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寺山修司・「懐かしのわが家」他

2009-02-22 14:52:17 | 寺山修司周辺

前衛派の旗手たち(その十二)より

「 スキャンダリズムの効用(扇田昭彦稿)」(「国文学」昭和五一・一)で、寺山修司について、次のように記述している。

・・・常識的な区分から考えてみても、「寺山修司とはいったい何者なのか?」という単純な問いの前に、私たちはほとんど絶句せざるをえない。職業ジャンルの上からいえば、彼はまず俳人であり、歌人であり、詩人であり、小説家であり、エッセイストである。さらに彼は放送作家、シナリオライターであり、劇作家、演出家、劇団主宰者、映画監督、競馬評論家、テレビタレント、全国家出少年身許引受け人であり、そのうえ『幻想写真館・犬神家の人々』というユニークな写真集を上梓した写真家でもある。

・・・こうした脱領域的なタイプの創造者は、何事につけても、ひと筋の道をひたむきに禁欲的に歩むことをもって尊しとする日本の伝統的芸術風土のなかでは、たちまち異端児、ないしはイカサマ師として扱われるのがつねである。

・・・大正末期から昭和のはじめにかけて「先駆芸術運動の帝王者」(高見順『昭和文学盛衰史』)と形容され、芸術の諸ジャンルの境界線を攪乱したかつての旺盛な前衛芸術家・村山知義との間に、その世評においてある種の類縁性を感じないわけにはいかないのだ(注・村山知義については「その十」で触れた)。

・・・寺山修司によって、スキャンダリズムはふたたび、あらゆるものの奇想天外な出会いの魅惑と両面価値的なバイタリティーの輝きを本来的に回復したのである。・・・永遠のスキャンダリストとは、あらゆる価値意識の定着化、固定化を拒否するゆえに、つねに流動的、挑発的、攻撃的であり、永遠に自己完結しない半芸術ないしは非芸術の荒野を駆けぬけていく者のことだ。

・・・だからこそ、こうしたトリックスターに浴びせられるのは、つねに畏怖と嘲笑の二つのことばであろう。だが、あらゆる意味で悲劇的、感傷的な意味あいを排除していえば、それこそが価値攪乱者としての寺山修司にはふさわしく、それこそがトリックスターとしての栄光の孤独、あるいは孤立者の栄光なのである。  

 永遠のスキャンダリストの寺山修司は、一九八三年五月四日に瞑目した。その瞑目する八ヶ月前の、一九八二年九月一日の「朝日新聞」に、「懐かしのわが家」と題する作品(詩)が掲載された。これが、最後の「遺稿」となってしまった。修司の良き理解者であった、詩人・谷川俊太郎は、次のとおりの、この詩の感想を漏らしたという(『現代詩文庫 続寺山修司詩集』所収「死ぬのは他人ばかりか?(佐々木幹郎稿)」)。

・・・寺山は最後に名作を遺したんだよ。あの一作だけで寺山の詩集は充分だ。「懐かしのわが家」は彼が詩人であったことの証明なんだと思う(谷川俊太郎)。

懐かしのわが家(寺山修司)

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽のいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた
桜の木が内部から成長をはじめるときが来たことを

子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ  


 ここで、寺山修司の俳句(一句)と短歌(一首)の鑑賞について、心に残ったものを次に付記して置きたい。

 (「増殖する俳句歳時記」)

 http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960716,19960903,19961107,19970510,19970619,19971002,19980528,19990523,19990911,20000304,20010504,20030310,20030501,20050301,20060917,20070502,20070622,20080127,20080404&tit=%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E5%8F%B8&tit2=%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E5%8F%B8%E3%81%AE

May 02-2007

 アカハタと葱置くベット五月来たる   

 寺山修司 修司が一九八三年五月四日に亡くなってから、もう二十四年になる。享年四十七歳。十五歳頃から俳句を作りはじめ、やがて短歌へとウエイトを移して行ったことはよく知られている。掲出句は俳誌「暖鳥」に一九五一年から三年余(高校生~大学生)にわたって発表された二百二十一句のなかの一句(「ベット」はそのまま)。当時の修司がアカハタを実際に読んでいたかどうか、私にはわからないし、事実関係はどうでもよろしい。けれども、五〇年代に高校生がいきなり共産党機関紙アカハタをもってくる手つき、彼はすでにして只者ではなかった。いかにも彼らしい。今の時代のアカハタではないのだ。そこへ、葱という日常ありふれた何気ない野菜を添える。ベットの上にさりげなく置かれている他人同士。農業革命でも五月革命でもない。修司流に巧みに計算された取り合わせである。アカハタと葱とはいえ、「生活」とか「くらし」などとこじつけた鬱陶しい解釈なんぞ、修司は最初から拒んでいるだろう。また、アカハタ=修司、葱=母という類推では、あまりにも月並みで陳腐。さわやかな五月にしてはもの悲しい。むしろ、ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で偶然出会うという図のパロディではないのか。すでにそういう解釈がなされているのかどうかは知らない。同じ五月の句でも、誰もが引用する「目つむりていても吾を統(注・す)ぶ五月の鷹」も、ほぼ同時期の作である。いろんな意味で、修司には五月がよく似合う。病気をした晩年の修司は、再び俳句をやる意向を周囲にもらしていたが、果してどんな俳句が生まれたであろうか。『寺山修司コレクション1全歌集全句集』(1992)所収。(八木忠栄)

 (短歌のお部屋(現代短歌鑑賞日記))

 http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/month?id=78957&pg=200212

 2002年12月28日(土) 寺山修司の一首

☆今日の一首

人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ(寺山修司) 
***1971年刊『寺山修司全歌集』収録未刊歌集「テーブルの上の荒野」より。

 修司は「短歌は、いわば私の質問である」と書いている。そして、「質問としての短歌さえも自己規定の中から生まれたものであることを知った」と述べ、作歌活動を終えてしまった。31音の制約の中で質問を発し、それが孤独の中に響いているだけのものであることに気付いているのは、修司だけではないはずだ。けれども、多くの歌を詠む人は短歌にわかれを告げない。修司のように31文字の制約を「牢獄」とみなすことも、質問への答えを切実に求めることも諦めたものだけが、短歌という形を愛することができるのだろうか。この作品のように、文学や生きることに対して、まっすぐな疑問を投げかける歌は心に響く。この歌が彼の作品の中で人気の高いものであることは当然だと思う。多くの歌人のなかで、特異な魅力のある修司が短歌に別れを告げてしまったことが惜しまれてならない。



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