2014年4月23日(水)
田植の頃になるとゲロゲロと騒がしい大合唱を上げる蛙。今日早くもその蛙の声を聞いて驚いた。春が来たからだろう、気持ち良さそうに大きな声を出して鳴いていた。独唱だった。
このところ、朝は10℃以下、昼間は20℃を超える毎日。朝晩は寒いが、昼間は大変温かくなった。アラジン(石油ストーブ)をそろそろ片付けねばならない。
車をよく使っていた頃(勤めていた頃)、朝夕は車の暖房のスイッチを点け、昼間は冷房のスイッチを点けていたのを思い出した。今頃の季節だったのだろうか、仕事が忙しかったので何月頃かは覚えていない。こんな現象は秋口にもあったが、それもまた何月頃の事か覚えていない。
早くも鯉のぼりが泳いでいる姿を見た。若い人達が多く住む新しい住宅街でのこと。
爽やかな青空の季節になったが、未だ花粉症に悩まされる季節でもあるのが鬱陶しい。
2014年4月24日(木)
今日も降水確率0%。良い天気は土曜日頃まで続くという。
変わりのない一日。
神社の風景、人影が見られず、静まり返っている。
日米首脳会談の共同記者会見があったが、今日、日米共同声明は出なかった。畜産物(牛・豚)・自動車の分野で日米間のTPP交渉が難航しているからと報道されている。
2014年4月25日(金)
一日遅れで日米首脳会談の共同声明が出された。
オバマ米大統領は次の訪問国の韓国へ向かう。
京都の街中の銭湯を利用した。これまでも何度か利用したことがあるが、風呂代は410円と消費税が上がる前と変わらない料金だった。料金が据え置かれているのは大津と同じだが、料金の方は大津(400円)より10円高い。その代わり、大津ではサウナに入るのに別料金が要る(40円~100円)のに対して、京都の風呂屋のサウナ代は無料になっている。また京都の風呂屋には、ボディーシャンプー、ヘアーシャンプー、リンスが置いてあり、手拭さえあれば(手拭も貸してくれる)気軽に入浴できるので便利に思う。
頸が凝って仕方なかったので“ほぐしや”でマッサージをして貰った。そのマッサージ店では消費税が上がったにも拘わらず、従来の料金と変わらなかった。消費税相当分が軒並み値上がりしている中、従来のままの料金に据え置かれている店には好感が持てる。
因みに、京阪電車の近江神宮駅から京阪三条駅までの運賃は490円から510円に、京都市バスは220円から240円に、JR京都駅からJR大津京駅間は230円から240円になっている。
鹿児島県の喜界島が出身地という人に出会った。交通費が高くつき3年に一度くらいしか里帰りしていないと言う。往復で7万円掛るらしく、喜界島に行くには、伊丹空港→奄美空港→喜界島空港を利用するのが一番便利で速く行けるという。鹿児島中央駅までJRで行き、そこから船に乗り継ぐなどしていたら二日がかりになってしまうとのこと。その人の話しによると、喜界島には特に観光客を呼べるような観光資源も無くて、羊が居るばかりだという。「喜界島の名前が知られているのは黒糖の焼酎くらいかな」とも言っていた。
その人はまた、喜界島は僧俊寛が島流しになった島であることを教えてくれた。私は、僧俊寛は、どうして喜界島のような遠くにまで流されたのだろうと思った。崇徳天皇が流された讃岐とは比較にならないくらいの遠方だからだ。
家に帰って、“歴史と地理の勉強”をし直した。僧俊寛が鹿ケ谷で陰謀を巡らしてそれが発覚し、島流しに遭ったことは知っていたが、その前後の歴史は忘れてしまっている。また喜界島を地図で直ぐには捜し当てられないでいた。
※ 古い高校の教科書(日本史)を開けたら次のようなことが書かれていた。
「平治の乱(1159年)ののち、平清盛は院と結んで朝廷内に勢力をのばし、1167(仁安2)年には、武士としてはじめて太政大臣となった。また娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れて安徳天皇の外祖父となり、一族の子弟をそれぞれ高位高官につけて、藤原氏にかわって権力を掌握した。
・・・(中略)・・・
平氏一門による政治の独占は、院・貴族などの反感をかい、院の近臣による平氏打倒の計画が進められた(ここで僧俊寛の登場となる)。【1177年(治承元)年、後白河法皇の近臣藤原成親、僧俊寛(1143~1179)らは、京都鹿ケ谷(ししがたに)で会合して平氏打倒の計画を立てたが、これは未然に発覚し、失敗に終わった】
清盛は、こののち後白河法皇を幽閉し、武力による強圧政治をはじめたので、寺社や地方の武士とも対立を深めた。
1180(治承4)年、源頼政は法皇の皇子以仁王を奉じ、園城寺・興福寺などと連絡して挙兵し、以仁王の平氏追討の令旨を諸国の武士に伝えた。頼政の挙兵は失敗し、頼政は宇治で敗死したが、これを機会に源頼朝、木曽の源義仲など各地の武士がたちあがり、源平の対立を中心とする全国的な内乱となった。
頼朝は平治の乱ののち伊豆に流されていたが、以仁王の令旨をうけると、妻政子の父北条時政の援助のもとに、1180(治承4)年8月に兵をあげた。頼朝は関東の武士の支持を得て鎌倉に本拠をおき、東国に地盤をかためていった。いっぽう、義仲は北陸道に勢力を伸ばしていったが、1183(寿永2)年、源行家と協力して京都に攻め入り、平氏を追い払った。しかし義仲は後白河法皇や貴族と対立するようになり、法皇は頼朝に命じて、義仲を討たせた。頼朝は弟範頼・義経らに義仲を討たせ、さらに平氏を追撃させた。
この戦いのなかで、平氏は一の谷(摂津)・屋島(讃岐)の合戦にあいついで敗れ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で全滅した。」
以上のように書かれているが、僧俊寛が何故喜界島のように遠い“遠流の刑”に処せられたかまでは書かれていなかった。これを知るためにはもっと詳しい本を手に入れなければならない。
※ 喜界島
鹿児島県の地図をつらつら見ると、大隅半島から南に、大隅諸島(種子島、屋久島等がある)、吐(と)から列島(悪石島、小宝島、宝島等がある)、奄美諸島(奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島等がある)、そして沖縄本島へと連なっている。
喜界島は奄美大島の東にある小さな島で、人口8,000人。
私の出会った喜界島出身の人は「交通も不便で、観光資源に乏しいが故に観光客も来ないので寂しい島です」と言っていたが、私は、観光化されていなければ尚の事、そんな島に行ってみたいと思った。喜界島という名前からして魅力的に聞こえる。
しかし、地図を見ながら美しい景色を想像するばかりで、実際に行くことは無いだろうと思う。
2014年4月26日(土)
朝一番に、「世界文化遺産への登録を目指している群馬県の『富岡製糸場』について、ユネスコの諮問機関は『世界遺産に登録することがふさわしい』とする勧告をまとめ、今年6月にも世界遺産に登録される見通しになった」というテレビ報道があった。
富岡製糸場のことは日本史で習ったことがある。テレビに写し出される建物群を見て、改めて歴史を感じさせる随分立派なものだなあと思った。また、この場所で色んな人が関わりを持ち、多くの様々の人生が交錯して行ったことだろうと感慨を巡らせた。
富岡製糸場があるのは群馬県。観光旅行コースに組み入れられることが予想されるが、関西からは遠いので見学に行くことは先ず無いだろうと思った。
午前10時半から“平成26年度滋賀学区文化協会総会”が 滋賀市民センターで行われた。それに文化委員として出席した。長い間、滋賀学区文化協会に携わり、最近の5,6年間その会長を務めておられたWさんが会長職を退いた。新しく就任した会長さんからWさんに慰労の花束が贈られていた。
市民センターまでの片道1㎞の距離を往復ともに歩いた。帰り道は真夏のような陽気になって身体が汗ばんでしまった。
2014年4月27日(日)
花の季節が終わったので、花曇りとは言えないが、今日は昨日程の強い日差しではなくどんよりとした感じ。夕方からゆっくり下り坂に向かうという。
明日28日(月)そして明後日の29日(祭日)の天気予報は雨マークになっている。
田植の頃になるとゲロゲロと騒がしい大合唱を上げる蛙。今日早くもその蛙の声を聞いて驚いた。春が来たからだろう、気持ち良さそうに大きな声を出して鳴いていた。独唱だった。
このところ、朝は10℃以下、昼間は20℃を超える毎日。朝晩は寒いが、昼間は大変温かくなった。アラジン(石油ストーブ)をそろそろ片付けねばならない。
車をよく使っていた頃(勤めていた頃)、朝夕は車の暖房のスイッチを点け、昼間は冷房のスイッチを点けていたのを思い出した。今頃の季節だったのだろうか、仕事が忙しかったので何月頃かは覚えていない。こんな現象は秋口にもあったが、それもまた何月頃の事か覚えていない。
早くも鯉のぼりが泳いでいる姿を見た。若い人達が多く住む新しい住宅街でのこと。
爽やかな青空の季節になったが、未だ花粉症に悩まされる季節でもあるのが鬱陶しい。
2014年4月24日(木)
今日も降水確率0%。良い天気は土曜日頃まで続くという。
変わりのない一日。
神社の風景、人影が見られず、静まり返っている。
日米首脳会談の共同記者会見があったが、今日、日米共同声明は出なかった。畜産物(牛・豚)・自動車の分野で日米間のTPP交渉が難航しているからと報道されている。
2014年4月25日(金)
一日遅れで日米首脳会談の共同声明が出された。
オバマ米大統領は次の訪問国の韓国へ向かう。
京都の街中の銭湯を利用した。これまでも何度か利用したことがあるが、風呂代は410円と消費税が上がる前と変わらない料金だった。料金が据え置かれているのは大津と同じだが、料金の方は大津(400円)より10円高い。その代わり、大津ではサウナに入るのに別料金が要る(40円~100円)のに対して、京都の風呂屋のサウナ代は無料になっている。また京都の風呂屋には、ボディーシャンプー、ヘアーシャンプー、リンスが置いてあり、手拭さえあれば(手拭も貸してくれる)気軽に入浴できるので便利に思う。
頸が凝って仕方なかったので“ほぐしや”でマッサージをして貰った。そのマッサージ店では消費税が上がったにも拘わらず、従来の料金と変わらなかった。消費税相当分が軒並み値上がりしている中、従来のままの料金に据え置かれている店には好感が持てる。
因みに、京阪電車の近江神宮駅から京阪三条駅までの運賃は490円から510円に、京都市バスは220円から240円に、JR京都駅からJR大津京駅間は230円から240円になっている。
鹿児島県の喜界島が出身地という人に出会った。交通費が高くつき3年に一度くらいしか里帰りしていないと言う。往復で7万円掛るらしく、喜界島に行くには、伊丹空港→奄美空港→喜界島空港を利用するのが一番便利で速く行けるという。鹿児島中央駅までJRで行き、そこから船に乗り継ぐなどしていたら二日がかりになってしまうとのこと。その人の話しによると、喜界島には特に観光客を呼べるような観光資源も無くて、羊が居るばかりだという。「喜界島の名前が知られているのは黒糖の焼酎くらいかな」とも言っていた。
その人はまた、喜界島は僧俊寛が島流しになった島であることを教えてくれた。私は、僧俊寛は、どうして喜界島のような遠くにまで流されたのだろうと思った。崇徳天皇が流された讃岐とは比較にならないくらいの遠方だからだ。
家に帰って、“歴史と地理の勉強”をし直した。僧俊寛が鹿ケ谷で陰謀を巡らしてそれが発覚し、島流しに遭ったことは知っていたが、その前後の歴史は忘れてしまっている。また喜界島を地図で直ぐには捜し当てられないでいた。
※ 古い高校の教科書(日本史)を開けたら次のようなことが書かれていた。
「平治の乱(1159年)ののち、平清盛は院と結んで朝廷内に勢力をのばし、1167(仁安2)年には、武士としてはじめて太政大臣となった。また娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れて安徳天皇の外祖父となり、一族の子弟をそれぞれ高位高官につけて、藤原氏にかわって権力を掌握した。
・・・(中略)・・・
平氏一門による政治の独占は、院・貴族などの反感をかい、院の近臣による平氏打倒の計画が進められた(ここで僧俊寛の登場となる)。【1177年(治承元)年、後白河法皇の近臣藤原成親、僧俊寛(1143~1179)らは、京都鹿ケ谷(ししがたに)で会合して平氏打倒の計画を立てたが、これは未然に発覚し、失敗に終わった】
清盛は、こののち後白河法皇を幽閉し、武力による強圧政治をはじめたので、寺社や地方の武士とも対立を深めた。
1180(治承4)年、源頼政は法皇の皇子以仁王を奉じ、園城寺・興福寺などと連絡して挙兵し、以仁王の平氏追討の令旨を諸国の武士に伝えた。頼政の挙兵は失敗し、頼政は宇治で敗死したが、これを機会に源頼朝、木曽の源義仲など各地の武士がたちあがり、源平の対立を中心とする全国的な内乱となった。
頼朝は平治の乱ののち伊豆に流されていたが、以仁王の令旨をうけると、妻政子の父北条時政の援助のもとに、1180(治承4)年8月に兵をあげた。頼朝は関東の武士の支持を得て鎌倉に本拠をおき、東国に地盤をかためていった。いっぽう、義仲は北陸道に勢力を伸ばしていったが、1183(寿永2)年、源行家と協力して京都に攻め入り、平氏を追い払った。しかし義仲は後白河法皇や貴族と対立するようになり、法皇は頼朝に命じて、義仲を討たせた。頼朝は弟範頼・義経らに義仲を討たせ、さらに平氏を追撃させた。
この戦いのなかで、平氏は一の谷(摂津)・屋島(讃岐)の合戦にあいついで敗れ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で全滅した。」
以上のように書かれているが、僧俊寛が何故喜界島のように遠い“遠流の刑”に処せられたかまでは書かれていなかった。これを知るためにはもっと詳しい本を手に入れなければならない。
※ 喜界島
鹿児島県の地図をつらつら見ると、大隅半島から南に、大隅諸島(種子島、屋久島等がある)、吐(と)から列島(悪石島、小宝島、宝島等がある)、奄美諸島(奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島等がある)、そして沖縄本島へと連なっている。
喜界島は奄美大島の東にある小さな島で、人口8,000人。
私の出会った喜界島出身の人は「交通も不便で、観光資源に乏しいが故に観光客も来ないので寂しい島です」と言っていたが、私は、観光化されていなければ尚の事、そんな島に行ってみたいと思った。喜界島という名前からして魅力的に聞こえる。
しかし、地図を見ながら美しい景色を想像するばかりで、実際に行くことは無いだろうと思う。
2014年4月26日(土)
朝一番に、「世界文化遺産への登録を目指している群馬県の『富岡製糸場』について、ユネスコの諮問機関は『世界遺産に登録することがふさわしい』とする勧告をまとめ、今年6月にも世界遺産に登録される見通しになった」というテレビ報道があった。
富岡製糸場のことは日本史で習ったことがある。テレビに写し出される建物群を見て、改めて歴史を感じさせる随分立派なものだなあと思った。また、この場所で色んな人が関わりを持ち、多くの様々の人生が交錯して行ったことだろうと感慨を巡らせた。
富岡製糸場があるのは群馬県。観光旅行コースに組み入れられることが予想されるが、関西からは遠いので見学に行くことは先ず無いだろうと思った。
午前10時半から“平成26年度滋賀学区文化協会総会”が 滋賀市民センターで行われた。それに文化委員として出席した。長い間、滋賀学区文化協会に携わり、最近の5,6年間その会長を務めておられたWさんが会長職を退いた。新しく就任した会長さんからWさんに慰労の花束が贈られていた。
市民センターまでの片道1㎞の距離を往復ともに歩いた。帰り道は真夏のような陽気になって身体が汗ばんでしまった。
2014年4月27日(日)
花の季節が終わったので、花曇りとは言えないが、今日は昨日程の強い日差しではなくどんよりとした感じ。夕方からゆっくり下り坂に向かうという。
明日28日(月)そして明後日の29日(祭日)の天気予報は雨マークになっている。