BLOG夜半亭

「HP夜半亭」などのトピックス的記事

「歌仙」を巻く楽しさ

2007-01-08 22:49:20 | 連句関係
「歌仙」を巻く楽しさ ―「心の風景」の連鎖に遊ぶ ―(その一)

                 星 春乃
●はじめに                              
「連句は面白いですよ。やってみませんか」と宇都宮蕪村研究会からお誘いを受けた日、あれから早三年近くの歳月が経ちました。それまで「蕪村の絵」に興味を持っていたものの俳句や和歌・まして俳諧連歌に馴染んでこなかった私にとって、不安を持ちつつ始めた連句です。「少しでも蕪村の世界に近づきたい…」、そのような思いで恐る恐る足を踏み入れた「連句の世界」です。そして知れば知る程その魅力を感じております。
連衆の「心象風景」を連続して繋げてゆく連句を、その結果を一見すると句と句との組み合わせなどにおいて全体的な統一感が欠けて見えます。狐につままれているような不可解な感覚さえ持ちます。しかし、その中にも何やら不思議な余情が漂います。それは前衛的な詩の匂いさえ感じさせます。「歌仙」という古めかしい言葉とは全く正反対に、連句で綴られた作品にはまるで現代詩のように新鮮な響きがあるのです。これが、連句に接したばかりの頃の印象です。
●連句と前衛詩との交差
 連句が前衛詩と共通すると感じた事は決して錯覚ではありませんでした。かつて現代詩を領導した西脇順三郎の詩に「旅人かえらず」という長大な作品があります。その詩を読めば読むほど、今度は逆に連句に共通する匂いを感じます。 
 この詩の解説者は、「一個処に停止することを拒否した旅人的詩人の世界は、しばしば何処が一番詩的であるかを指摘することが不可能のような、一切が詩的である次元を表す」と書いていました。そして連句も「一歩もあとに帰る心なし」という芭蕉の言葉通り、ひたすら前へと展開していくことが鉄則です。常に新しい場面を切り開く姿勢が最も大切なのです。戻る事の無い姿勢で切り開くという精神には創造性や前衛性が自ずと求められます。その点において連句と前衛詩は重なっているような気がいたします。
また、連句の用語に「不易流行」という言葉があります。広辞苑で調べると「不易は詩的生命の基本的永遠性の体。流行は詩における流転の相でその時々の新風の体。この二体は共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一に帰すべきものであるという。」と書いてあります。とても難しい内容ですが、自分なりに、「風雅の誠から出るものは、時々どのようなスタイルであっても、普遍的な詩的生命を核に持ち、不易と流行は二者一体」と解釈しています。「不易流行」は芭蕉が提唱した俳諧用語です。しかし、詩の世界一般にも十分通用する「芸術の核心」を捉えた奥深い内容があると思っています。
実際、「旅人かえらず」の解説を読むと、西脇順三郎が最後に辿りついた境地は、「芭蕉や西行など、わが国の芸術家が過去に到達した風雅の道に通じるものであった」と書いてありました。近代西洋詩の教養を満身に纏い、常にモダニズムの詩作において、また指導的理論家としても活躍した彼が最後に拠り所としたものは、俳諧連歌に流れる日本の伝統的な「風流の真髄」だったのです。
この事を知るにつけ、時代や場所を超えて脈打つという「風雅の誠」とは何なのだろうかと益々興味が沸いてきます。そしてまた、風流の真髄は不条理と矛盾に満ちた現代の不確定な変化の中でも、それ故にかえって十分に輝くものに思えてきたのです。
● 連句と思念の解放
連句は、近代シュールリアリズムの詩が試みた「言葉の既成観念」「日常化したイメージ」を暴力的な恣意で打ち破る手法を取ることなく、思念を解放します。前句という現実にしっかり立脚し、想像の翼を自由に羽ばたかせることによって、言葉の自在な組み合わせを結果的に実現いたします。
超現実主義者のように現実に背をむけ、知性を放棄し、偶発的な夢想に頼ることもいたしません。連句は眼前の現実を受け止め、前向きな意思によって知性を貫き、想像力を駆使して言葉を繋げるのです。発句以外の全ての句は「前句」を受け止めることが一切の始まりです。句から句への間には「想像力」という目に見えない結合と断絶、断絶と結合が繰返されます。その結果、実に豊かな言葉の組み合わせが生まれます。一塊の言葉は更に不思議な組み合せに膨らみ、句が繋がる度に新鮮な響きと香りが放たれます。その変化をその場その場で即興的に味わえる面白さ、それが連句の最大の醍醐味ではないかと思います。そして、「精神の飛翔」の痕跡として残された言葉からは前衛詩に通じる不思議な響きが醸し出されるのです。
● 連句は「座」の文芸
連句の楽しさは、「和する」の楽しさです。「発句」を始点として「前の句」に心を通わせ、「付け句」で心を繋ぐと言う「座」の人達による共同作業を通して連句は創造されます。この作業の連鎖によって各自の「心の風景」は時間の流れに添って次々と重ねられて和して行きます。この連続の過程や結果において広がる心象世界は実に豊かです。
自然界が森羅万象の豊かな実相をあらわすと同様に、私達の内側・脳裏の中にも豊かで底知れぬ世界、もう一つの宇宙があります。この宇宙の豊かさをストレートに実感し、享受できるのが連句です。
それぞれの連衆の「付け句」は、常に「自分のイメージ世界」とは全く異質な世界を提示します。これを受け止める時に、予期せぬ出合いに戸惑いを伴ないながらも、未知であった世界に触れて知る喜びを感じます。この開放的な世界が自分の矮小な世界をどんどん解き放って行きます。
今度は逆に自分がその場面(前句の世界)に向かい合い「付け句」を考える時は、「その場」を引き受ける自分と「その場」を引き継ぐ自分が同時に対峙し合います。この場面に立つ時、それは自分だけの孤独な世界です。目の前の現実を受け止める感性とこの感性を表現する感性は全く別の次元に位置いたます。前者はひたすら受け身の姿勢で相手の句を鑑賞する感性です。後者は前者の感性を心で繋ぎ止めながら、ひたすら自分独自の世界を構築し、表現してゆく積極的な感性です。鑑賞の感性をベースにした表現の感性は、自分の中で現実を引き継ぐと同時に引き離し場面を変化させて行く能動的な感性です。受止めの感性を表現の感性へと押し上げる時、自分の心魂と充分納得するまで対話しなければなりません。ある時は納得出来る句に繋がらず悪戦苦闘するかと思えば、それとは反対に実に素直に得心のゆく「付け句」が浮かぶ時もあります。
そしてその場に提示する「付け句」を確定した時には、「一歩を切り開いた」という達成感や満足感を味わう事ができます。これを連衆と共に分かち合いながら楽しむのです。このように考えると連句は世界に誇れる実に独特な文芸と言えます。
● 連句と「一期一会」の風景
連衆の前に、「確定の句」の余韻も束の間の命です。余情を残しながらも次ぎに登場する「付け句」の世界に重ねられ余韻は変調が余儀なくされます。
一期一会のその場だけの風景を結びながら、次の世界に引き継がれる事によって、その余韻は即時的に変化し新たな生命を吹き込まれます。この変調に、耳を澄まし、目を広げ、心をしなやかに巡らしてゆく時に、ある種の緊張感や開放感が交互に交じり合います。まるで心のマッサージを受けているような不思議な感覚です。
個々の句は、その残像が百パーセント繋ぎ止められながらも、「次の句」の中に溶解して行きます。こうして一連の句が組み合わされた風景を味わうにつけ、その度に新鮮な感動と喜びを感じる事ができます。心象風景の一期一会、それが次々と連鎖しながら流転して行きます。そしてその度、心の襞は柔らかく波打ちます。
● 連句と「人間尊重」
連句は「座の遊び」故に、自ずと相手への気遣いやバランス感覚が求められ配慮されております。連句作りの現場には常に和やかで暖かい雰囲気が漂います。作品創作において、一人一人は尊重され、座席が確保されております。また座の「捌き手」を中心に各自が内輪の意識を持って相互に「座」を支えます。
私のように「歌仙」を巻く体験が初めての者も、それなりに「連」の一員として尊重され包み込まれる「懐の大きさ」を感じています。
江戸時代の俳諧連句の記録に、六歳という幼い子供までが連句の輪に参加している記載があります。その他にも誰々の妻とか、誰々の母とか、当時では社会的地位の低い女性も連句の連衆に加わっています。俳諧連句の「懐の広さ」は、俳諧師と共に上は名門大名から下は商人・遊女に到るまで「座」を同じくし、句会の楽しみを分け合っているという事実の中にも端的に現われています。このように民主的一形態といいうるような文芸サロンが存在していた事は、身分制度の確立していた当時にあって、どんなにか斬新且つ進歩的であった事でしょう。連句の精神には人間の個性を尊重する思想が流れています。
● 連句の懐の深さ
人間の尊重だけでなく、連句は内容においては勿論のこと、伝統的な和歌や連歌では美を損ねると嫌われる「俗語」の使用も全くお構いなしです。それどころか蕪村は『離俗論』の中で、「俳諧は俗語を用いて俗を離るゝを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。離俗の法最もかたし」と語っているのです。つまり「俗をもって俗を越える」高逸の境地が大切とされたのです。遊びでありながら、俳諧連句は形式的言葉より言葉に込められた心を重んじる思想が流れています。芭蕉の「求道的な悟りの境地」や蕪村の「高邁な精神」は特別なものとしても、「心の有り様」が問われる謎解きも連句を面白くしている大きな要素です。
「俗的な要素」も、日本古来からの和歌として継承されてきた「伝統的な要素」も全てを受け入れ、交じり合い、豊かにして独特な世界が創造されます。この懐の広さと深さも連句の魅力です。
● 連句と伝統の美意識
 また、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』と連綿と引き継がれてきた日本人の美意識、その伝統は連句にしっかりと継承されています。四季の移ろいに「美」を感じる繊細な感覚は尊重され、それは式目に則った形で実現されて行きます。伝統的に美しいものとされてきた美意識は、天上の美「月の句」、地上の美「花の句」、人間の美「恋の句」として予め配置されています。こうして伝統的な美意識を保ちながら連句の全体に華やかさを保つよう工夫が凝らされているのです。
連句の奏でる和音は千差万別です。「付け句」によって醸し出される和音はその限りない可能性を秘めて響きます。その「和」する音に興じ、素直に楽しむ事は「心の振幅」を広げます。その豊かな調べの流動に身を任せる時、自我に固守する小さな世界は洗い流され、個別を越えた全体の大きな流れに融解し合流する快感を知る事ができます。和歌の伝統に則りながら、それを越えて遙かに広い豊かな世界が提示されて行くのです。
● 厳格な連句の式目
それでは連句を作るのに「何でも自由」かというと、全く逆に「式目」という厳格なルールの上に連句は成り立っています。連句に初挑戦の私はこのルールの多さを知って驚きの連続でした。私一人では多分お手上げになる程の複雑で細かいルールに唖然とするばかりでした。この場面は「春の季節」でないと駄目とか、ここは季語を入れてはならない「雑の句」とか、月の句、花の句、恋の句、等々、「句作り」は妥協を許さない約束事があります。また前の句に「即(付)かず離れず」という微妙な距離感覚が必要な事や、全体の流れを停滞させる句は排除され、言葉の重複は禁止され、「打越の句」に雰囲気が戻るような「観音開き」の句は嫌われる等々、実にややこしいルールが連句には付きまといます。
 しかし、実際に歌仙を巻くうちに、はじめは自由な句作りにとって足枷になる「枠」と考えていた「式目」の認識が百八十度変わって参りました。連句で最も尊重されるものは、流水のように滞る事のない流動感と変化です。この流れを大切にする為の知恵、それが「式目」という約束事になったのではないかと思うようになりました。
実際、付け句を考える時には、この式目をガイドにした方が創作し易いのです。これは本当に不思議な感覚です。一見して矛盾に見えるこの事は、「式目」を対象的に客観視する時と実践の場で受止める時の感覚の差異に由来するのかも知れません。
かつて、ある人が「傍観して見る者の風景と前へ進む者が見る風景は全く別の世界である。その隔たりは銀河の幅より大きく、決して交じわる事がない」と言っていた事を思い出します。「式目」の受止めが転換した事は、多分に私自身の姿勢が前向きに変化した事に由来しているのかも知れません。
自然界の移ろいに感覚を研ぎ澄まし、四季の流れの中に身を置いて営々と暮らしてきた日本人の「美的感覚」。それが「式目」となって継承されていると考えた時、「式目」を編み出した先人達の知恵は、連句を実践し「風流」に生きた人達のその内的欲求から生み出され、努力を結晶させたものだと素直に思うようになりました。
 そして、「式目」に則っていさえすれば、如何なる句も受け入れられると言う実体験を経て、私の式目に対する認識は一変いたしたのです。
● 連句と自在の心
何物にも拘束されない心持ちで、一歩踏み出して前へ向かう時、傍観する立場から「壁」として映る外的な拘束さえ、それは受入れて通り抜けてゆく対象でしかありません。自分の限界に怯むことなく前に向かう時、自由を求める心を妨げるものは自分以外の何物でもないからです。
そう考える時、連句作りにおける「式目」は「自在の心」へ向かって飛翔を促す「踏切り台」のように思えるのです。前句を受け止め前進することを試みる立場にとって、式目は通り抜ける対象でしかありません。それには自分を自在に変化させ式目を乗り越えていく力量が試されるのです。困難を凌いで新しい局面に一歩出なくてはなりません。式目を凌いでこそ、一歩切り開いた喜びが深まるのです。連句には「自在」を楽しむ心意気が欠かせません。
● 紙上の旅路に遊ぶ
連句は紙上で旅をする楽しさがあります。歌仙用紙の中に日常を離れた世界が広がります。式目という難所を通り抜けて見知らぬ旅路に遊ぶのです。
実際の旅にも日常生活では考えられない危険が常に潜んでいます。これを怖れる人は旅に出られません。旅の困難を凌いで余りある喜びがあるので人は旅を好むのです。
季節の移ろいと共に、時には月を仰ぎ、花を愛で、恋に色を添えて、見知らぬ地へ旅に出る事もなかなか粋ではありませんか。困難と思う山や谷の道も、足を休めず前へ進んだ時には、平坦な道では味わえない起伏と変化に富んだ新天地が開かれます。道なき道さえも奥に足を踏み入れれば、そこには心に沁みる世界があります。家に居ながらにして、連句には一枚の紙の上で旅を満喫するような面白さがあります。
例え足腰が弱り実際の旅はできなくなっても、人は心の中で旅立つ事が可能です。新鮮な空気は外気からだけでなく、記憶力や想像力・構想力といった内的なパワーからも吸うことができます。実際の旅では不可能な神出鬼没な冒険も可能です。そのために精神のパワーを養い、知識や感性を磨き、いつも心をリフレッシュする「遊びのゆとり」が大切と思うようになりました。
● 最後に
歌仙の席に身を連ねてからまだ浅い私にとって、まだまだ連句について知らない事、解らない事が沢山あります。特に昔の旅は命の危険と背中合わせであった事を考える時、それでも敢えて「風流の道」に旅立った人々に畏敬の念を禁じ得ません。同時に、その強靭な意思の在処は何であったのだろうと考えたりもします。
しかし、連句作りを通してこの間、実に多くの事を学びました。連句の奥ゆかしさを垣間見るにはまだまだ経験不足ですが、何故に芭蕉が「俳諧禅」と言い、また蕪村が「俳諧の自在」という哲学的な言葉を語ったのか…、今はおぼろげながら理解できるような気がいたします。俳諧連句には何やら謎めいた要素も多いと感じていますが、先ずはワクワクしながらこの世界に冒険する楽しみを味わえた事を嬉しく思っています。
市井の仙人のような「何物にも拘らない透明な心」を持って、「自在な境地」になることに憧れつつ、それとは程遠い地平で「壁」を前に七転八倒を繰返している現実。そのような中で歌仙を巻く時間は、一枚の紙の上で遊ぶ事の楽しさと同時に、「自由」や「勇気」のあり様についても改めて考えさせてくれる貴重な時間です。




最新の画像もっと見る