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「没後三百年記念芭蕉展」に寄せての序章 

2007-04-24 12:48:50 | 下野俳諧史
「没後三百年記念芭蕉展」に寄せての序章                                                                    
平成五年(一九九三)八月に、東京の出光美術館(九月に、伊丹市の柿衞文庫)において、「没後三百年記念芭蕉展」が開催された。八月のある日、その会場を訪れたが、雨の日にもかかわらず盛況を極めていた。    
何故に、「今、芭蕉なのであろうか--」というようなことを問題意識にしながら、その百二十点にものぼる芭蕉遺墨と関連資料を、図録を頼りに見入っていった。そして、確実に手応えのあったことは、「芭蕉は、今日いわれるような俳人(俳句創作者)ではなく、まぎれもなく、今の世ではその存在が絶えてしまったところの、いわゆる俳諧師(歌仙〈連句〉やその発句〈俳句〉の創作者)なのだ」という実感であった。     
と同時に、「現代では、俳句だけが隆盛で、その基になっている俳諧(歌仙〈連句〉)が省みられないのは、何故なのだろうか」という実感であった。実に、この問題は、今から、五十年余の前、柳田民族学を確立した、あの柳田国男氏によって、はっきりと指摘されていることであった。                    
「正風不易とまでたたえられた蕉門の俳諧が、発句ばかりをこの世に残して、その他は久しからずして振棄てられ、同じ流れを汲むという人々にすら、なお説明のできぬものになった理由や如何。」(柳田国男著『木綿以前の事』所収「生活の俳諧」)
 この問題は、つまるところ、「座」(文芸協同体としての集まり)の持つ特殊性に帰着すると思われる。 すなわち、それは、「連衆が寄り集まって創作と享受をともにし、一座の興を楽しむ“座の文芸”としての性格と、できあがった一巻の作品を懐紙に浄書し、もしくは撰集に載せて鑑賞し、批評する“書かれた文芸”としての性格との二元的な性格が付随している」(尾形仂著『座の文芸』)という俳諧の持つ二元的な性格に起因すると思われる。                       
その最も中核にある問題点は、「俳句が、内容的にも形式的にも、言語表現としの完結性を求め、自己の“生きざま”のモノローグとしての“近代的な個性の詩”を志向するのに対して、俳諧は、その自己完結性を放棄し、相手に問いかけて、その答えを求め、無限に連鎖しようとする、そのダイアローグとしての“前近代的な唱和的・対詠的な協同詩”の中に、その存在意義を認めようとする。そして、この俳諧の前近代性が、今日の俳諧の衰微性に繋がっている」(山本健吉著『山本健吉俳句読本(一)』所収「ディアローグの芸術」・『文芸読本 松尾芭蕉』所収「芭蕉」の要約)という指摘で換言できるものと解せられる。
さて、問題はここから先なのである。一体、俳句が、「自己の“生きざま”のモノローグとしての“近代的な個性の詩”」たらんとするならば、それは、俳句(形式)よりも他の優れた文学(形式)に、その座を譲る必要があるやに思われてならないのである。       
そして、このことこそが、昭和二十一年の、桑原武夫氏の「(俳句)第二芸術論」の提起した最重要な問題点に他ならない。そして、この「第二芸術論」に対する必死の反発こそが、今日の俳句界の隆盛をもたらした最大の要因と思われてくるのだ。            
と同時に、この「第二芸術論」への俳人達の必死の抵抗が、ますます、「ダイアローグとしての“前近代的な唱和的・対詠的な協同詩”」としての、俳諧が持っていた、本来的な良さの〈滑稽・挨拶・即興〉を排斥し、いたずらに、「自己の“生きざま”のモノローグとしての“近代的な個性の詩”」へとひたすらに歩むこととなった要因とも思われるのである。                       そこで、このひたすらに、「モノローグとしての“近代的な個性の詩”」へと行き着く所まで行ってしまった今日の俳句界の現況を、もう一度、あの蕉門時代の俳諧が持っていた本来的な良さの、ダイアローグ的な座の中で、モノローグ的な現代の俳句を、いわば、方向転換させることが、今、何よりも必要とされ、求められているのではなかろうかという思いを強くしたのである。    
そして、このことが、実は、「没後三百年記念芭蕉展」の開催の意義でもあるし、また、このことが、現代の老若男女を問わず、多くの人達を、この芭蕉展の会場へと足を赴かせている最大の理由なのではなかろうかと、そんな思いを強くしたのである。          
さて、ここに、昭和五十七年刊行の、中田亮氏の『下野俳諧史』(栃木県俳句作家協会)がある。この一書を足掛かりにし、「没後三百年記念芭蕉展」の鑑賞を一つの機縁として、正風不易とまでたたえられた蕉門の俳諧が、今に、“近代的な個性の詩”を目指して、いわば、モノローグ的俳句(発句)ばかりを横行させている現状に鑑み、あの蕉門時代の俳諧が持っていた本来的な良さのダイアローグ的な座の中で、方向転換を図らねばならないことを意図し、ここに、ささやかなアプローチを試みることにしたい。        
この、ささやかなアプローチの試みの構成は、芭蕉の『おくのほそ道』より始めることとする。すなわち、『おくのほそ道』行脚における成果として、曽良が記録した『曽良旅日記』中の「俳諧書留」の「奈須(那須)余瀬(黒羽町余瀬)」の歌仙(三十六句から成る連句の代表的な形式)から、その①を始めることとする。   その②は、これ又、曽良の「俳諧書留」の那須町高久(の宿)における師匠(芭蕉)と門人(曽良)との唱和(発句と脇句)を通して〈唱和的・対詠的な協同詩〉ということを考察していきたい。
 その③は、芭蕉を私淑して止まなかった蕪村が、この下野の宇都宮で、初めて、栄光の〈蕪村〉の号で、撰集した『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』の、その「(歳旦)三つ物」(発句・脇句・第三)を通して、俳諧の形式と今後の可能性ということを概括してみたい。    そして、その後で、中田亮氏の『下野俳諧史』の総論的な考察をして、その考察との関連で、下野俳諧史のうち避けては通れない、幾つかの俳諧(特に、歌仙)についての鑑賞を試みることとする。特に、本県の那須郡烏山町出身で蕪村(夜半亭二世)の師匠にあたる早野巴人(夜半亭一世・宋阿)関連の俳諧を中心にして、その鑑賞試論の積もりで、大胆な鑑賞をしてみたい。
 これらのことは、とりもなおさず、中田亮氏の労作『下野俳諧史』を通し、いささか目標が大き過ぎるのであるが、「没後三百年記念芭蕉展」に相応しい(芭蕉)俳諧ルネッサンスを目指して、一つの新しい俳諧創造の、一素材を提供したいと、そんな思いを抱いて心急いでいるのが、この序章に当たっての真相なのである。                                       
【補注・付記】                                                       

① 下野において詠われた最古の連歌の作品は、『沙石集』(一二八三年)に、それを見ることができる。   
それから、今日(一九九三年)まで、たかだか七一〇年の歴史に過ぎない。そして、一つの新しい俳諧の創造 のための、「(芭蕉)俳諧ルネッサンス」とは、三〇〇年前の芭蕉の時代(チャ-ト1・「俳諧の系譜」)に 再帰(ルネサンス)するということに他ならない。そして、それは、とりもなおさず狭義の俳諧(連句)と俳 句(俳諧の連歌の発句)の分化以前だけに止まらず、さらに、川柳・雑俳との分化以前に再帰するということ に他ならない。しかし、この『新下野俳諧史』では、中田亮著『下野俳諧史』をベ-スとしているので、川柳 ・雑俳については素通りすることを余儀なくされている。                         
そして、それらの世界まで包含した、真の(芭蕉)俳諧ルネッサンスは、『新々下野俳諧史』においてなさ れるべきものであろう。そのような前提に立って、もし、川柳・雑俳について触れる必要が出てきた場合は、 それは、最後の「終章」において記述することとしたい。
② チャ-ト1の「俳諧の系譜」については、この『新下野俳諧史」の、それぞれの章の筆者メモとして作成し たものであり、『下野俳諧史(中田亮著)』あるいは『栃木県俳句史・明治以降(手塚七木著)』をベ-スと して作成したものではない。従って、それは、筆者メモの領域を出ていないことも、念のため申し添えること とする。特に、栃木県の近代・現代の俳人については、進んで『栃木県俳句史・明治以降(手塚七木著)』等 を参照され、正しい把握をする必要があることを、特に付記しておきたい。             
③ この『新下野俳諧史』は、当初、「通史編」と「鑑賞編」との二本立ての構想であったが、作業半ばで、現 在のような章立てへと変更を余儀なくされた。その理由は、エンドレスのような「通史編」作業に終始し、な かなか本題にはいれないことの、もどかしさによるものであった。従って、かなり大胆な順序の入れ替えをし ており、全体として、内容・記述方法に統一されていないきらいがあることも、ここに、付記しておかざるを 得ない。そして、このことは、ともすると、その作業の半ばで、啓蒙ふうな「下野俳諧史(読本)」の方向へ と関心がいってしまい、学術的な労作の『下野俳諧史(中田亮著)』の方向とは、必ずしも一致していないこ とも、これまた、特に付記しておく必要がある。                           
④ また、この『新下野俳諧史』の作業の大部分が終了した時点(一九九三・一〇・一七)で、その日の朝日新 聞の「俳句時評」において、草間時彦氏が、次のような「芭蕉展と現代」という記事を載せていた。氏の指摘 は、非常に示唆に富むもので、ここに補注的に付記させていただくこととする。「東京・出光美術館での芭蕉展が終わり、関西に移った。伊丹市の柿衞(かきもり)文庫で、十月二十四日 までである。芭蕉没後三百年を記念するこの展示はさすがによいものがそろっていた。私は感動しつつ拝見し た。見終わってから現代俳人として考えさせられることがあった。それは現代俳句が芭蕉をどう受け止めるか である。芭蕉の俳諧は“わび”と“さび”を旨としている。その“わび”も“さび”も現代俳句は喪失してい る。いや、現代俳句が喪失したのではない。現代の日本社会が捨ててしまったのである。現代俳句に“わび” や“さび”が見られないのは当然である。芭蕉の投影を現代に求めようとしても無理なのだ。現代俳人として、 芭蕉に学ぶものは何だろう。芭蕉展を出てから私はしきりにそれを考えた。俳諧の歴史の流れで、質的にもっ とも高いのは芭蕉の時代だが、量的に盛んだったのは幕末期である。月並句合(つきなみくあわせ)と呼ぶ大 会が流行し、入荷料(投句料)一句銭八文で句を集めた。投句を集める仕組みも組織化されていた。しかし、 その質ははなはだ低かった。後に、正岡子規に月並俳句として攻撃されるのである。質が低かったから、その 作品は大事にされず散ってしまって、残っているものは少ない。芭蕉のものが大切に残されいるのとは大違い である。現代俳人が生む俳句は数が多い。それは、百年後、三百年後に残るものなのであろうか。現代俳壇は 幕末期に似ている。似すぎているように思えてならない。」                      
時彦氏のこの指摘の、「俳諧の歴史の流れで、質的にもっとも高いのは芭蕉の時代だが、量的に盛んだった のは幕末期である」ということ、これは、「蕉門の座においては、一次・二次の共時的共同体としての横の軸 が、同時に通時的共同体としての縦の軸とつながっていたことになる。それに対して“景気”を標榜する他門 の座は横の軸の結合だけであり、前句付けの点取り俳諧に至っては、点者と投句者とが一座することなく、し たがって、それは精神的 連帯の基盤を欠いた、マス・プロ的な結びつきでしかなかった」(尾形仂著『座の の文学』)あるいは「俳句は、かって芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで、 それ以後単独で到達したことは、一度だってない」(山本健吉著『山本健吉俳句読本(一)』所収「俳句の世 界」)との関連で、十分に説明のできるところのものであろう。 
そして、この、時彦・仂・健吉各氏の問題意識の上に立って、「かって芭蕉の時代に、それが連句の発句と して達することのできた高さにまで」再帰させること、このことこそが、この『新下野俳諧史』の狙いであり、 このことこそが、いわゆる(芭蕉)俳諧ルネッサンスの意味するところのものである。そして、そのための具 体的な提言として、今こそ広義の俳諧(俳文〈紀行文・俳論等〉+連句〈歌仙等〉+唱和〈発句と脇句の唱和 等〉+俳句〈発句〉+川柳)との関連で「俳句」の再検討が必要なのだということが、この『新下野俳諧史』 の全般にわたる骨子でもある。                                     
このことを、今後の課題をも含め、この【補注・付記】に付け加えておくこととする。         
⑤ 最後に、この『新下野俳諧史』の記述にあたっては、文献をして語らしめるという方法を意識的に採ってい る。このことは、丁度、俳諧が、その場(座)に参加している人達(連衆)の協同創作(作業)であるように、 この『新下野俳諧史』全体が、先達(他人)の文献と記述する者(自己)の記録とが程よくとけあい、あたか も一つの俳諧のような協同創作(作業)となることを意図しているからに他ならない。
そして、この協同創作(作業)こそ、ともすると、ひとりよがりのモノローグの世界から、共感し、共有し あうダイアローグの世界へと、導いてくれる唯一の羅針盤とも思われるのである。            
このことは、この『新下野俳諧史』が、『下野俳諧史』の著者の支援(監修)を得て、初めて姿を成したこ と、このことを、この上もない喜びとして、特に、ここに付け加えさせていただくこととする。                                                                                                                  
【主要参考文献】 各章にまたがるものについてはここに掲出する。                 
① 『下野俳諧史』・中田亮著・栃木県俳句作家協会・昭和五七                     
② 『現代俳句栃木県風土記』・中田亮著・落合書店・昭和六〇                     
③ 『栃木県俳句史・明治以降』・手塚七木著・栃木県俳句作家協会・昭和五七              
④ 『黒羽の文学散歩』・蓮實彊・他著・黒羽文化協会・平成四                     
⑤ 『からすやま文学の碑散歩道』・皆川晃著・烏山町教育委員会・平成三                
⑥ 『山本健吉俳句読本第一巻 俳句とは何か』・山本健吉著・角川書店・平成五             
⑦ 『芭蕉 その鑑賞と批評(全)』・山本健吉著・新潮社・昭和三二                  
⑧ 『(文芸読本)松尾芭蕉 』・山本健吉・他著・河出書房新社・昭和五三               
⑨ 『座の文学』・尾形仂著・角川書店・昭和四八                           
⑩ 『歌仙の世界』・尾形仂著・講談社・昭和六一                           
⑪ 『芭蕉の時代』・尾形仂・大岡信著・朝日新聞社・昭和五六                     
⑫ 『木綿以前の事』・柳田国男著・岩波文庫・昭和五四                        
⑬ 『俳諧評釈』・柳田国男著・創元社・昭和二二                           
⑭ 『芭蕉 旅ごころ』・井本農一著・読売新聞社・昭和五一                      
⑮ 『没後三百年記念芭蕉展』(芭蕉展に寄せる言葉:井本農一・至福の時:尾形仂)日本経済新聞社・平成五
⑯ 『俳句・短歌(近代文学講座二四)』(短歌・俳句の革新まで:山本健吉)・角川書店・昭和三五    
⑰ 『総合芭蕉事典』・尾形仂・山下一海・復本一郎編・雄山閣・昭和三五                
⑱ 『連句辞典』・東明雅・杉内徒司・大畑健治編・東京堂出版・昭和六一                
⑲ 『俳句辞典・近世』・松尾靖秋著・桜楓社・昭和五二                        
⑳ 『現代俳句辞典』(「俳句」・昭和五二年九月臨時増刊)・角川書店・昭和五二            

21 『最新俳句歳時記(新年)』・山本健吉編(季題・季語表について:山本健吉)・文芸春秋・昭和四七  
22 『短歌・俳句・川柳一〇一』・三枝昂之・夏石番矢・大西泰世編(新潮10臨時増刊)・新潮社・平成五 
23 『日本文学史』・小西甚一著・講談社学術文庫・平成五                       
24 『芭蕉の山河』・加藤楸邨著・講談社学術文庫・平成五                       
25 『芭蕉』・保田與重郎著・講談社学術文庫・昭和六四                        

26 『芭蕉の世界』・尾形仂著・講談社学術文庫・昭和六三                       
28 『連句入門 芭蕉の俳諧に則して』・東明雅著・中公新書・昭和五三                 
29 『芭蕉の恋句』・東明雅著・岩波新書・昭和五四                          
30 『下野のおくのほそ道』・丸山一彦監修・栃木県文化協会・昭和五二                 

【写真・地図等】                                                                                          
① 中表紙・各章の扉の写真等(筆者等撮影)は次のとおりである。なお、その扉等に掲載してある俳言・写真 等は、その章の本文(内容)と直接関係づけはしていない。また、この扉等を設けたことにより、それらに記 載した章名と、本文書き出しの章名とが二重になっている場合があることを付記しておく。        
○ 中表紙   ブロンズ「芭蕉翁像」(麦倉忠彦作)                         
○ 第一章  「行春や鳥啼魚の目は泪(金子義夫筆)」(黒羽町・「芭蕉の道」起点)          
○ 第二章  「秣おふ人を枝折の夏野かな(大竹孤悠筆)」(黒羽町・玉藻神社)            
○ 第三章  「落来るやたかくの宿のほとゝぎす」(那須町・高福寺)                 
○ 第四章  「田一枚うゑてたち去る柳かな」(那須町芦野)                     
○ 第五章  「かさねとは八重撫子の名なるべし」(矢板市・観音寺)                 
○ 第六章⑴ 「烏山八景句碑(其角・嵐雪・巴人等)」(烏山町・東江神社)                   
⑵ 「渡辺潭北墓碑」(烏山町・常念寺)                               
⑶ 「早野巴人句碑(草野心平筆)」(烏山町・落石地内)                       
⑷ 「柳散清水涸石処々(富安風生筆)」(那須町芦野)                   
○ 第七章  「夜色楼台図(蕪村画)」(尾形仂著『蕪村の世界(古典を詠む27)』)          
○ 余章   「鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし(金子義夫筆)」(黒羽町・「芭蕉の道」終点)     
② 地図等は、『下野のおくのほそ道』(栃木県文化協会)・『黒羽の文学散歩』(黒羽文化協会)・「からす やま文学の碑散歩道』(烏山町教育委員会)・『俳枕』(平井照敏編・河出文庫)による。


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