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寺山修司・「チエホフ祭」

2009-02-22 14:22:42 | 寺山修司周辺
前衛派の旗手たち(その五)より

 一巡して、再び、克衛とも思ったが、二巡目のトップは、修司でいくこととする。まず、ここで、一九五四年、修司、十八歳のときに、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」を見てみたい(下記の○印。これは、下記のアドレスによっている)。

http://www.d9.dion.ne.jp/~sachiee/

 これらの作品を、『寺山修司全歌集』(一九八二年刊)と照らし合わせて見ていくと、一九五九年の、二十二歳のときの、第一歌集『空には本』 (「チエホフ祭」・「冬の斧」・「直覚の空」・「浮浪児」・「熱い茎」・「少年」・「祖国喪失」・「僕のノート」)では、「チエホフ祭」の章(二十七首)以外に分散されて収載されてくる(下記の▲印)。

 修司は、この第一歌集『空には本』に先立って、一九五八年に、『われに五月を』を刊行し、それらは、後に、『寺山修司全歌集』では、「初期歌篇」として収載されるのだが、その「初期歌篇」からの「チエホフ祭」のものは下記の△印である。
 これらを見ていくと、修司、十八歳のときの、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」の作品群というのは、修司が、青森高校に入学して、俳句・短歌の創作を始めた十五歳の頃から、その受賞に輝いた十八歳までのもののうちの秀歌を網羅していると解せられるのである。
そして、これらの作品には、当時、同時並行して創作していた「俳句」(五七五)を「短歌」(五七五七七)にアレンジ(再構成)したものも、当然のごとくに察知されるのである(下記の※印。その本句の俳句。ここでは二例のみ上げたが、詳細に検討していくと相当数にのぼると思われる)。それに加えて、当時の俳壇の、秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷・大野林火らのアレンジかというのも、これまた、ここでは指摘をしていないが、相当数にのぼると思われるのである。
 これらのことが、修司の名高い「チエホフ祭」の短歌周辺のことなのであるが、その上で、あらためて、下記の作品群を見ていくと、やはり、修司を発見した、中井英夫が驚嘆して賛辞を憚らなかった、その全貌が見えてくる。
ここで、修司が俳句の方で最も傾倒したと思われる秋元不死男や西東三鬼の盟友の平畑静塔の「定型不実論」(『俳人格』所収「不実物語」・「私の定型感入門」)というものに触れて置きたい。

・・・ある意味では俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっている。

・・・俳句の内容(素材と言ってもよい)だとか、中身の思想とかは言ってみれば作詞家の仕事なので、俳人は作詞と歌手を兼ねていると言えぬことはあるまい。

・・・歌手の唄う場面を見聞すると作詞などはそれほど大して役に立っていない。いかに上手にその曲を歌いこなすか、どういう表情で、どんな衣装を着て、どんな身振りで一曲を歌うかに歌手の力倆がかかっているのである。

・・・唄うことは幼児を見れば分かるように、初めは真似ることから始まるのである。真似るということは当然前人の定まった型があって、それを何べんも何べんも繰り返すことである。唄うのは人間自然の本能ではあっても、唄う術は真似することで身に付くのである。

・・・俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかは不詳である。何百年か何千年の昔から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はいないのではないか。

・・・真似することが俳句の定型を何百年支えてきたことを思えば、真似することがどれだけこの定型文化を生んだ原動力であったことか量り知れないくらいである。

・・・これだけ長い間、無数の人間が真似しつづけてゆけるのは、この定型という曲譜が、人間を安心さす力があるからではないか。最高のお手本だから、誰でも彼でもこれに則って真似してゆけるのだ。

・・・毒にも薬にもならぬという諺があるが、真水のように万人が安心して口をつけられるということ、つまり俳句の定型には、もはや毒気も薬気もすっかり洗い落とされてしまって、万人向きに濾過されてしまったあげくの淡白な本質がかもし出されているということである。

 長い引用になったが、「俳句・短歌の定型が曲譜で、歌人・俳人は、作詞家兼歌手、若しくは、一介の歌手に過ぎない」という考え方である。ここで、「作詞家兼歌手」と「一介の歌手」との区別は、「本歌・本句・本説取り」を専らとする作家とそうでない作家とを一つの目安とすることも一つの便法であろう。とすると、その目安の前者は、「一介の歌手」、そして、後者は「作詞家兼歌手」ということになる。
 この区分・目安からすると、まさに、歌人・寺山修司も、俳人・寺山修司も、丁度、演歌界の「美空ひばり」のように、抜群の歌手、唄い手ということになる。また、歌人・塚本邦雄や俳人・高柳重信は、短歌、そして、俳句の定型に、もう一度「毒気や薬気」を注入せんとしての「作詞家兼歌手」という形相であろうか。そして、詩人の北園克衛は、さながら「作曲家」というイメージなのである。
これは、極めて大雑把な見方で、それだけに危険な要素を内包しているけれども、要は、「短歌・俳句のオリジナリティ」というのは、「作曲家・作詞家兼歌手・歌手」との三句分により、それは、それぞれに異なって理解されるべきものではなかろうかという考え方である。

 この観点からするならば、歌人・寺山修司の「チエホフ祭」でのデビューに際して、「模倣小僧あらわる」などの凄まじい拒絶反応は、真に、「短歌・俳句の定型」と、そして、「短歌・俳句のオリジナリティ」と、はたまた、「俳人にして歌人・寺山修司」の何たるかを理解しない、曲学阿世の輩ということになるのではなかろうか。

 はなはだ、寺山修司贔屓の論理の展開になってしまったが、とにもかくにも、十八歳の寺山修司の下記の作品を、何の色眼鏡を掛けないで、じっくりと味わって欲しとの、この一点につきる。この「寺山修司を抜きにして、現代短歌を語ることはできない」(中井英夫著『黒衣の短歌史』)と、さらに、それを拡げて、「現代俳句についても然り」ということを、ここで特記をして置きたいのである。

(「チエホフ祭」)

○▲マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(「祖国喪失」)
○▲一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(「チエホフ祭」)
○△そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット(『初期歌篇』)
○△胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし(『初期歌篇』)
○△草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ(『初期歌篇』)
○△とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を(『初期歌篇』)
○ わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
○△吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき(『初期歌篇』)
○△ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん(『初期歌篇』)
○△雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌(『初期歌篇』)
○ 一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし
○△俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく(『初期歌篇』)
○▲すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび(「祖国喪失」)
○▲※チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび(「チエホフ祭」) (林檎の木ゆさぶりやまず遭いたきとき)
○▲父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ(「冬の斧」)
○△胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど(『初期歌篇』)
○ すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫
○▲※桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる(「チエホフ祭」)(チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き)
○△煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし(『初期歌篇』)
○ うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く
○ わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
○△ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし(『初期歌篇』)
○▲勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり(「祖国喪失」)
○△海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(『初期歌篇』)
○ 転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ
○ やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
○△蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして(『初期歌篇』)
○▲北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく(「冬の斧」)
○△罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり(『初期歌篇』)
○△すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり(『初期歌篇』)
○ ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ
○ うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき
○ 晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ
○ 遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん
○ 夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ
○▲誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ(「熱い茎」)
○ 刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり
○ 製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ
○△ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに(『初期歌篇』)
○ ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死
○▲夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでもゆけどわが影を出ず(「熱い茎」)
○ 胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す
○▲わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして(「少年」)
○▲サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに(「少年」)
○▲外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて(「冬の斧」)
○▲冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや(「冬の斧」)
○ 墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり
○▲口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに(「浮浪児」)
○ 地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり




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