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「茅舎浄土」の世界(その九)

2010-05-16 14:58:44 | 川端茅舎周辺
「茅舎浄土」の世界(その九)

○ わが魂のごとく朴咲き病よし(昭和十六年七月「ホトトギス」)
○ 朴の花猶青雲の志 (同上)
○ 父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり (同上八月)

 茅舎が亡くなったのは、昭和十六年(一九九四一)七月十七日のことであった。この最期の病床にあって、この三句目は、茅舎庵の「父(寿山堂)が植えて花の咲くのを待っていた、そして、我(茅舎)もそのことを毎年のように待っていた、朴の花が咲きました」という、これは実景の嘱目の句と解したい。そして、この一句目は、「その朴の花は、わが(茅舎)化身の魂のごとくに真っ白に咲き、それを見ていると宿痾の病も和らぐのです」というのであろうか。そして、この二句目は、「そして、いつまでも、いつまでも、その朴の花を見ていると、この死の幻影を垣間見るこの時にあっても、猶、沸々とたぎるような若かりし頃の絵画への情熱が込み上げてくるのです」という、茅舎の絶唱なのであろう。この句を評して、茅舎の良き理解者であった高野素十は、「猶といふ字がまことに淋しい」とどこかに記しているとか(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。この「猶」の一字に、茅舎の四十四年の生涯の全てが要約されているような思いが去来する。この句は、句のスタイルの面からも、この「猶」が、上五の「朴の花」と破調の下十の「青雲の志」とを結びつけているキィワードのような独特のスタイルとなっている。この三句目は、昭和十六年八月「ホトトギス」の巻頭の一句で、「青露庵の朴が咲いたのは、五月十日。茅舎は大変喜んで、『この朴の木は植ゑてから八年目ですよ』と抱風子に語っている」とか(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。この「抱風子」とは、茅舎の最期の句集『白痴』の実質的な編集者(茅舎の「あとがき」にその名が出てくる)、相馬抱風子のことで、最も、当時の茅舎の身辺にあった直弟子ということになろう。そして、この茅舎の最期の句集『白痴』は、それまでの茅舎句集の『川端茅舎句集』(第一句集)・『華厳』(第二句集)と違って、「ホトトギス」の入選句、そして、さらに、虚子の再選を経たものではなく、茅舎の企画で、茅舎の選で、茅舎が思うとおりに、相馬抱風子をして、編集させたというのが、その真相のようなのである(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。これらに関して、「ホトトギス」門の俳人で、虚子の手を煩わせないでの、その企画と選句とをしたものは、「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子くらいで、茅舎としては、この『白痴』(こういう西洋的なイメージの強いものは虚子は好まないであろう)を刊行するに当って、その虚子への配慮からも、「白痴茅舎」というような、そんな意味をも込めての「白痴」だったようにも思えるのである。なお、当然のことながら、これらの茅舎が亡くなる直前の掲出の朴の句は、茅舎の第三句集『白痴』には集録されていない。


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