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正岡子規の俳句革新(二)

2006-05-13 03:41:12 | 正岡子規
誠に、子規は「俳句は已に盡きたり」というのである。また、「よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」と断言するのである。

正に、子規の「俳句革新」の第一声は、この「俳句滅亡論」という、その実感からスタートをきるのである。           

そして、その「俳句革新」の第一声は、古色蒼然とした宗匠俳諧への痛罵となって、その矛先を、旧派の宗匠俳諧へと向けるのである。この『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』の結びは、「発句作法指南の評」という、その著者、其角堂機一という宗匠に向けられたものであった。                      
○近頃其角堂機一なる宗匠あり。発句作法指南と云ふ一書を著して世に刊行す。(中略)之を読んで猶不満足を感ずるの箇處多きは勿論の事にて之を詳述するに勝(た)へずといへども一読の際思ひあたりしことのみを挙げて著者の教を乞わはんと欲するなり。

 このような書き出しの「発句作法指南の評」は、これは、正に、明治以前のもの(宗匠俳諧・俳諧・発句・月並俳句)に対する、明治維新後の、新しい近代という息吹をもたらさんとする、西洋思想(西洋思想的な新文学観)に基づく近代俳句(俳諧・発句・月並俳句からの脱却)の挑戦でもあった。

 そして、この子規の西洋思想的な新文学観とは、概括すると、以下、次のように展開されるのであった。                                
明治二十七年 「文学は直接に吾人が感覚に訴へて快楽を生ぜしむべき美術の一種」(「日本」・明治二七・七)

明治二十八年 「感情的文学即ち純粋なる文学」(「日本」・明治二七・十二) 

明治二十九年 「絵画も美術なり、文学も美術なり、美術は感情に訴ふべくして道理に訴ふべからず」(「日本」・明治二九・八) 明治三十一年 「詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相異あるべく無之」(「日本」・明治三一・二) 

 当時の子規の周辺には、子規の郷里の伊予松山藩の面々が顔を揃えていた。子規は、明治二十五年に、東京下谷根岸に居を構えるのだが、その大学予備門入学の頃は、伊予松山藩の本郷真砂町の常磐会寄宿舎にいた。その舎監が、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)、そして、その寄宿生は、新海非風(にいのみひふう)・五百木飄亭(いおぎひようてい)・竹村黄塔・勝田明庵、そして、従弟の藤野古白等であった。              
 そして、後に、子規門の二大俊秀の、河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)・高浜虚子(たかはまきょし)が加わってくる。これらの面々が、後に、伊予派と呼ばれる面々で、郷党的色彩が強く、固い師弟朋友の絆で結ばれていた。 

 この伊予派は、別名、「日本派」とも呼ばれるが、これは、子規選俳句欄を擁し、そして、その「俳句革新」のための数々の俳論を発表する、その媒体となった「日本」新聞の名をとって、そう呼ばれるのであった。   
 この「日本派」の面々には、先程の伊予派の面々の他に、石井露月(いしいろげつ)・佐藤紅緑(さとうこうろく)・寒川鼠骨(さけかわそこつ)・松瀬青々(まつせせいせい)・夏目漱石(なつめそうせき)・坂本四方太(さかもとしほうだ)など錚々たるメンバーが顔を揃えた。 

 さらに、子規らと同じく旧派の月並俳句の刷新には、新派として、伊藤松宇(いとうしょうう)、そして、この松宇に繋がる「秋声会」の、角田竹冷(つのだちくれい)・巌谷小波(いわやさざなみ)・尾崎紅葉(おざきこうよう)・星野麦人(ほしのばくじん)らの面々も活躍していた。  

 また、「秋声会」にも関係のあった、大野洒竹(おおのしゃちく)の「筑波会」の面々の、佐々醒星(さつさせいせつ)・笹川臨風(ささがわりんぷう)・沼波瓊音(ぬなみけいおん)などの面々も、新派として旧派の宗匠俳句を排斥するのであった。

 このように、子規の「俳句革新」運動というものは、子規と子規の「日本派」(伊予派)の面々が主力であったが、その「俳句革新」運動の周辺には、当時の錚々たるメンバーの「秋声会」や「筑波会」に連なる新派の面々が、旧派の月並俳句・宗匠俳句と鋭く対立していたということは特記しておく必要があるのであろう。           
 
それらの面々の、当時の俳句の幾つかについて記して見よう。         

○ 子に鳴いて見せるか雉の高調子 (子規・明治二五年作)
○ 菊は古し人形作る躑躅(つつじ)かな(鳴雪・俳調の変易に感じて)
○ 梅が香に届かぬくまもなき小庭 (碧梧桐・子規改作)
○ 子規逝くや十七日の月明に (虚子・子規追悼句)
○ 葉葡萄に酒成る秋わ契りけり (露月・「碧梧桐来」の前書きあり)
○ 甘酒屋打出の浜に卸しけり (青々・子規激賞の句)
○ 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(漱石・子規宛の手紙の漱石俳句の初見)
○ 絶壁の一本芒乱れけり (紅緑・処女作)
○ 汽車で行く東海道の月夜かな (鼠骨・子規選)
○ 鶏頭に芋堀り尽す畑かな (四方太・鶏頭の句)
○ 深草や秋に似た夜の麦鶉 (松宇・新派俳句雑誌「俳諧」収録)
○ 帰るさに宵の雨知る十夜哉 (竹冷・代表作)
○ 雨蛙梢に雨を称へけり (小波・代表作)
○ 死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき (紅葉・辞世の句)
○ 妹が門遊行の柳しだれけり (洒竹・「帝国文学」所収)
○ 駿河屋の暖簾古りたり乙鳥 (醒星・代表作)
○ 先ず春の曙染や濃紫 (臨風・代表作)
○ 障子しめて秋の夜となる一間かな (瓊音・代表作)

 さて、新派の新俳句を標榜する面々について、その主たるメンバーは以上であるが、これらの新派の面々と、それに対立する旧派の月並俳句の主たる面々との、当時の俳句愛好者の間での人気の度合いは、どうであったのであろうか。            
 これにらについて、尾形仂氏の興味ある解題(『子規全集第五巻』)の記載がある。

○明治三十一年三月五日、「都新聞」紙上に発表された読者による「俳諧十傑」の投票結果によれば、三万四千四百六十一票を獲得した老鼠堂永機を筆頭に、蕉露庵蕉露・善哉庵孝節・春秋庵幹雄以下、一万八千八百九十二票の桃支庵指直に至るまで、十傑に入選したのはいずれも旧派の宗匠ばかりであった。新派の俳人では角田竹冷が十六位、大野洒竹が二十八位、子規は千十六票で三十七位に止まっている。               
○翌三十二年六月に雑誌ら「太陽」が催した「俳諧十二傑」の投票では、老鼠堂永機・正岡子規・三森幹雄・尾崎紅葉・花の本聴秋・角田竹冷・巌谷小波・雪中庵雀志・幸堂得知・内藤鳴雪・桂花園桂花が選ばれ、新派俳人が十二傑の半数を占めるに至っているが、これは両誌の読者層の相違にもとづくものであろう。

 この当時、人気投票ナンバーワンであった老鼠堂永機が、晋子(其角)の発句に、脇を付けて巻いた「脇越(わきおこし)」の連句(歌仙)が残されているが、その表(おもて)の六句を次に引用して見よう。                         
○ 発句 いそのかみしみづ也けり手前橋  晋子(其角)   
   脇  真菰(まこも)に交る一株の苗   永機 
  第三 よき人のはなしの答静にて      為山 
  四句目  筆とるさまの滞なき        壺公 
  五句目 初月のながめにはづす玉すだれ  (月の定座) 春湖  
  折端  渡るにしては早きあぢむら          きく雄                      
 これらの連句を、子規は、明治二十八年の『芭蕉雑談』の「或問」の中で、「発句(注・俳句)は文学なり、連俳(連句)は文学に非ず」と、これを抹殺してしまうのである。 そして、この態度を、子規は終始変えようとはせず、そして、その連句抹殺の思想は、今日まで、延々と、百年余も続いているのである。                  
 子規という革新的な人物は、理論の人とも呼ばれるが、同時に、直観力に優れた情の人でもあった。繰り返すこととなるが、子規の真の狙いは、連句そのものというよりは、宗匠という人種への挑戦にあった。      
 即ち、言葉を変えていえば、それは、当時の権威の象徴でもある宗匠(プロ・職業俳人)を排斥し、「「書生(アマ・素人)の、書生(アマ・素人)のための、書生(アマ・素人)による」俳句を標榜したのであった。

 これらのことは、ずばり、明治二十九年の『俳句問答』の中で、当時の人気投票ナンバーワンであった老鼠堂永機に係わる子規の痛罵となって現れる。

○問 老鼠堂永機翁は俳諧師中の大家と称せられる。左の翁の句は名句なりや否や。且つ翁の俳句の位置は如何。

 時鳥恋に寝ぬ夜の若かりし   
 夕立の戻りの雲や夜の雨   
 霜月やはじめて松の嵐山   
 名月やさすがに雲も捨てられず 
 若楓ぬれ釜かけてうつらせん 

○答 老鼠と云ひ、永機と言う人、幾人もありと許り覚えて能く其人を区別せず。故に此句の作者は価値のある人かはた如何なる俳句を詠みしか知らず。若し、こゝに列挙したる五句に就きて見れば盡く句法のしまりたるは多少の熟練を証せりといへども意匠は皆軽くして句に重み無し。若し此種の句のみならには到底二流以下の俳家たるを過ぎず。右五句の中にては夕立、霜月、若楓の句など面白し。名月は俗気多く最も嫌ふべし。

 時に、子規、二十九歳で、その前年に、日清戦争に従軍し、その帰途、喀血し、以後、子規は病床の日々の中にあったのだ。その子規が、敢然と、当時の俳壇の大御所に対して攻撃をしかけているのである。       
 子規が、俳句を作り始めたのは、十七歳の頃、そして、本格的に、その終生の仕事となった「俳句分類」に着手したのが、その二十四歳の頃、そして、新聞社「日本」」に入社し、旧派の月並俳句を攻撃を開始したのが、その二十五歳の頃であった。

 そして、その四年後に、まだ、一介の、書生(アマ)の、ジャーナリストの、短歌も俳句も俳論もやるマルチストの(それだけ、俳句の実作では名は売れていない)、その子規が、時の俳壇の人気投票ナンバーワンの老鼠堂永機に対して、「此句の作者は価値のある人かはた如何なる俳句を詠みしか知らず」というのであるから、子規という人物は、丁度、戦国時代の織田信長のような、そんな印象すら与えるのである。           
 子規が、最も忌み嫌ったものは何か。それは、戦国時代の織田信長と同じように、その時の実体の無いまやかしの「権威」と、その権威に群がる「亡者」のような人種とであったろう。

 そして、それこそが、子規にとっては、宗匠俳諧(連句・俳句)の、その「庵号」への挑戦であったのであろう。そして、その根源もまた、松尾芭蕉その人に由来しているのであった。 

 その芭蕉は、その「権威」の頂点に祭り上げられ、そして、その芭蕉十哲の高弟達の「嗣号」が、延々と、子規の時代まで続いていたのである。

 中でも、芭蕉十哲の双璧である宝井其角と服部嵐雪の「嗣号」は、甚だ名誉のあるものであったのだろう。其角のそれは「其角堂」であり、嵐雪のそれは「雪中庵」である。

 この「其角堂」が、当時の人気投票ナンバーワンであった(老鼠堂)永機から機一に継がれた時の嗣号代が、何と、当時のお金で三百円であったとかいう。

 子規が、明治二十五年の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』の結びの「発句作法指南の評」で、攻撃したその相手こそ、この其角堂機一についてであつた。 
 そして、明治二十九年に、其角堂機一の親玉の老鼠堂永機を槍玉にあげるのである。
 この老鼠堂永機は、本名は穂積永機(ほづみえいき)といい、その父が、其角堂六世鼠肝で、その父を継ぎ其角堂七世となり、明治二十年に、門人・田辺機一(たなべきいち)に其角堂を譲ったという。その後、老鼠堂または阿心庵との号を用い、全国各地を行脚し、門弟一千人を数えたという。とにもかくにも、学識・人望とも抜群で、当時の大御所的な存在であったのだ。

 この大御所に対して、「こゝに列挙したる五句に就きて見れば盡く句法のしまりたるは多少の熟練を証せりといへども意匠は皆軽くして句に重み無し」と、その作品の酷評までするのだから、これは、正に、織田信長的な行動というのが一番似つかわしいのかも知れない。



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