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WATASI(M)のツイットNO40

2011-10-24 17:10:16 | 日記
WATASI(M)のツイットNO39に続いて書きます。
山の辺の道


 ドイツの人工衛星が大気圏に突入して人に危害を与える確立が2千分の一と騒がれる日(10月23日)、奈良は、「山の辺の道」を探訪しました。
 京都駅から、これまで殆ど利用することのなかったJR奈良線を利用しました。
 JR奈良駅で桜井線に乗り換えます。桜井線は「万葉まほろば線」という愛称が付けられていました。
 奈良駅から「和歌山行き」の各駅停車の列車に乗ってみて、停留する各駅名が私の興味を引きました。最初の三駅の駅名を紹介しますと、京終駅、帯解駅、檪本駅でした。読めますか?正解は、「きょうばて」駅、「おびどけ」駅、「いちのもと」駅です。
 京終(きょうばて)は「京都の果て」とでも言う意味があるのか知らんと思いました。あるいは、奈良には昔、都があったのでその頃の「都の果て」という意味なのだろうか?と想像を逞しくしました。奈良を旅するといろんな変わった地名に出会いますが、地名はどういう所縁で付けられているのだろうと思いました。帯解駅の近くには安産の神社仏閣があるようでした。
 その次の4駅目が天理駅で、奈良から8駅目の三輪駅で下車し観光案内のパンフレットを入手しました。土地に不案内であり、また足にも自信が無いので、タクシーを利用して、先ず北方向「桧原神社」まで連れて行ってもらい、「山の辺の道」を南方向に辿りながら「大神(おおみわ)神社」、そして三輪駅へ戻ってくるという計画を立てました。
 タクシーの運転手さんがいい人で、「桧原神社」までの車中、色々歴史を教えてくれました(大和三山の内、耳成山、畝傍山は火山であり、香具山は談山神社の山に連なるものであって火山ではない、箸墓(はしはか)古墳の横を通った時、「この古墳は卑弥呼の墓と伝えられている」等々)。また途中で、何箇所か景色が良い場所に車を停めてくれ、風景の説明をしてくれ、写真を撮らせてくれました(多くのカメラマンが参集するという、二上山の二つの山の真ん中に夕日が落ちるのを写真に収めるのに一番良い場所、というところも教えてくれました)。
 帰りは、桧原神社から大神神社まで(途中、「狭井(さい)神社」があります)の「山の辺の道」を、古(いにしえ)の人々を偲びながらゆっくり歩きました。しかし年月が経っているのですね、一昔前にセイタカアワダチ草が日本中に繁殖したことがありましたが最近は姿を消したように思っていました。そのセイタカアワダチ草がこの大和の地で大変目に付きました。この外来の草花は大和の土地が特別気に入ったのかも知れません。大神神社は秋のお祭りで大変な賑わいでした。土地の人々が、本殿で頭を下げる他、退出するときも、鳥居がある所、ある所で一々振り返り、本殿の方向に向かって頭を下げておられてたのが心に残りました。信心の篤さが見て取れました。暖かく良い天気だったので、三輪駅に帰り着いた時には汗ばんでおりました。

WATASI(M)のツイットNO39

2011-10-24 16:31:23 | 日記
10月23日(日曜日) 奈良は、「山の辺の道」へ探訪に出かけました。

大和三山(右から耳成山、畝傍山、香具山)


「大和は国のまほろばたたなづく
青垣山ごもれる大和し美し」   倭建命 作
(大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山にかこまれた大和はほんとうにうるわしいところであります) 


「かぐ山は畝火ををしと耳成と相あらそひき
神代よりかくなるらしいにしへも
しかなれこそうつせみもつまをあらそふらしき」  天智天皇 作
(大和三山の香具山、畝傍山、耳成山の間には、古い伝承に見られるような男女の間のいりこみがあって、一人の女性を二人の男性が嬬(つま)争いをしたという。こうしたことは、神代の頃にもあったらしい) 


「いにしへにありけむ人もわが如か
三輪の桧原にかざし折りけむ」  柿本人磨 作
(昔の人も、私がするように、この三輪の桧原で髪挿を折ったことだろうか) 



桧原神社

大神(おおみわ)神社

三輪町内のお祭り


→WATASI(M)のツイットNO40に続く

WATASI(M)のツイットNO38

2011-10-13 08:25:07 | 日記
 昨夜、ダンスをしている夢を見ました。
 キューバンルンバらしきものを踊ろうとしている様子でした。ステップが合わず苦労しているうち、だんだん眠りが浅くなってきて、尿意を催しているのに気が付き目が覚めました。昨晩就寝前にダンス音楽のCDを聴いていたのでこのような夢を見たのかもしれません。

 夢は不思議です。
 河合隼雄著「明恵夢を生きる」という本なども読んでみて、偉いお坊さんの夢は中身も上等なのだと思いましたが、私の夢に対する疑問は解けませんでした。
 夢を見ていても翌朝目が覚めたときその中身を思い出せないときもありますが、私の夢は大体似たものが多いように思います。
 電車に乗ろうとしていて、多すぎる荷物をまとめたりしているうちに、発車の刻限がどんどん迫ってきて焦っている夢や、飛行機に乗ろうとしていて搭乗口を捜し歩くのだけども分からず、とうとう刻限を過ぎてしまい乗り遅れるという夢。飛行機に乗っており、離陸するのだけど異常なまでに低空で飛び立つので、高いビルにぶつからなければ良いがと心配している夢。
 試験場で、鉛筆が筆箱に充分に入ってなかったり(1本で足りるはずなのだけど、きれいに削れている数本の鉛筆を準備したがっている様子)、消しゴムが用意できておらず焦っている夢。また、難しい問題が出題されているため、時間はどんどん経ってゆくのに、答案用紙が何時まで経っても白紙のままなので焦っている夢。卒業が間近に迫っているのに単位が不足しており、簡単に単位が取れそうな科目を受験しようとするのだけどもその授業に一度も出ておらず困っている夢。
 こう見てくると、有名なお坊さんの夢とは比較するのが情けないくらいロクでもない夢(何かをしようとするのだけどそれが出来ない夢)が多いです。
 同じ見るならもっと良い夢を見たいものです。
 昔は、空を飛んでる夢をよく見ましたが最近は見なくなりました。
 時に父母のどちらかが夢に現れることがあります。夢を見ている間は今も生きているのかと錯覚するのですが、翌朝目が覚めて「ああそうなのだ、父母はもう亡くなっているのだ」と気がついたりします。

 昨日(10月12日)大工さんが来てくれ、丸一日かかって雨戸の修理、門扉の修理、サッシの網戸の張替え等をしました。私が助手を勤め、図画工作のような時間を過ごしました。そのお陰で今日は脚がパンパンに張っています。


WATASI(M)のツイットNO37

2011-10-02 06:28:36 | 日記
 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
 赤い羽根共同募金、そして金木犀が香る10月に入りました。

 9月30日(金)
 徒然(つれづれ)なるままに、というより、秋雨がそぼ降る午後、寂寥を覚え、人恋しくなりました。
 坂本のダンスサークルが丁度ダンスの練習日に当たる日だったので、昔のダンス仲間に会いに出かけました。坂本市民センターが練習場になっています。
 ダンスサークルには幾つか入っていたのですが、坂本のダンスサークルが、少人数ながら会員同士が一番親密なサークルでした。10人を超えていた会員も、3年前に先生が84歳で亡くなられたのを始め、高齢のためあるいは病気などのため相次いで辞めてゆき(私もその一人ですが)去年は6人で会を維持してくれていました。
 今も頑張ってくれてるかなと思いつつ訪ねて見たところ、7名練習に来ており、その日休んだ人も合わせると会員は10人ほどに増えていました。
 10月はどこの学区でも、体育祭、文化祭が行われます。
 ダンス仲間達は、その文化祭に参加するべく練習に励んでいました(市民センターを練習の場所に借りていますと文化祭への参加が義務づけられます)。文化祭は一年間の練習の成果を発表する場となります。
 久しぶりにダンス風景を見ると皆は楽しそうに踊っているように見えました。ダンスをすると汗をぐっしょりかきます。仕事をリタイヤーした者には、健康に最適のスポーツだと思います。だけども私はもう出来なくなっており、今は青春(壮年)の想い出となってしまいました。会員は入れ替わってもこのサークルはずーっと続いてほしいものです。
 

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」(月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、過ぎ去っては新しくやって来る年もまた旅人に似ている)
  ならば、原子力発電所もまた「つわものどもが夢のあと」となる旅人なのでしょうか。
 
                      美浜原子力発電所(9月12日撮影)

 そんなことを言い出せば、この地球も・・・

 「散る桜残る桜も散る桜」(詠み人知らず)    感傷の秋です。