gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

WATASI(M)のツイットNO.247

2015-03-26 15:25:57 | 日記
2015年3月23日(月)
 “冬のウオーキング”に逆戻りした。
 セーターと薄手のジャンパーを着込んでウオーキングに出かけた(手袋は勿論しっかりして行った)。このところ暖かかったので、この服装では汗をかくかなと思っていた。しかし、家の中はそれほどでもなかったのに、外に出て見ると随分と寒かった。
 近江神宮の第一の鳥居を潜ると、自動車が行き交う道路から離れて静かになる。ここから、本来ならば砂利道になって神苑な雰囲気が醸し出されていてもよさそうなものである。しかし、第一の鳥居から第二の鳥居迄の200~300mほどの参道は、砂利が殆どなくなっていてデコボコした道になっている。毎年行われる、11月3日の流鏑馬行事が行われるたびに道路が掘り返されるからかもしれない。砂利が沢山、且つ深く敷き詰められておれば、歩き易くて、周囲を見回す余裕も出るというもの。下ばかり見て、固くて歩き難い道を用心しながら歩かねばならないとなると、神寂びた神社の雰囲気を味わうことも出来ない。歩き辛いので、参道の途中で“第二の鳥居の階段迄は未だ大分あるかな?”と先の方を眺める。逆に、大分歩いただろうかと後ろを振り返る。注意して見ればこの200~300m程の参道は緩やかな“登り坂”になっている。第一の鳥居の所から第二の鳥居の階段下までは“垂直に測ると2m位は高くなっているだろうか”、前を見、後ろを振り返って目測しながら歩いた。
 JR大津京駅から私の家までの道路も気が付かない程の緩やかな“登りの坂道”になっている。このことに(若い頃は平らな道だと思っていたのだが)年をとってから気付いた。最近、JR大津京駅までの行きは楽なのだが帰りはキツク感じるようになっている。
 このところ、家から近江神宮本殿まで一気に歩けなくなっている。最初の階段を登って“第二の鳥居を潜った直ぐ右手にある大きな石に腰を掛けて休む”という癖がついてしまっている。今日も其処で一休みした。ほんの3~4分ばかり休むと、次の楼門へと上がる階段を登るのは何でもなくなる。楼門を潜り、最後の本殿へ上がる階段は、階段の数が一番少なく、最後の階段であるということもあって、“気合を入れ、力を振り絞って”一息に登る。
 登り切れば先ず腰を掛けて一休み。息を整え、足を休め、振り返って下の方を見る。今、神社では、本殿の方から見ると楼門の右方向、時計博物館の屋根の修理が行われている。覆いの幕が張ってあるのだが、その幕に神社仏閣専門の修理業者の名前が、視力検査宜しく私の目でやっと見えるくらいの大きさの文字で書かれている。
 神社も、砂利道のメンテナンスや屋根の修理など、何かと物入りなことだと思った。
 今日は、下(砂利道)を見、上(時計博物館の屋根)を見ながらのウオーキングとなった。
 今朝の天気予報では最高気温は10℃であったが、やはりその予報に相応しい寒さだった。汗をかくことはなく、手袋をしていても手はやはり冷たかった。宇佐八幡神社下拝殿の所で手袋を脱いで手を見てみた。手は紫色をしておりその異常さに自分でも驚いた。

2015年3月24日(火)
 昨日よりも更に寒くなったような気がする。最高気温の予想は8℃と昨日よりも2度低くなっている。風も少し吹いているので余計に寒く感じる。
 我が家の梅の花は咲き始めたばかり、未だ元気だから散りはしないだろうと思う。しかしこの寒さで“梅の木が風邪を引きやしないか”と心配になる。だが、梅は桜に比較すると風にも寒さにも強いので、まずは大丈夫だろうと“我が子のように気を遣う”。
 未だ咲かない近所の桜に対しては、“この2~3日の寒さをやり過ごしてから咲きなさい”と言ってやりたい。

 今日、ウオーキングの時、近江神宮の第一の鳥居から第二の鳥居石段下までの距離を歩行計測器で測ってみた。その結果、(昨日の記事には大まかに200~300mと書いたが)凡そ230mであることが分かった。

2015年3月25日(水)
 朝早く目覚めたので例によって本を読んで過ごした。「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)第7巻を読み終えた。
 最後の「船中八策」の章で、竜馬が長崎でおりょうと別れを告げる場面(確か、この後竜馬は京都で中岡慎太郎と共に暗殺されるから最期の別れになった筈と記憶する)に次のような文章が載っていた。唐突ですが、高杉晋作の辞世を詠んだところを大変興味深く読んだので、ここに載せておきます。
【 ・・・・・・
 「今日は何日だ」
 「九日」 
 「十四日は高杉の命日になる。おれは不在だが、寺町の寺へでも行って供養をしてやってくれ」
 高杉晋作は二カ月前の四月十四日(1867年4月14日)、持病の結核が重くなり、満二十七年八カ月の若さで死んだ。その最期の様子や辞世の歌などを、竜馬は長崎に来た長州人たちから聞いて知っている。
 「もし天がこの地上に高杉を生まなかったならば、長州はいまごろどうなっていたかわからない。こんにちの天下の情勢の一半は、高杉が作ったものなのだ」
 竜馬はしきりと高杉のことを思いだしているのは、あの変幻出没、韜略(とうりゃく)縦横の高杉晋作なら、いまの事態にどんな手をうつだろうかということを考えていたからである。
 「辞世もあの男らしい」
 高杉は病い革(あらた)まるや、幼な子の東一のあたまをなで、
 「父の顔をよくおぼえておけ」
と言い、やがて筆をとり、
 「面白き、こともなき世を、おもしろく」
辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病していた野村望東尼(もとに)が、
 「住みなすものは心なりけり」
 と詠んだ。高杉はうなずき、
 ・・・面白いのう。
 と言ってしずかに眠った。それが、高杉の最期であった。
 竜馬は、ぼう然とした顔で杯をかさねている。
・・・・・・】
 ※この後、竜馬は「大政奉還策」、「それ以後の政体案である“八策”」を携えて、後藤象二郎等と共に京都に向かう(※後藤象二郎の方は、大坂で、山内容堂が四賢侯会議《=薩摩藩・島津久光、土佐藩・山内容堂、越前侯・松平春嶽、伊予宇和島侯・伊達宗城の四者会談》から逐電して“土佐に逃げ帰った”ことを知り、大坂から山内容堂を追って竜馬の「大政奉還策」を言上に土佐へ向かう)。

 それにしても、竜馬なる人物が、若しこの歴史小説に書かれている通りの活躍をしていたのであれば、“坂本竜馬と言う人は大変な人物だった”と改めて思う。若干32歳の若さで亡くなった人生である。思わず、病を託ちながら70歳になろうとしている自分の人生と比較していた。

 ※誰もが知っている坂本竜馬(1835~1867)だが、小説から離れ、歴史的事実として彼の一生を簡潔に書き記すならば、以下のように纏められる。
【幕末の志士。土佐藩郷士。勝海舟に航海術を学び、1864年長崎で社中(後の海援隊)を結成、海運と貿易に従事。薩摩長州両藩の和解に奔走、1866年薩長連合を実現。海外情勢に通じ、公議政体論を唱え、大政奉還を推進したが、中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。】

 竜馬が生きた時代は、何と多くの有志が、日本の歴史変革に巻き込まれ、若くして死んで行ったことだろう。彼等の犠牲の上に今日の日本がある。そんなことを思いながらこの本を読んでいる。愈々「竜馬がゆく」を読むのは最終の第8巻となる。“大変面白いので”(と言っては変革の歴史の中て死んで行った人達に不謹慎かも知れないが)、第8巻を読むのが今から楽しみだ。

 今日は長々と書くことになるが、「小指の想い出」の日にもなってしまったので、この事も書いておきたい。この2~3日、大変寒いにも拘らず凍える手でピアノの練習に励んできた。今朝、突如右手小指に痛みを感じた。更に無理をして練習を続けていたら今度は手の甲までおかしくなり、そのまま続けても練習にならなくなってしまった。
 更には、矢張り気張ってピアノの練習をしていたからだろうか、腰まで痛み始める始末。ぎっくり腰が再発したかのようだ。しかもその痛む部位は丁度脊柱管狭窄症で骨がズレテいると指摘されたところなので、大変心配になって気分が鬱陶しくなった。

2015年3月26日(木)
 病気の事ばかり書くことになる。
 愚痴ばかり書き連ねているようで自分でも嫌になるのだが、私の対面している最大の問題なので仕方がない。
 前立腺癌は今後どのように推移して行くか分からないが、急激に悪化して直ぐに命がどうのこうのということはないだろうと思っている。父のケースでも(父も矢張り前立腺癌で亡くなったのだが)、「しんどい」と言いながらも、前立腺癌であることが明らかになってから2~3年生き延びた。
 私の“平熱が低く”また異常なまでに“冷え症”であることも、気掛かりではあるが、直ぐに命がどうのこうのという問題ではないと思っている。

 昨日から、再度“ぎっくり腰らしきもの”が出現して、これで気が滅入らされている。
 ぎっくり腰も、別段、生命に直結する問題ではないと思うが、ぎっくり腰になると生活が著しく不便になるので、一番気持ちが落ち込んでしまう。起居振る舞いが困難になり、普通に生活をしていることすら困難になるからだ。
 勿論、趣味のピアノに向かうことなど出来はしない。気晴らしに外に出ることも叶わない。
 こうなってくると、何らかの病を得て、将来“ベッド生活になった時”の悲惨な状況までもが思いやられてしまうことになる。
 人生をエンジョイ出来る今、まだやり残したことがあれば、その“やりたいこと”をやってしまいたいとまで考えるようになる。

 やりたい事?それは一体何なのだろう?
 ピアノに励むのは“将来上手に弾けるようになるのを楽しみ”とするからだ。だからこそ毎日努力するのであり、言ってみれば何年も先の成果を楽しみにする“長期戦の楽しみ”である。
 「残された人生が長期戦に堪えられなくて、ピアノに向かうこと自体が身体に悪く、控えた方が良い」と言うことになれば、ピアノを楽しむことはは「やりたい事」から即刻除かれることになる。そして残念なことではあるが直ぐに諦めも付く。

 「Q.O.L.(生活の質)」とよく言われるが、「闘病生活」に落ち入った時の自分の姿、惨めさが想像される。
 「自分がやりたいことが出来なくなり、他人の世話に頼りきりになる“闘病のベッド生活”が如何に辛いものであるか」を思い巡らしてしまった。
 
 これが杞憂であれば良いのだが、それは“ブログを続けられなくなる”ということにも繋がってしまう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿