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WATASI(M)のツイットNO.245

2015-03-20 09:02:29 | 日記
2015年3月16日(月)
 最高気温16℃と急に温かくなった。
 この暖かさは今週いっぱい続くが、来週また少し寒くなるという。

2015年3月17日(火)
 今日の予想最高気温は18℃。降水確率は午前、午後ともに0%。温かくなると身体が一遍に楽になる。昨日の暖かさで我が家の梅も一斉に咲き始めるかと思ったが、まだのようだ。しかし、まん丸く膨らんできた梅の蕾が鈴なりになっている。咲いている時に劣らず美しい。
 “見て!これから咲くよ!”と喜びを表しているように思う。
 

 今日の最高気温は、結局予報を上回って大津では20℃だった。昨日よりも更に温かくて過ごしやすい。この暖かさに浮かれて「春の景色を見られるかもしれない」とカメラを持って、何時もの時刻より早めにウオーキングに出掛けた。
 宇佐八幡神社下拝殿で小休止している時、小学生達が坂道を登って帰って来る姿を見た。今日は随分と温かくなったので、温かい日差しの中、子供達は上着を脱ぎ、顔に汗を浮かべて、下の方から柳川沿いの坂道をエッチラ・オッチラと登って来る。皆、一様に沢山の荷物を持っている。体が小さいので、坂の上から見ていると、まるで荷物が歩いて来るように見える。荷物は、学校で使う上履き袋、楽器様の物、暑くて思わず脱いでしまった上着等々、持ち切れないくらい持っている。
 「6時限目が体操やったんやもん・・暑い!」と言いながら、汗をかきかき登って来る子供もいる。
 子供達を見守る“見守隊のおばちゃん”が下拝殿の前で待ち構えている。子供達はおばちゃんと挨拶を交わして帰って行く。
 この上手には水車谷団地などの集落がある。山手に住む子供達は“毎日の登下校で大いに体が鍛えられることだろう”という感想を持ちながら、私も、見守隊のおばちゃんと共に、暫しの間子供達を見守る時間を持った。
 カメラを持って出たが、結局、写真は撮らなかった。

 スーパー・イオンで買い物をしての帰り道のこと。買い物袋を持ってぶらぶら歩いて帰る途中、大きい2匹の犬を連れた御婦人とすれ違った。狭い通路を通った直後のことだった。2匹の犬の中の1匹が、私が手に持つ買い物袋にいきなり噛みついた。ビニールが破れ、中の品物が一部地面に落ちた。突然のことだったのでびっくりしてしまった。一見大人しそうに見える犬だったが凶暴な犬もいるものだ。
 犬を連れて散歩している人によく出会うが、犬は良く飼い慣らされていて「人に危害を加える犬などはいない」という先入観を持ってしまっている。しかし今回の出来事でこの考えを改めることになった。買い物袋でなくて足にでも噛みつかれたら大事だった。

2015年3月18日(水)
 日本全国の山に先駆けて“山開き”を行った。
 “皇子山古墳”に登った。
 温かさに励まされてのことである。勿論今年初めてのことで、皇子山古墳にウオーキングに来るのは、去年以来、3~4ヵ月振りになる。木々は切られたのだろうか、或いは枯れたり、枝葉が落ちたりしていて、随分と見晴らしが良くなったように感じた。
 

 

     

 今日、皇子山古墳に上り、琵琶湖を眺めて、2月20日浜大津から雪見船“インターラーケン”に乗って長浜まで行ったことを懐かしく思い出した。
 「あの浜大津辺りから出港して、目の前に広がるこの湖をずーっと北上して行ったのだ。湖に浮かんだ船から見上げた山を、今度は、今、その山の上から湖を眺め見下ろしている・・・」 
 未だ1ヶ月も経たないのに“懐かしく”思ってしまう。
 ドップラー効果音のように、何もかもがどんどん過去のものになってゆくような気がする。
 

 帰宅して1時間程して雨が降り出した。降る前にウオーキングに出られて良かったと思った。
 (※ 翌日、足が張った。山登りなので、使う筋肉の部位が、近江神宮へ行く時とは異なるようだ)

 ※ここに、前回の「WATASI(M)のツイットNO.244」の3月15日の記事を訂正しておきます。
 「防備録的」⇒「備忘録的」
 「防備録」などという言葉はないので意味が解りませんね。自分でも「何かおかしいな」と思いながらも書いてしまいました。「備忘録」という言葉が出て来なかったのです。これは“年をとってきた所為”ということにしておきます。

2015年3月19日(木)
 昨夜から今朝にかけて暖かく、電気敷毛布を点けなくても温かかった。実際に使っている布団は普通の布団なのだけれども、“羽毛布団を蹴飛ばしているという判り易い夢”を見ていた。

 今朝、“実践「免疫革命」爪もみ療法”を読み終えた。お陰で新たな知識を得ることが出来た。
 この本は、西洋医学に疑問を投げ掛け、東洋医学的な“免疫療法”(=病気ではなくその人自身を治す治療法)を唱える本だった。
 この本は疫学(=疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問)的なアプローチの本であり、エビデンスを積み重ねた“科学書”と言い切れるかどうかは分からないが、概ね、書かれている内容に納得出来た。自分の経験に照らしても、書かれている内容に符合する点が幾つもあった。“科学的”だと言えるかどうかは問題でなく、要は“病気を実際に治せるかどうか”が重要なのだ。
 本の後半部の目次の見出しの中で、“年齢に関わるもの”を列挙すると、「長寿だからがんになる」、「年齢でも変わる自律神経の働き方」、「年をとると誰もが顆粒球人間に」などがあったが、書かれている内容には一々納得することが出来た。
 この本を読んで、次のようなことも考えた。それは、私はよく「几帳面である」と人に言われるのだが、このような性格を持っていると、ストレスを抱え込み、癌などになり易い交感神経が優位に働く“顆粒球人間”になってしまうのではないかということである。
 また、世の中には、(自分では気が付かないで)やたらと人を批判し、攻撃的な人がいるが、そんな人と付き合って気分を滅入らせることも病気を抱える原因になるのではないだろうかとも思った。矢張り、ストレスを受けることになり、リンパ球よりも顆粒球を増大させることになると思われるからだ。そのような攻撃的な人間は“他人の顆粒球を増大させる異常人間”と捉え、相手にしないのが賢明だと気が付いた。この本を読んだ収穫の一つである。
 更には、音楽の中にも、交感神経に働きかける音楽と、副交感神経に働きかける音楽とがあるのではないかとも思った。若者の好む(私には)騒々しい音楽は、若者には“副交感神経”に働きかけてリラックスさせる効果があっても、年配者にとっては“交感神経”に働くストレスと感じ、顆粒球を増大させているのではないだろうか。
 “逆も真なり”であって、私の好きな「おやすみなさい」(平岡養一)、「ノクターン嬰ハ短調(遺作)」(ショパン)、「ゴルトベルグ変奏曲:アリア」(バッハ)は、“見事な間合いを持った、恰も時を刻むような音楽”と感じる私にとっては、副交感神経に働いていることは間違いないのだが、若者には交感神経に働きかけるストレスになるのかもしれない。尤も、私が好きなこれ等の曲も、もし仮に、朝から晩まで絶え間なく聴かされれば、私であっても逆にストレスに感じるに違いない。“神経”というものはそういうものだと思う。

 雨の中をMさんが訪ねて来てくれた。良い助っ人が来てくれたとばかり、書斎の整理を手伝ってもらった。お陰で、短時間で綺麗になった。

2015年3月20日(金)
 今日、漸くにして我が家の梅が咲きました。
 この何日か、毎日のように、開花一番乗りの梅の蕾はどれになるだろうかと梅の木を眺めていました。
 結局、一番に咲きだした梅を探し出すのは無理でした。今朝、20~30個ほどの蕾が一挙に“微笑み”だしていたからです。
 これから梅の木の写真を撮っておこうと思っています。

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