 日記
2015年3月23日(月)
 “冬のウオーキング”に逆戻りした。
 セーターと薄手のジャンパーを着込んでウオーキングに出かけた(手袋は勿論しっかりして行った)。このところ暖かかったので、この服装では汗をかくかなと思っていた。しかし、家の中はそれほどでもなかったのに、外に出て見ると随分と寒かった。
 近江神宮の第一の鳥居を潜ると、自動車が行き交う道路から離れて静かになる。ここから、本来ならば砂利道になって神苑な雰囲気が醸し出されていてもよさそうなものである。しかし、第一の鳥居から第二の鳥居迄の200~300mほどの参道は、砂利が殆どなくなっていてデコボコした道になっている。毎年行われる、11月3日の流鏑馬行事が行われるたびに道路が掘り返されるからかもしれない。砂利が沢山、且つ深く敷き詰められておれば、歩き易くて、周囲を見回す余裕も出るというもの。下ばかり見て、固くて歩き難い道を用心しながら歩かねばならないとなると、神寂びた神社の雰囲気を味わうことも出来ない。歩き辛いので、参道の途中で“第二の鳥居の階段迄は未だ大分あるかな?”と先の方を眺める。逆に、大分歩いただろうかと後ろを振り返る。注意して見ればこの200~300m程の参道は緩やかな“登り坂”になっている。第一の鳥居の所から第二の鳥居の階段下までは“垂直に測ると2m位は高くなっているだろうか”、前を見、後ろを振り返って目測しながら歩いた。
 JR大津京駅から私の家までの道路も気が付かない程の緩やかな“登りの坂道”になっている。このことに(若い頃は平らな道だと思っていたのだが)年をとってから気付いた。最近、JR大津京駅までの行きは楽なのだが帰りはキツク感じるようになっている。
 このところ、家から近江神宮本殿まで一気に歩けなくなっている。最初の階段を登って“第二の鳥居を潜った直ぐ右手にある大きな石に腰を掛けて休む”という癖がついてしまっている。今日も其処で一休みした。ほんの3~4分ばかり休むと、次の楼門へと上がる階段を登るのは何でもなくなる。楼門を潜り、最後の本殿へ上がる階段は、階段の数が一番少なく、最後の階段であるということもあって、“気合を入れ、力を振り絞って”一息に登る。
 登り切れば先ず腰を掛けて一休み。息を整え、足を休め、振り返って下の方を見る。今、神社では、本殿の方から見ると楼門の右方向、時計博物館の屋根の修理が行われている。覆いの幕が張ってあるのだが、その幕に神社仏閣専門の修理業者の名前が、視力検査宜しく私の目でやっと見えるくらいの大きさの文字で書かれている。
 神社も、砂利道のメンテナンスや屋根の修理など、何かと物入りなことだと思った。
 今日は、下(砂利道)を見、上(時計博物館の屋根)を見ながらのウオーキングとなった。
 今朝の天気予報では最高気温は10℃であったが、やはりその予報に相応しい寒さだった。汗をかくことはなく、手袋をしていても手はやはり冷たかった。宇佐八幡神社下拝殿の所で手袋を脱いで手を見てみた。手は紫色をしておりその異常さに自分でも驚いた。

2015年3月24日(火)
 昨日よりも更に寒くなったような気がする。最高気温の予想は8℃と昨日よりも2度低くなっている。風も少し吹いているので余計に寒く感じる。
 我が家の梅の花は咲き始めたばかり、未だ元気だから散りはしないだろうと思う。しかしこの寒さで“梅の木が風邪を引きやしないか”と心配になる。だが、梅は桜に比較すると風にも寒さにも強いので、まずは大丈夫だろうと“我が子のように気を遣う”。
 未だ咲かない近所の桜に対しては、“この2~3日の寒さをやり過ごしてから咲きなさい”と言ってやりたい。

 今日、ウオーキングの時、近江神宮の第一の鳥居から第二の鳥居石段下までの距離を歩行計測器で測ってみた。その結果、(昨日の記事には大まかに200~300mと書いたが)凡そ230mであることが分かった。

2015年3月25日(水)
 朝早く目覚めたので例によって本を読んで過ごした。「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)第7巻を読み終えた。
 最後の「船中八策」の章で、竜馬が長崎でおりょうと別れを告げる場面(確か、この後竜馬は京都で中岡慎太郎と共に暗殺されるから最期の別れになった筈と記憶する)に次のような文章が載っていた。唐突ですが、高杉晋作の辞世を詠んだところを大変興味深く読んだので、ここに載せておきます。
【 ・・・・・・
 「今日は何日だ」
 「九日」 
 「十四日は高杉の命日になる。おれは不在だが、寺町の寺へでも行って供養をしてやってくれ」
 高杉晋作は二カ月前の四月十四日(1867年4月14日)、持病の結核が重くなり、満二十七年八カ月の若さで死んだ。その最期の様子や辞世の歌などを、竜馬は長崎に来た長州人たちから聞いて知っている。
 「もし天がこの地上に高杉を生まなかったならば、長州はいまごろどうなっていたかわからない。こんにちの天下の情勢の一半は、高杉が作ったものなのだ」
 竜馬はしきりと高杉のことを思いだしているのは、あの変幻出没、韜略(とうりゃく)縦横の高杉晋作なら、いまの事態にどんな手をうつだろうかということを考えていたからである。
 「辞世もあの男らしい」
 高杉は病い革(あらた)まるや、幼な子の東一のあたまをなで、
 「父の顔をよくおぼえておけ」
と言い、やがて筆をとり、
 「面白き、こともなき世を、おもしろく」
辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病していた野村望東尼(もとに)が、
 「住みなすものは心なりけり」
 と詠んだ。高杉はうなずき、
 ・・・面白いのう。
 と言ってしずかに眠った。それが、高杉の最期であった。
 竜馬は、ぼう然とした顔で杯をかさねている。
・・・・・・】
 ※この後、竜馬は「大政奉還策」、「それ以後の政体案である“八策”」を携えて、後藤象二郎等と共に京都に向かう(※後藤象二郎の方は、大坂で、山内容堂が四賢侯会議《=薩摩藩・島津久光、土佐藩・山内容堂、越前侯・松平春嶽、伊予宇和島侯・伊達宗城の四者会談》から逐電して“土佐に逃げ帰った”ことを知り、大坂から山内容堂を追って竜馬の「大政奉還策」を言上に土佐へ向かう)。

 それにしても、竜馬なる人物が、若しこの歴史小説に書かれている通りの活躍をしていたのであれば、“坂本竜馬と言う人は大変な人物だった”と改めて思う。若干32歳の若さで亡くなった人生である。思わず、病を託ちながら70歳になろうとしている自分の人生と比較していた。

 ※誰もが知っている坂本竜馬(1835~1867)だが、小説から離れ、歴史的事実として彼の一生を簡潔に書き記すならば、以下のように纏められる。
【幕末の志士。土佐藩郷士。勝海舟に航海術を学び、1864年長崎で社中(後の海援隊)を結成、海運と貿易に従事。薩摩長州両藩の和解に奔走、1866年薩長連合を実現。海外情勢に通じ、公議政体論を唱え、大政奉還を推進したが、中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。】

 竜馬が生きた時代は、何と多くの有志が、日本の歴史変革に巻き込まれ、若くして死んで行ったことだろう。彼等の犠牲の上に今日の日本がある。そんなことを思いながらこの本を読んでいる。愈々「竜馬がゆく」を読むのは最終の第8巻となる。“大変面白いので”(と言っては変革の歴史の中て死んで行った人達に不謹慎かも知れないが)、第8巻を読むのが今から楽しみだ。

 今日は長々と書くことになるが、「小指の想い出」の日にもなってしまったので、この事も書いておきたい。この2~3日、大変寒いにも拘らず凍える手でピアノの練習に励んできた。今朝、突如右手小指に痛みを感じた。更に無理をして練習を続けていたら今度は手の甲までおかしくなり、そのまま続けても練習にならなくなってしまった。
 更には、矢張り気張ってピアノの練習をしていたからだろうか、腰まで痛み始める始末。ぎっくり腰が再発したかのようだ。しかもその痛む部位は丁度脊柱管狭窄症で骨がズレテいると指摘されたところなので、大変心配になって気分が鬱陶しくなった。

2015年3月26日(木)
 病気の事ばかり書くことになる。
 愚痴ばかり書き連ねているようで自分でも嫌になるのだが、私の対面している最大の問題なので仕方がない。
 前立腺癌は今後どのように推移して行くか分からないが、急激に悪化して直ぐに命がどうのこうのということはないだろうと思っている。父のケースでも(父も矢張り前立腺癌で亡くなったのだが)、「しんどい」と言いながらも、前立腺癌であることが明らかになってから2~3年生き延びた。
 私の“平熱が低く”また異常なまでに“冷え症”であることも、気掛かりではあるが、直ぐに命がどうのこうのという問題ではないと思っている。

 昨日から、再度“ぎっくり腰らしきもの”が出現して、これで気が滅入らされている。
 ぎっくり腰も、別段、生命に直結する問題ではないと思うが、ぎっくり腰になると生活が著しく不便になるので、一番気持ちが落ち込んでしまう。起居振る舞いが困難になり、普通に生活をしていることすら困難になるからだ。
 勿論、趣味のピアノに向かうことなど出来はしない。気晴らしに外に出ることも叶わない。
 こうなってくると、何らかの病を得て、将来“ベッド生活になった時”の悲惨な状況までもが思いやられてしまうことになる。
 人生をエンジョイ出来る今、まだやり残したことがあれば、その“やりたいこと”をやってしまいたいとまで考えるようになる。

 やりたい事?それは一体何なのだろう?
 ピアノに励むのは“将来上手に弾けるようになるのを楽しみ”とするからだ。だからこそ毎日努力するのであり、言ってみれば何年も先の成果を楽しみにする“長期戦の楽しみ”である。
 「残された人生が長期戦に堪えられなくて、ピアノに向かうこと自体が身体に悪く、控えた方が良い」と言うことになれば、ピアノを楽しむことはは「やりたい事」から即刻除かれることになる。そして残念なことではあるが直ぐに諦めも付く。

 「Q.O.L.(生活の質)」とよく言われるが、「闘病生活」に落ち入った時の自分の姿、惨めさが想像される。
 「自分がやりたいことが出来なくなり、他人の世話に頼りきりになる“闘病のベッド生活”が如何に辛いものであるか」を思い巡らしてしまった。
 
 これが杞憂であれば良いのだが、それは“ブログを続けられなくなる”ということにも繋がってしまう。

WATASI(M)のツイットNO.246

2015-03-23 10:02:58 | 日記
2015年3月20日(金)
 この1週間は温かかった。
 “何時咲くか、何時咲くか”と毎日見ていた我が家の梅の木は、今日“開花”した。

 

 日本列島の南の方では“桜”の開花日が何時になるか?と秒読みのようだが、我が家の“梅”は本日漸くにして目出度く笑顔を見せてくれた。南方の桜よりも、辛うじて早く咲き始めたことになる。それで結構だと思う。マイペース、マイペース。

 良い天気だったので“ウオーキング日和”と言えた。しかし敢えて出掛けなかった。一昨日の“山開き(皇子山古墳登り)”で足を酷使したので、今日は自重することにした。足の張りはとれているが膝頭がガクガクしているので休んだ方が無難だと考えた。大分前から、膝を屈伸させたり回転させたりすると膝辺りでグキグキと音がしている。しかし、これまでのところ膝の方は大丈夫である。
 膝にしろ、腰にしろ、それ等の部位を傷めないためには、周辺の筋肉を鍛えておくことが大事だと思う。そうでないと直ぐに“不調”を訴えられることになる。しかし無理をするのが一番いけないということで、今日のウオーキングは中止にした。

 夜、「新・御宿かわせみ」を読了した。
 明治維新後の江戸の生活風景がよく描かれているように思った。
 上野戦争(=彰義隊の旧幕府軍と新政府軍との戦争)後の江戸の町の荒廃ぶりや、わが国でも明治5年12月から太陽暦が採用されたことによる庶民の困惑ぶり(今では月曜日から日曜日までの1週間の制度は、当たり前のように私達の頭に入り、生活リズムの形成に役立っているが、この制度が採り入れられた当初の人々は、随分と面食らったようだ)、日本でも庶民の間で牛乳が飲まれるようになったこと等々。

 また、次のようなことが書かれていて、歴史的な事柄でも、私の知識を正確なものにしてくれた。
【・・・士族といえば新政府が旧武士階級に与えた族称で、そういった形で武士階級を存続させたのは御一新後のとりあえずの兵力のためであった。従って明治6年に徴兵制が実施されると士族の軍事力は不要となり、それまで、旧家禄に応じて支給されていた政府の援助もなくなって、多くの困窮士族が出ている。とはいえ、まだ世の中には士族というだけで元武士の矜持を持つ者も少なくないし、それを認める風潮も全く失われたわけではなかった。・・・】

 更に、この本の中で、「日暮里」という懐かしい地名にも出会った。
【・・・その頃、神林麻太郎と畝源太郎は渋谷川のほとりにある仙寿院という寺の境内で休んでいた。・・・
・・・それでもと気を取り直して荒れ果てて野っ原のようになっている青山中を歩き廻り、遂に足が棒になってたどりついたのが仙寿院であった。ここはもう千駄ヶ谷の中である。・・・
・・・
「ここは昔、桜の季節に見物人が大勢、集まったそうだ」
「本堂の近くに新日暮里(しんひぐらしのさと)と彫った石碑があったな」
谷中の日暮里と肩を並べるほど景色がよかったんだと・・・」
が、今は花の季節でもなく、参詣人も見物客も姿がない。
・・・】
 ※ 私は、学生の頃、東京は上野に近い場所に下宿していたことがあるので、JR日暮里駅付近はよく知っています。しかし、「日暮里が景色の良い所であって、そのような由縁で“日暮里”という名前が付けられた」ということはこの本を読んで初めて知りました。
 私が東京に出て間がない頃、「日暮里」のことを“ひぐれさと”と呼んで、下宿先のおばさんに「“にっぽり”と言うんですよ」と教えてもらったことがありました。その学生時代の頃が、今はとても懐かしいです。

 更に、本の終わりの方にはこんなことも書かれていた。
【・・・
 午前中、曇っていた空がよく晴れて、縁側にまで日が射して来た。
「まあ、驚きました」
「新しい料理の皿を運んで来たお吉が相変わらずの素頓狂な声でいった。
「お天気なのに、雨が降っているんですよ。どう見たって雲一つありませんのに・・・」
 るいが開けはなしてある縁側から外を窺った。
 たしかに陽は燦々と輝いているのに、細く霧のような雨が落ちている。
「天泣(てんきゅう)と申しますのでしょうか」
 そっと、るいがいった。
「昔、教えられたことがございます。晴れ渡った空から降る雨は、天が泣いているのだとか・・・」
 誰もが同じように庭の上の空を仰いだ。
 ・・・】

 ※ 晴れているのに雨が降ることを、大津では「狐の嫁入り」などと言うが、この本を読んで、いろんな言い方があることを知った。

2015年3月21日(土)
 春分の日(祭日)
 宮城県のJR石巻線が4年振りに全線開通。
 JR女川駅で、午前6時の始発の記念列車が祝福されながらプラットホームを出て行く風景がテレビニュースで映し出されていた。
 今日から、春の選抜高校野球が始まった。近畿からは7校も選抜されて出場するようだ。滋賀県の代表は近江高校。
 ピアノのレッスンは暖房をつけなくても部屋は充分に温かかった。

 

2015年3月22日(日)
 日曜日の朝はテレビを観る時間が長くなる。
 仕事をリタイヤーした“毎日が日曜日”である人間にも、テレビのお蔭で日曜気分を味わうことが出来る。

 日曜日には“1週間のまとめ”のニュースが見られる。
 3月18日(水)には、「2011年のアラブの春」の優等生と言われたチュニジア、その首都チュニスのバルドー博物館で観光客が狙われるテロ事件が発生した。21人が殺害され(日本人3人を含む)、多数の負傷者が出た(日本人3人を含む)。
 3月19日(木)には、落語家で人間国宝の桂米朝さんが亡くなった。
 その他、アップツーデートのニュースが報道されたり、討論されたりする。
 一方で、「プロ野球が開幕まであと5日」、「淡路島で花まつり」、「富山湾は、今、ホタルイカ漁が最盛期」などと“春の便り”を目にすることが出来る。
 他方で、「クリミア半島のロシア編入時、プーチン首相は核兵器使用の準備をしていた」という報道とか、「安全保障整備法案(集団安保体制)」などの“物騒な討論”がなされる。
 私の頭の中で、「もしかして、再度、人類が忌み嫌う大規模な戦争が勃発するかもしれない」、という懸念がチラッと過る。

 21日はお彼岸ということで、“お萩”を頂いた。
 昨日私が留守をしていた為、今日頂くことになった。
 お昼御飯代わりにして食べたら美味しかったので、結局一度に全部食べてしまった。

 

2015年3月23日(月)
 台所から応接間に入る段差僅か2cmの敷居のところで、右足を躓かせてしまい、転んでしまった。右足が充分に上がっていなかったようだ。転ぶ瞬間、右足脹脛に痙攣のような痛みが走った。右膝を強く打ち、右手首には血が滲み出た。
 
 昨日の最高気温は20度だったのに、今日の最高気温予測は10℃!

 未だ中二日だけれども、パソコン日記が3頁になったので新規投稿します。

WATASI(M)のツイットNO.245

2015-03-20 09:02:29 | 日記
2015年3月16日(月)
 最高気温16℃と急に温かくなった。
 この暖かさは今週いっぱい続くが、来週また少し寒くなるという。

2015年3月17日(火)
 今日の予想最高気温は18℃。降水確率は午前、午後ともに0%。温かくなると身体が一遍に楽になる。昨日の暖かさで我が家の梅も一斉に咲き始めるかと思ったが、まだのようだ。しかし、まん丸く膨らんできた梅の蕾が鈴なりになっている。咲いている時に劣らず美しい。
 “見て!これから咲くよ!”と喜びを表しているように思う。
 

 今日の最高気温は、結局予報を上回って大津では20℃だった。昨日よりも更に温かくて過ごしやすい。この暖かさに浮かれて「春の景色を見られるかもしれない」とカメラを持って、何時もの時刻より早めにウオーキングに出掛けた。
 宇佐八幡神社下拝殿で小休止している時、小学生達が坂道を登って帰って来る姿を見た。今日は随分と温かくなったので、温かい日差しの中、子供達は上着を脱ぎ、顔に汗を浮かべて、下の方から柳川沿いの坂道をエッチラ・オッチラと登って来る。皆、一様に沢山の荷物を持っている。体が小さいので、坂の上から見ていると、まるで荷物が歩いて来るように見える。荷物は、学校で使う上履き袋、楽器様の物、暑くて思わず脱いでしまった上着等々、持ち切れないくらい持っている。
 「6時限目が体操やったんやもん・・暑い!」と言いながら、汗をかきかき登って来る子供もいる。
 子供達を見守る“見守隊のおばちゃん”が下拝殿の前で待ち構えている。子供達はおばちゃんと挨拶を交わして帰って行く。
 この上手には水車谷団地などの集落がある。山手に住む子供達は“毎日の登下校で大いに体が鍛えられることだろう”という感想を持ちながら、私も、見守隊のおばちゃんと共に、暫しの間子供達を見守る時間を持った。
 カメラを持って出たが、結局、写真は撮らなかった。

 スーパー・イオンで買い物をしての帰り道のこと。買い物袋を持ってぶらぶら歩いて帰る途中、大きい2匹の犬を連れた御婦人とすれ違った。狭い通路を通った直後のことだった。2匹の犬の中の1匹が、私が手に持つ買い物袋にいきなり噛みついた。ビニールが破れ、中の品物が一部地面に落ちた。突然のことだったのでびっくりしてしまった。一見大人しそうに見える犬だったが凶暴な犬もいるものだ。
 犬を連れて散歩している人によく出会うが、犬は良く飼い慣らされていて「人に危害を加える犬などはいない」という先入観を持ってしまっている。しかし今回の出来事でこの考えを改めることになった。買い物袋でなくて足にでも噛みつかれたら大事だった。

2015年3月18日(水)
 日本全国の山に先駆けて“山開き”を行った。
 “皇子山古墳”に登った。
 温かさに励まされてのことである。勿論今年初めてのことで、皇子山古墳にウオーキングに来るのは、去年以来、3~4ヵ月振りになる。木々は切られたのだろうか、或いは枯れたり、枝葉が落ちたりしていて、随分と見晴らしが良くなったように感じた。
 

 

     

 今日、皇子山古墳に上り、琵琶湖を眺めて、2月20日浜大津から雪見船“インターラーケン”に乗って長浜まで行ったことを懐かしく思い出した。
 「あの浜大津辺りから出港して、目の前に広がるこの湖をずーっと北上して行ったのだ。湖に浮かんだ船から見上げた山を、今度は、今、その山の上から湖を眺め見下ろしている・・・」 
 未だ1ヶ月も経たないのに“懐かしく”思ってしまう。
 ドップラー効果音のように、何もかもがどんどん過去のものになってゆくような気がする。
 

 帰宅して1時間程して雨が降り出した。降る前にウオーキングに出られて良かったと思った。
 (※ 翌日、足が張った。山登りなので、使う筋肉の部位が、近江神宮へ行く時とは異なるようだ)

 ※ここに、前回の「WATASI(M)のツイットNO.244」の3月15日の記事を訂正しておきます。
 「防備録的」⇒「備忘録的」
 「防備録」などという言葉はないので意味が解りませんね。自分でも「何かおかしいな」と思いながらも書いてしまいました。「備忘録」という言葉が出て来なかったのです。これは“年をとってきた所為”ということにしておきます。

2015年3月19日(木)
 昨夜から今朝にかけて暖かく、電気敷毛布を点けなくても温かかった。実際に使っている布団は普通の布団なのだけれども、“羽毛布団を蹴飛ばしているという判り易い夢”を見ていた。

 今朝、“実践「免疫革命」爪もみ療法”を読み終えた。お陰で新たな知識を得ることが出来た。
 この本は、西洋医学に疑問を投げ掛け、東洋医学的な“免疫療法”(=病気ではなくその人自身を治す治療法)を唱える本だった。
 この本は疫学(=疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問)的なアプローチの本であり、エビデンスを積み重ねた“科学書”と言い切れるかどうかは分からないが、概ね、書かれている内容に納得出来た。自分の経験に照らしても、書かれている内容に符合する点が幾つもあった。“科学的”だと言えるかどうかは問題でなく、要は“病気を実際に治せるかどうか”が重要なのだ。
 本の後半部の目次の見出しの中で、“年齢に関わるもの”を列挙すると、「長寿だからがんになる」、「年齢でも変わる自律神経の働き方」、「年をとると誰もが顆粒球人間に」などがあったが、書かれている内容には一々納得することが出来た。
 この本を読んで、次のようなことも考えた。それは、私はよく「几帳面である」と人に言われるのだが、このような性格を持っていると、ストレスを抱え込み、癌などになり易い交感神経が優位に働く“顆粒球人間”になってしまうのではないかということである。
 また、世の中には、(自分では気が付かないで)やたらと人を批判し、攻撃的な人がいるが、そんな人と付き合って気分を滅入らせることも病気を抱える原因になるのではないだろうかとも思った。矢張り、ストレスを受けることになり、リンパ球よりも顆粒球を増大させることになると思われるからだ。そのような攻撃的な人間は“他人の顆粒球を増大させる異常人間”と捉え、相手にしないのが賢明だと気が付いた。この本を読んだ収穫の一つである。
 更には、音楽の中にも、交感神経に働きかける音楽と、副交感神経に働きかける音楽とがあるのではないかとも思った。若者の好む(私には)騒々しい音楽は、若者には“副交感神経”に働きかけてリラックスさせる効果があっても、年配者にとっては“交感神経”に働くストレスと感じ、顆粒球を増大させているのではないだろうか。
 “逆も真なり”であって、私の好きな「おやすみなさい」(平岡養一)、「ノクターン嬰ハ短調(遺作)」(ショパン)、「ゴルトベルグ変奏曲:アリア」(バッハ)は、“見事な間合いを持った、恰も時を刻むような音楽”と感じる私にとっては、副交感神経に働いていることは間違いないのだが、若者には交感神経に働きかけるストレスになるのかもしれない。尤も、私が好きなこれ等の曲も、もし仮に、朝から晩まで絶え間なく聴かされれば、私であっても逆にストレスに感じるに違いない。“神経”というものはそういうものだと思う。

 雨の中をMさんが訪ねて来てくれた。良い助っ人が来てくれたとばかり、書斎の整理を手伝ってもらった。お陰で、短時間で綺麗になった。

2015年3月20日(金)
 今日、漸くにして我が家の梅が咲きました。
 この何日か、毎日のように、開花一番乗りの梅の蕾はどれになるだろうかと梅の木を眺めていました。
 結局、一番に咲きだした梅を探し出すのは無理でした。今朝、20~30個ほどの蕾が一挙に“微笑み”だしていたからです。
 これから梅の木の写真を撮っておこうと思っています。