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「茅舎浄土」の世界(その六)

2010-05-16 14:53:24 | 川端茅舎周辺
「茅舎浄土」の世界(その六)


○ 秋風や薄情にしてホ句つくる

 『川端茅舎句集』所収。「芸術(茅舎の場合は絵)の道は厳しく、世間から見れば鬼に見えるくらいに薄情にならなければならない時がある。そんな薄情な人間が、俳句を作っていると云うおかしみ。自分の薄情さがよく分かっているだけに、この秋風は茅舎の身にしみる。『ホ句』は『発句』で俳句のこと」(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。しかし、この句は曰くあり気な句なのである。「昭和三年十月号の『ホトトギス』に発表のもの。(中略)茅舎としては異色の作といってもいいのである。それもそのはず、これは実は茅舎の僚友というよりか先輩に当る西島麦南の作なのである。『これは麦南作とするより茅舎作とする方がふさわしい』などと戯れに麦南句帖より抜きとって自作とし、『ホトトギス』に茅舎は投句してしまったものという。今日、八十六歳の麦南は健在だから右はざれ言に言うのではない。茅舎の一面を語る一事としてここに証言しておく。尚、当時の麦南には『秋風や殺すに足らぬひと一人』の句があることも」(石原八束著『川端茅舎』)。ここに出てくる西島麦南は、昭和四年(一九二九)に、草創期の「雲母」に入り、飯田蛇笏に師事、自ら「生涯山廬(ろ)門弟子」と称し、蛇笏没後は飯田龍太を援け重きをなした逸材。茅舎より二歳年上で、茅舎とは、「絵画」・「俳句」・「新しき村」(武者小路実篤主宰)と、切っても切れない交友関係にある。そして、茅舎もまた、麦南の勧誘によるものなのであろうか、俵屋春光の筆名で「雲母」に投句しているのである。ちなみに、この筆名の「俵屋」は、俵屋宗達の「俵屋」のイメージもあろうが、より以上に父方の屋号によるものとのことである(石原八束・前掲書)。ともあれ、この掲出の句は、当時の「雲母」の俳人・西島麦南との交友関係を背景にして誕生したものなのであろう。こういう茅舎と麦南との交友関係を背景にして、この句に接すると、「麦南さんは、薄情どころではない。薄情なのは、茅舎であって、この句は麦南作というよりも、茅舎作ということで、真実味が出てくる」とか、そんな茅舎の洒落気の俳諧味のある一句と解したい。そして、茅舎の俳句のスタートは、父とともに句会などに出ての、久保田万太郎の江戸俳諧的な「嘆かいの発句」(芥川龍之介の万太郎の句を評してのもの)の、そのような土壌からであった。この句の真実の作者が、西島麦南であるとしても、茅舎が、「この句を佳しとして、自分の名で、『ホトトギス』に投句して、虚子の選句を経たもの」で、さらに、その第一句集の『川端茅舎句集』に集録していることから、この二人の関係からして、これは茅舎作と解しておきたい。そして、西洋的な独創性とか重視する風土ではなく、俳諧が本来的に有していた、「座の文学」・「連衆の文学」としての「発句の世界」的風土に、茅舎が片足を入れていたということもまた特記して置く必要があろう。



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