友達のしゅうべいさんのブログを読んでて
ちょっと、今の人生に行き詰まった人に読んでもらいたく
転載しました。
下記「しゅうべいのちょっと哲学」より抜粋 です。
http://blog.livedoor.jp/torapa1701/
「苦しみからの解放と、囚われからの脱却」
ロジャーズが提唱した「カウンセリングにおける3つの条件」のひとつとして挙げられる
「自己一致」は、未だ多くの誤解を受けていると思われる。
己の内面にうごめく情動に無関心である者にとって、
この言葉は雲を掴むがごとく難解なものかもしれないが、
「一致」とは、思考と行動の一致といった表層的なことを指しているのではなく、
「こうであるべき」といった超自我に制約を受けている自分の思考が、
本質的な自己における自分らしさとの不一致による葛藤を超えて
「本当の自分になっていくプロセス」を示している。
ここで明確にしておきたいことは、「自分」と「自己」との区別である。
「自分」とは、まだ物心がつかない幼い頃から周囲の大人たちの操作による
「条件づけ」によって出来上がった「社会適応的人格」のことである。
一方「自己」とは、「生まれながらに備わっている本質的な私」を指している。
僕なりに解釈している「自己一致」とは、言うならば自分と自己が可能なかぎり
ズレていない自然な状態(境地)である。
たとえばカウンセリングとは、人格に支配されている自分が自己とズレている
「不一致」な苦しい状態から、「本来は、こうありたい」という本音としての
本質的な私を源泉として「それが許されていいのだ。不自然に抑圧する必要はないのだ。」
と深い位置から納得し、昨日までの「装ってきた自分」と決別し
「ありのままの私への変身」つまり「自己一致へと変容するプロセスへの支援」を意味している。
それが達成されるためには、まず今の自分が「こうでなければ・・」とか
「これではいけない」といった既成概念や常識などに基づく規範に縛られ、
成育の途上で「躾」によって反復された条件づけ(アメとムチによって飼い馴らされた性質)
に囚われ浸っている自分、すなわち「同一化」していることに気づかなくてはならない。
しかし、いままでずっと盲目的にその生き方をしてきてしまったこともあり、
“本来の私”を自分が所属している集団や、自分にとって大切な存在だと思ってきた親に対して、
じつは反抗的な想いや拒絶的な気持ちがあったことを認めるのはなかなか難しいものである。
さらに、その想いを口に出すことは、自分の存在が否定され、
ヘタをすると排除され孤立してしまうのではないか・・
という怖れや不安に苛まれることを意味する。
それらの怖れや不安が湧かないように、これまでは自分の内部に在る不満や、
相手に対する怒りなどのマイナス的な感情
(じつは、感情にはプラスもマイナスもないのだが・・
自分はそのように思いこんでいる。)に蓋をして溜めこんできたわけである。
それが苦しく重たいのは当然である。
まずは、そのような「囚われの中に浸って同一化している自分の有り様」に
気がつくことが「脱同一化」への第一歩である。
自分が同一化していることに気づけないかぎり、脱同一化は永久に叶わない。
この監獄から解放され、「させられている自分」から「したい自分」
または「する自分」へと変化し、いろんな柵から脱し
「本来の自分を取り戻すプロセス」にカウンセラーは立ち会い、寄り添うのである。
不一致な状態にあるクライエントは、カウンセラーによって為される感情への焦点化を基に、
思考に対してではなく、本質的な自己に向けられた素朴な質問
(操作的でなはなく、魂胆もなく、純粋な位置から発せられたもの)によって、
初めて自分の内面に在る自己の存在に気づき、それを観ようとする。
もちろん、怖れや不安を取り除くためには、この場所が、
またはこのカウンセラーが自分に害を及ぼさない安全なものであることが
認識できるよう配慮する必要がある。
このような、何を思っても、どんな言葉を吐いても、評価されたり
排除されない自由で安全な空間(非日常的な場)において、
徐々に本当の自分を確認していくのである。
確認できて初めて如何に自分が不一致であったかに、はっきりと気づくことになる。
気づいたからには、今後どうしたいのか?そしてどうすればいいのかについて
考え始める・・ここでようやく人は悩むことができるのだ。
多くの者は、自分にとって重大な不具合的な問題が起きて
どうしようもなくなっているとき「私はいま悩んでいる」との言葉を吐くものだが、
じつはこれは悩んでいるのではなく、「困っている」のであり、
思考の中に閉じ込められたまま泥沼に「浸っている」だけであり、
「同一化」した状態にあるわけである。
このような有り様の自分を、まるで他人事のように対象化し、
客観的に観ること、つまり「脱同一化」できて初めて人は「悩むこと」が可能となる。
いうならば、多くの人たちは「悩み方」を知らないくせに自分は悩んでいると思い込んでいるのだ。
となれば、カウンセラーの役割りとは、クライエントが
「しっかりと悩めるためにお手伝い」をすることとも言える。
ここで、少し整理したうえで別の言い方をしてみよう。
前述したように「真の自分に開かれていくプロセス」は、
これまで教育や躾によって擦り込まれたことによって構築された数々の
イラショナルビリーフ(根拠のない非合理的な思い込み)の支配からの脱却であり、
本質的な自己と自由な思考を取り戻すものである。
しかし、そこには既にこれまでの生活や対人関係において成されてきた経験則が
邪魔をする。それが不快な苦い経験であれば改善したいとも思えるだろうが、
下手にうまくやってこれたことで快を得てしまったこと、
または何とか立ち回ってこれたというコンテキストの中で不快を
避けてきたとなれば、手放すのは容易ではない。
それでも、握っているものを手放さなくては、新しい自分との出会いは果たせない。
それゆえ“産みの苦しみ”としての「死と再生」に向かう覚悟が必要となるのである。
「人生の中における“死”」とは、これまでの自分との決別を意味するものであるが、
これが成されなければ、もちろん“再生”はあり得ない。
たとえば、新たな家を建てるためには、旧い家を破壊し、
一旦さら地に戻す必要がある。
しかし、長年住み慣れた家を壊され、そのうえ裸であっては、
台風が来たらどうしよう・・とか、寒さに耐えられないのでは・・と不安が湧く。
だから、とりあえずこの古い家を増築や改築しながらなんとか使っていこうとするのである。
しかし、もう増築できるスペースもなく、
改築するにも柱にヒビ割れが起こっていて、すでに限界である。
このまま地震でも起きようものなら木端微塵に壊れてしまいそうである。
この時点でのカウンセラーは家屋診断士のようなものである。
どこがどれほど痛んでいるか、そしてこの家が既に耐久年数的に限界であり、
柱がぐらついて大きな地震には耐えられない状態であることを一緒に診てくれる。
そして迷った末に、ようやく「ならば、思いきって建てなおそう!」となるのである。(死と再生・破壊と創生)
このような展開が起こるためには、それまでの価値観が破壊されるくらいの
大きなショックが必要である。
この場合「ショック」とは、もはや修復が不可能と思えるような、
自分にとっての大事件であり、小手先の技などではうまくかわすことなどできない
ほど窮地に追い込まれることである。
いうばらば、絶望の果てにしか本当の意味での希望は見つからないともいえる。
このあたりが、西田幾多郎が言う
「哲学とは、人生の悲哀から始まらなくてはならない」や、
ヤスパースが語る「絶望こそが生まれ変わるための最大のチャンスである」
といったニュアンスの言葉等に集約されているわけである。
人は“自らの死”というものをきちんと受け入れてこそ、初めて“生”が意味を持つ。
つまり、人生の中で死ぬこと(これまでの自分を捨てること)ができる者は、
新たな自分を再構築することが可能となるが、生まれ変わる怖さから必死に過去にしがみついている者こそが、
物理的な死を選ばざるを得ない状況に追い込まれていくである。
その意味では、グルジェフの言葉にもあるように、敢えて困難に身を投げいれる
「意図的な苦しみだけが意味を持つ」のである。
現実を創り出しているのは「無自覚な自分」であり、
事がうまく運ばずに苦しんでいること自体が、
本質的自己が「自我の不当介入」に抵抗している様といえる。
最終的に、自我は自己には勝てない。
いかに粘ったとて、せいぜい身体が先に悲鳴をあげ始め病気になるだけである。
よく言われる「引き寄せの法則」や「成功マニュアル」に欠けているのはこの部分である。
自我が自己(よく潜在意識といわれているもの)をコントロールすることは、
むしろ多くの矛盾を作り出してしまう。
これを知らずに、単に欲求の充足だけを願えば転落するのはあたりまえである。
また、「笑顔を絶やさない自分」や「プラス思考!」とばかりに無理をしていれば、
いずれ病気になってしまうか、人格が崩壊するかのどちらかである。
「明るく元気なのがいいこと」または「くよくよせずに前向きに」といった思い込みによる言動が、
じつは葛藤や疑問を持ちながらの不自然な演技であることを本質的自己は知っている。
これでは紛れもなく不一致の状態であり、苦しいだけである。
このような無自覚な演技は、自分で自分の首を絞める自殺行為以外のなにものでもない。
自分の存在について考察を深めようとするのであれば、考えることをやめ、
ただ自分の胸に手を当て、自己に尋ねるだけでよいのである。
そういう意味では、身体は思考よりも先行しているといえる。
分がどうしたいのかが不明瞭な者は、身体に尋ねればよいのである。
身体はすでに答えを知っている。
ちょっと、今の人生に行き詰まった人に読んでもらいたく
転載しました。
下記「しゅうべいのちょっと哲学」より抜粋 です。
http://blog.livedoor.jp/torapa1701/
「苦しみからの解放と、囚われからの脱却」
ロジャーズが提唱した「カウンセリングにおける3つの条件」のひとつとして挙げられる
「自己一致」は、未だ多くの誤解を受けていると思われる。
己の内面にうごめく情動に無関心である者にとって、
この言葉は雲を掴むがごとく難解なものかもしれないが、
「一致」とは、思考と行動の一致といった表層的なことを指しているのではなく、
「こうであるべき」といった超自我に制約を受けている自分の思考が、
本質的な自己における自分らしさとの不一致による葛藤を超えて
「本当の自分になっていくプロセス」を示している。
ここで明確にしておきたいことは、「自分」と「自己」との区別である。
「自分」とは、まだ物心がつかない幼い頃から周囲の大人たちの操作による
「条件づけ」によって出来上がった「社会適応的人格」のことである。
一方「自己」とは、「生まれながらに備わっている本質的な私」を指している。
僕なりに解釈している「自己一致」とは、言うならば自分と自己が可能なかぎり
ズレていない自然な状態(境地)である。
たとえばカウンセリングとは、人格に支配されている自分が自己とズレている
「不一致」な苦しい状態から、「本来は、こうありたい」という本音としての
本質的な私を源泉として「それが許されていいのだ。不自然に抑圧する必要はないのだ。」
と深い位置から納得し、昨日までの「装ってきた自分」と決別し
「ありのままの私への変身」つまり「自己一致へと変容するプロセスへの支援」を意味している。
それが達成されるためには、まず今の自分が「こうでなければ・・」とか
「これではいけない」といった既成概念や常識などに基づく規範に縛られ、
成育の途上で「躾」によって反復された条件づけ(アメとムチによって飼い馴らされた性質)
に囚われ浸っている自分、すなわち「同一化」していることに気づかなくてはならない。
しかし、いままでずっと盲目的にその生き方をしてきてしまったこともあり、
“本来の私”を自分が所属している集団や、自分にとって大切な存在だと思ってきた親に対して、
じつは反抗的な想いや拒絶的な気持ちがあったことを認めるのはなかなか難しいものである。
さらに、その想いを口に出すことは、自分の存在が否定され、
ヘタをすると排除され孤立してしまうのではないか・・
という怖れや不安に苛まれることを意味する。
それらの怖れや不安が湧かないように、これまでは自分の内部に在る不満や、
相手に対する怒りなどのマイナス的な感情
(じつは、感情にはプラスもマイナスもないのだが・・
自分はそのように思いこんでいる。)に蓋をして溜めこんできたわけである。
それが苦しく重たいのは当然である。
まずは、そのような「囚われの中に浸って同一化している自分の有り様」に
気がつくことが「脱同一化」への第一歩である。
自分が同一化していることに気づけないかぎり、脱同一化は永久に叶わない。
この監獄から解放され、「させられている自分」から「したい自分」
または「する自分」へと変化し、いろんな柵から脱し
「本来の自分を取り戻すプロセス」にカウンセラーは立ち会い、寄り添うのである。
不一致な状態にあるクライエントは、カウンセラーによって為される感情への焦点化を基に、
思考に対してではなく、本質的な自己に向けられた素朴な質問
(操作的でなはなく、魂胆もなく、純粋な位置から発せられたもの)によって、
初めて自分の内面に在る自己の存在に気づき、それを観ようとする。
もちろん、怖れや不安を取り除くためには、この場所が、
またはこのカウンセラーが自分に害を及ぼさない安全なものであることが
認識できるよう配慮する必要がある。
このような、何を思っても、どんな言葉を吐いても、評価されたり
排除されない自由で安全な空間(非日常的な場)において、
徐々に本当の自分を確認していくのである。
確認できて初めて如何に自分が不一致であったかに、はっきりと気づくことになる。
気づいたからには、今後どうしたいのか?そしてどうすればいいのかについて
考え始める・・ここでようやく人は悩むことができるのだ。
多くの者は、自分にとって重大な不具合的な問題が起きて
どうしようもなくなっているとき「私はいま悩んでいる」との言葉を吐くものだが、
じつはこれは悩んでいるのではなく、「困っている」のであり、
思考の中に閉じ込められたまま泥沼に「浸っている」だけであり、
「同一化」した状態にあるわけである。
このような有り様の自分を、まるで他人事のように対象化し、
客観的に観ること、つまり「脱同一化」できて初めて人は「悩むこと」が可能となる。
いうならば、多くの人たちは「悩み方」を知らないくせに自分は悩んでいると思い込んでいるのだ。
となれば、カウンセラーの役割りとは、クライエントが
「しっかりと悩めるためにお手伝い」をすることとも言える。
ここで、少し整理したうえで別の言い方をしてみよう。
前述したように「真の自分に開かれていくプロセス」は、
これまで教育や躾によって擦り込まれたことによって構築された数々の
イラショナルビリーフ(根拠のない非合理的な思い込み)の支配からの脱却であり、
本質的な自己と自由な思考を取り戻すものである。
しかし、そこには既にこれまでの生活や対人関係において成されてきた経験則が
邪魔をする。それが不快な苦い経験であれば改善したいとも思えるだろうが、
下手にうまくやってこれたことで快を得てしまったこと、
または何とか立ち回ってこれたというコンテキストの中で不快を
避けてきたとなれば、手放すのは容易ではない。
それでも、握っているものを手放さなくては、新しい自分との出会いは果たせない。
それゆえ“産みの苦しみ”としての「死と再生」に向かう覚悟が必要となるのである。
「人生の中における“死”」とは、これまでの自分との決別を意味するものであるが、
これが成されなければ、もちろん“再生”はあり得ない。
たとえば、新たな家を建てるためには、旧い家を破壊し、
一旦さら地に戻す必要がある。
しかし、長年住み慣れた家を壊され、そのうえ裸であっては、
台風が来たらどうしよう・・とか、寒さに耐えられないのでは・・と不安が湧く。
だから、とりあえずこの古い家を増築や改築しながらなんとか使っていこうとするのである。
しかし、もう増築できるスペースもなく、
改築するにも柱にヒビ割れが起こっていて、すでに限界である。
このまま地震でも起きようものなら木端微塵に壊れてしまいそうである。
この時点でのカウンセラーは家屋診断士のようなものである。
どこがどれほど痛んでいるか、そしてこの家が既に耐久年数的に限界であり、
柱がぐらついて大きな地震には耐えられない状態であることを一緒に診てくれる。
そして迷った末に、ようやく「ならば、思いきって建てなおそう!」となるのである。(死と再生・破壊と創生)
このような展開が起こるためには、それまでの価値観が破壊されるくらいの
大きなショックが必要である。
この場合「ショック」とは、もはや修復が不可能と思えるような、
自分にとっての大事件であり、小手先の技などではうまくかわすことなどできない
ほど窮地に追い込まれることである。
いうばらば、絶望の果てにしか本当の意味での希望は見つからないともいえる。
このあたりが、西田幾多郎が言う
「哲学とは、人生の悲哀から始まらなくてはならない」や、
ヤスパースが語る「絶望こそが生まれ変わるための最大のチャンスである」
といったニュアンスの言葉等に集約されているわけである。
人は“自らの死”というものをきちんと受け入れてこそ、初めて“生”が意味を持つ。
つまり、人生の中で死ぬこと(これまでの自分を捨てること)ができる者は、
新たな自分を再構築することが可能となるが、生まれ変わる怖さから必死に過去にしがみついている者こそが、
物理的な死を選ばざるを得ない状況に追い込まれていくである。
その意味では、グルジェフの言葉にもあるように、敢えて困難に身を投げいれる
「意図的な苦しみだけが意味を持つ」のである。
現実を創り出しているのは「無自覚な自分」であり、
事がうまく運ばずに苦しんでいること自体が、
本質的自己が「自我の不当介入」に抵抗している様といえる。
最終的に、自我は自己には勝てない。
いかに粘ったとて、せいぜい身体が先に悲鳴をあげ始め病気になるだけである。
よく言われる「引き寄せの法則」や「成功マニュアル」に欠けているのはこの部分である。
自我が自己(よく潜在意識といわれているもの)をコントロールすることは、
むしろ多くの矛盾を作り出してしまう。
これを知らずに、単に欲求の充足だけを願えば転落するのはあたりまえである。
また、「笑顔を絶やさない自分」や「プラス思考!」とばかりに無理をしていれば、
いずれ病気になってしまうか、人格が崩壊するかのどちらかである。
「明るく元気なのがいいこと」または「くよくよせずに前向きに」といった思い込みによる言動が、
じつは葛藤や疑問を持ちながらの不自然な演技であることを本質的自己は知っている。
これでは紛れもなく不一致の状態であり、苦しいだけである。
このような無自覚な演技は、自分で自分の首を絞める自殺行為以外のなにものでもない。
自分の存在について考察を深めようとするのであれば、考えることをやめ、
ただ自分の胸に手を当て、自己に尋ねるだけでよいのである。
そういう意味では、身体は思考よりも先行しているといえる。
分がどうしたいのかが不明瞭な者は、身体に尋ねればよいのである。
身体はすでに答えを知っている。