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寺山修司の俳句(本歌取りの句)

2009-02-22 14:06:43 | 寺山修司周辺
前衛派の旗手たち(その四)より

 「寺山修司の俳句」については、下記のアドレスで簡単な鑑賞を試みた。

  http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_26.html

 そこで、その最後の鑑賞あたりに次のようことを記した。

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)

(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている

○ 教師とみる階段の窓雁かへる
         (「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)

(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
       (「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)

(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。

 寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となったものである。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。

○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司) ・・・

 上記は、修司の俳句についての記述なのであるが、ここでは、歌人としての修司の世界について触れて置きたい。まず、上記の「修司は『第二回短歌研究新人賞特薦』の『チェホフ祭』を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる」の、この「短歌研究新人賞」をプロモーターしたその人は、前回(その三)紹介した、中井英夫、その人なのである。ここで、中井英夫は、次のように記述している(「国文学」昭和五一・一)。

・・・塚本(注・邦雄)には最初から舌を巻き、稟質への危惧はまったくなかったけれども、寺山となると、先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂と、斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題もあって、果して中城(注・ふみ子)に続く特選にすべきか、それとも第二回は該当者なしとして推薦にとどめるべきか、杉山正樹と二人でさんざん迷ったあげく、目次に入れるべき凸版だけは特選と推薦と二つ作っておき、本人に会った最初の印象でどちらかに決めようということになった。そしてまだ黒の学生服に学帽をあみだかぶりにした本人が初めて日本短歌社を訪ねてきたときは、とっさに推薦の方の合図を送ったほどである。

 この「先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂」というのは、上述の「人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、『ホトトギス』の高浜虚子主宰をして、『辺境に鉾を進める征虜大将軍』(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する『天狼』の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった」ということと軌を一にする。また、「斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題」というのは、いわゆる、上述の、「寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの『本句取り』の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ」ということに関連したものであった。
 この「本句取り」ということについては、具体的には、上述の、秋元不死男の代表作の、「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」という俳句作品を、「鳥は雁」に、「こきこきこきと」は「コキコキコキと」に、そして、「罐切れば」は「罐詰切れば」にアレンジ(再構成・編曲・脚色など)して、「わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば」という短歌作品を創作することである。
これを「剽窃」(パクリ)と見るか、「等類・類句・同巣=『去来抄』の『前に作りたる句の鋳型に入りて作する句』・『本歌・本句・本説取りの句』」(アレンジ・パロディ)と見るか、古来からさまざまな議論がなされてきたところのものであるが、方向としては、「独創性」を重視する西洋的な「個人創作」を絶対視する立場からは「否定的」に、そして、「連想性」を重視する日本的な「協同・共同創作」も可とする立場からは「肯定的」に解するという傾向にあるのではなかろうか。
これらの「否定的な考え」と「肯定的な考え」とは、一般的に、「俳句」については、「俳句は十七音であり、かつ季語を必須条件とするため、時として類句が生じるのはやむを得ない。偶然の暗合によってまったく同一の句または類句が生じた時は、制作時期の先行を優先条件として、潔く取り消すほかはない。近年の俳句ブームの影響の一として、俳句大会における類句の頻出が見られる」(『俳文学大辞典』・「類句(山崎ひさを)」)という立場の方が多いのではなかろうか。このことは、「短歌」の世界にも均しく見られることのなのかも知れない。
とすると、この立場からするならば、寺山修司の「俳句」や「短歌」というのは、否定的に評価される面が多々あるということと、そして、同時に、その危険性が常に内在しているというところに、「寺山修司の創作工房の特色」があるということは、ここで、どうしても触れて置く必要があるのであろう。
この「寺山修司の創作工房の特色」ということに関連して、修司は、「定型という詩型の俳句・短歌」の創作にあたって、去来のいうところの、「前に作りたる句の鋳型に入りて作する句」、すなわち、「定型という鋳型に入りて作する」ことを、十五歳の頃の「青森高校に入学する」頃から、そういう創作姿勢を持ち続け、そして、そこからスタートしているということなのである。
これらを、上述の作品で具体的に触れてみると、次のとおりとなる。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて (修司)
○ 中年や遠くみのれる夜の桃  (西東三鬼)

 修司の、「桃太る」は、三鬼の「みのれる桃」。修司の、「桃太る夜は」は、三鬼の「遠くみのれる夜の桃」。修司の「怒りを詩にこめて」の「て留め」は、三鬼の「中年や」の「や切り」にアレンジされていると見ることも可能であろう。
そして、「修司の心の創作工房」というは、まずもって、「五七五」という「定型の鋳型」があって、そこに、「桃・太る・実る・みのる・夜・朝・昼・怒り・嘆き・詩・歌・句」などなど、さまざまな語句や切字を散りばめて、そして、「これで好し」とする「語句・スタイル」を探し当て、それをもって「一句とする」という、そういう姿勢が基本的な作句スタイルのようなのである。

○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば(修司)
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば           (秋元不死男)

 これらについては、先に触れたところであるが、その上述のものに付け加えて、まずもって、修司の眼前には、「五七五七七」という「定型の鋳型」がある。そして、その「定型の鋳型」を見ていると、私淑する秋元不死男の一句が想起してくるのである。そして、「鳥」は、和歌・連歌の時代から詠い継がれてきたところの、「雁」に変身をするのである。その古典的な「雅語」に対して、ここは、平仮名表記の「こきこきこき」が、「俗語」の無機質的な「コキコキコキ」が絶対的な「擬態語」・「擬音語」(オノマトペ)として動かないものとなってくる。そして、俳句の下五の「罐切れば」は、短歌の下の句(七七)の七の「罐詰切れば」と、これまた、動かない。それらの骨格が出来上がって、その後は、「スラスラスラ」と「わが下宿・北へゆく『雁』・今日見ゆる・『コキコキコキ』と・『罐詰切れば』」が、口をついて出てくるのである。

 これらの、修司の「心の創作工房」で推敲に推敲を施した「俳句・短歌」というものを、「類句」の世界、あるいは、「剽窃句」の世界のものとして、一顧だにしないという鑑賞姿勢は許されるのであろうか。その是非は、ここでは、これ以上、触れないこととする。そして、次のことを、どうしても触れて置きたいのである。

 これまで見てきたところの、克衛・重信・邦雄の創作の世界が、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とに、大なり小なり、それらを意識したものと理解されるように、修司もまた、「これらの定型という詩型の短歌・俳句という鋳型の何たるかを知り、それを最高限度に活かし切った類稀なる創作人であった」と、丁度、「克衛・重信・邦雄の創作の世界」との逆接的ともいえるところの、その一変容のような思いを深くするのである。


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