草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

硫黄島のこと

2008-03-20 19:26:00 | Weblog
 歴史に学ぶ      硫黄島の自決
日本会議ではこのなつ陛下の慰霊のたびについての映画作成を準備してくれている。硫黄島での記録も載るという。是非この話も乗せてもらいたい。よって記載しておく。                 
 硫黄島での体験記を紹介。江田島の館長岡本氏の文であります。

 江田島記念館館長 岡村氏講演記録(口述)より

 硫黄島が返還されてすぐのこと。自衛隊司令に「島の北の端にアメリカの人が二十人ばかり保安庁の仕事をしている。挨拶に行ってくれ」と言われ、行ったときのこと。日本式の小さな墓が見える。よく見たら森田大尉の墓と書いてあるので向こうの隊長に「あれは何ですか」と聞いたら隊長が次のように説明してくれた。
 
 陥落した日に森田海軍大尉があの場所で大怪我をして、人事不省なのに無線機を左手に抱いてモールスを打っておる。意識は無いのに手だけは正確に日本内地に向かって硫黄島の最後の模様を打っているようなので、すぐアメリカ兵を一個小隊集めて銃に剣をつけて、捧げ銃で手が止まるまでじっとそれを見守った。その事を教訓にするために墓を立てたんだと得意満足で話をしておりました。

 部屋に行ってコーヒーを飲みながらふと左手を見たら明るい廊下の向こうで若いアメリカの青年が私の顔を見て、手招きして呼んでいる。とんでいったら「君は今日日本から来たのか」「そうだよ」「日本に東京大学はあるか」「ある」「どんな大学」「ハイレベルの大学だ」「そうだろうね」「どうしてだ」と言ったら「私の父はこの硫黄島作戦の最高司令官でした。硫黄島で戦う日本の将兵を見て、終戦後にアメリカに帰って十数年間、死ぬまで、アメリカの青年よ立ち上がれ。アジアにはすばらしい国があるぞ。それは日本と言う国だ。そこにはお前たちが想像もできない立派な青年たちがおる。ああいう青年がおるのなら、ほっておいてもやがて日本は世界の名手になるだろう。::と。ぼくはその東京大学が見たい。今度日本に言ったら、案内してくれ。」といったけれど私は返事をしなかった。今、東京大学構内を歩いてもそういう雰囲気は見られないのじゃないかと思ったからです。

 どういうことかといいますと、硫黄島の南の擂鉢山の中腹に穴があり、陥落した日にそこから陸軍少佐が出てきた。木の枝に白いハンカチを巻いて右足はもう飛んでない。左足で這ってきた。真っ青な顔をしている。「司令官はいないか。司令官はいないか。「何だ」と言ったら、「あの穴に私の部下がまだ三十人ばかり生きている。その中にすばらしい青年が一人いる。日本の東京大学の学生だが、、あの男を生かしておくと日本だけじゃない。地球を救うぞ。世界中探してもあんな立派な青年はいないと思う、どうかわしの首を切って代わって彼を助けてくれ。」と言って日本式の挨拶をしたから、司令官が「心配するな。君も助けるが彼も助ける。」と言ったら「サンキュー。」と息が絶えた。

 司令官が穴のところへ行って、「おい、いるか、浅田中尉はいるか、今君の隊長が君を救うために死んでいかれた。出て来い。もう戦争は終わったんだ。内地では君のお父さん、お母さんが待っているぞ。捕虜にしないから出て来い。」と言ったら、中から「黙れ、、自分のことは自分で決めるんだ。お前たちの指示を受けない。」
「煙草はあるか」「煙草なんてあるか」
「よし、やるぞ」と煙草を投げ込むと中からさーと煙が出てきて「サンキュー。口に二本も三本もくわえとる。もう何ヶ月も煙草なんて呑んだことは無いんだ。」

「菓子はあるか」「菓子なんかない」「よーし」とチョコレートを投げ込むと「ありがとう」と中で大騒ぎ。「食料あるか」「ない」「よーし」と缶詰を投げ込むと「ありがとう」と丁寧に挨拶をする。缶詰なんて食べたことがない。

それが二月のことであります。それから毎日のように行って勧告するが出てこない。三月四月五月まで頑張って、五月の朝、暗いうちにドーンとその穴で、大きい音がしたので、とんでいってみたら手榴弾で自決して死んでいた。その入り口にその東大の学生が日本語と英語と両方で、遺書を書いて置いてあったそうです。

 今その遺書は防衛庁にあります。その本文を読みます。

 閣下の私たちに対するご親切の行為、誠に感謝感激に絶えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや、水も無く食も無ければ十三日午前四時を期して全員自決して、天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を置きます。
 昭和二十年五月十三日  日本陸軍中尉浅田信二
米軍司令官 スプルアンヌ大将殿   (後略)終

いかに立派に戦い、武士として死んで行かれたか。これがわが日本の軍であり、われらの先輩であったのだ。

沖縄然り、南京然り。見事なる戦いであったのである。けしてマスコミの意図にのるなかれ。

とまどひ生きむ 殉国七士の墓建立の言われ

2008-03-20 12:13:47 | Weblog
三ヶ根山に何があるのですか。そんな質問を受けることが多くなった。ここにその碑文の紹介をしておきたい。詳しくはホームページ「三ヶ根通信」ご覧ください。
 私は、子どもたちにこの7名を「とまどひ生きむ」と紹介しております。七士の頭文字「と」東條「ま」松井「ど」土肥原「ひ」広田「い」板垣「き」木村「む」武藤の7文字でしらしめ、且つ日本人の歴史観がいまだに戸惑っている事をあらわしてのことです。お読みいただいた方に広めていただき、七士の真実を顕彰する一助にしていただきたく思います。以下墓の入り口に彫ってある碑文を掲載しておきます。
三ヶ根の碑文紹介(1)  殉国七士廟由来

東條 英機(元陸軍大将)
松井 岩根(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
板垣征四郎(元陸軍大将)
武藤  章(元陸軍中将)
木村平太郎(元陸軍大将)
広田 弘毅(元総理大臣)

 昭和二十年八月十五日終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を負い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの十一カ国は極東軍事裁判を開き、事後法に依り審判と評決によって右七名に対し絞首刑を決定し、昭和二十三年十二月二十三日未明前記A級戦犯七名の絞首刑が執行されたのである。当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯七名の遺骨を収得しようと決心したのは、絞首刑の判決が言い渡された昭和二十三年十月一二日午後のことであった。なぜならば各担当弁護士がいたいの家族引渡しの件でマックアーサー司令部を訪ねたが了解を得ることができなかったからである。このままでは遺体も遺骨も家族には引き渡されず極秘のうちに処分される事明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。又日本の将来の平和追及のためにも日本国の犠牲者犠牲者として処刑される七名の遺骨は残さなければならない。そこで遺骨だけでも家族になんとか渡したい一念により大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当たっては綿密な計画を要したが、それには先ず計画の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとのことで七人の刑の執行日はクリスマス前日十二月二十三日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察することができた。横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通じ、久保山火葬場長飛田美善市の協力を得ることにも成功した。しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り七名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の目を盗んで奪取し、一応計画は成功したかにおもわれたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審におもい、感づいた米軍人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので米軍も面倒と思ったのか奪取七名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。この時米軍が持ち去った七名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるがどの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。そこで翌二十四日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になることを知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒れる夜半、黒装束に身をかため、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。諸甥は暗くても、灯火と物音は禁物である。骨捨場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入り口も無いので思索の結果、火かき棒の先に空き缶を結びつけ苦心して遺骨を掬い取ることに成功し、ふつうの骨壷にほぼ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。遺棄された真新しい真っ白の遺骨は紛れもなくこの世に唯一の七名の遺骨でありこれを奪取することに成功したことは三文時弁護士にとっては一生を通じ命を賭した熱き長き一日の出来事であった。
 こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の合意の下に財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和三十五年八月十六日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
 以来毎年四月二十九日の天皇誕生日のよき日に例大祭を行うとともに時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客が花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々御参拝に参るようになり世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。
       弁護士   三文字正平 書
 昭和五十九年 十月三十一日  
会員便り

ジェノサイドを止めよう。チベットを守れ。

2008-03-19 23:50:16 | Weblog
万里の長城は北方他民族の侵入を防ぐために築いた漢民族の北限である。その地を乗り越え、日本敗戦時に漁夫の利を得て、中華人民共和国の版図を北に伸ばした。国共内戦に勝利して、西にはチベットトルキスタンを従えた。南にヒマラヤネパールの地を伺い,さらに東に台湾尖閣を脅し取ろうとする超軍事大国中国の野望はとどまる所を知らない。陸の超大国から、その海軍力の整備を楯に、南沙諸島どころか、いまや太平洋をアメリカと二分しようと提案さえしだしている。

 いつか必ず崩壊するであろうといっても、それまでにどれほどの尊い血を奪いつくすつもりであろう。それを許すのか。

 スペインの滅亡までに善良な民族国家がどれほど悲惨な運命をたどったか。
 ピサロはイエスの名の下、スペイン王の庇護を受けインカ帝国地域(ペルー)八百二十万人の犠牲者を出し金銀を奪った。アステカ地方は二千四百万人、カリブ海周辺では三十八万人計三千三百万人の死をもたらした。コロンブスアメリカ発見以来の百年で、白人がもたらした伝染病の死者も入れてではあるが。人口は十分の一にされた。
 征服された帝国滅亡の道は悲惨である。金銀を山の如くつまされ、命と地位保全の約束をした王と民族は、結果だまされ、冨を奪われ無残にも切り殺された。列強の合意でアメリカ大陸支配の境界線は築かれ、一方、ネイテイブの命と生存は無視されつづけたのではなかったか。。

 何たるエゴ。何たる悲哀。しかし世界はこれを放置した。いやアジアアフリカは人として一顧だにされぬ高等動物にすぎないとされていたのである。奴隷である。

 銀採掘の奴隷が酷使の果てに絶えてしまうと次に、用立てられたのがアフリカ大陸からだった。奴隷狩りである。ギニア湾には今も金を奪った土地名の黄金海岸、象牙の象牙海岸、奴隷の奴隷海岸と名前が残っている。概算、数千万から一億人が連れ出されたとされる。十六世紀から十九世紀までに。商品奴隷を解放しようとして戦争したのがリンカーンの南北戦争。それ以降も続いたのである。明治になってもまだ実際は続くのだ。これが白人文明国の実態だったわけだ。

 そのハンティングはゲームそのもの。獲物を従で狙い撃ちして遊ぶのだ。

 しかし中国はそれ以上の狂気である。

 白人が黄色人種を虫けらの如く殺し続けたのは遠き昔。二百年以上前のこと。しかし中国は今もって。ここ六十年来、共産中国が同じ漢民族同士を殺しあった人数は、国家形成前後で欧米人がアフリカ・南北アメリカで殺した数をうわまって、数千万人。
 漢民族でないチベット民族なんぞ物の数ではないかのごとく感じているのであろう。

 チベットからのインドダライラマ師へ向かう巡礼の一行がヒマラヤの峯の上で一人一人狙い撃ちされてばたばた倒されていく風景がネットで流れていた。銃声と共に一人ずつ倒されていく。他の一行は重い足を引きずるように歩き辻ける。嘘だろ。ヒマラヤにキャンプしていた欧州人が取ったビデオであった。

 その暴挙は平然と実施されている。まさに狂気である。

 国際的人権擁護の叫びは、国連拒否権を持つ中国の反対で、非難決議すらあげられぬ壁にぶち当たっている。(分担金はほとんど出さずにいるロシア中国の妨害で)打つ手はほとんどない。そして後数日で、インカ帝国、間やアステカ文明の滅亡と同じ時を迎えようとしているのだ。

 心あるともよ。人類平等法案を世界に叫び続けた栄光の歴史を持つ国の子孫たちよ。たとえ微々たる力であろうと、智恵と力を結集して非道なる弾圧国家に抗議の声を上げよう。できることはすべてやろう。アジア同胞を見殺しにはできない。

チベット支援はかつての恩義に報いる道

2008-03-19 11:39:40 | Weblog
 チベットは高貴な国である。決して暴発せず、歴史の荒波に耐え続けていまもいる。
 チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ十四世の特使団は、中国政府と断続的に交渉、同氏の帰国やチベット情勢などを粘り強く協議してきたのであった。
 ダライ・ラマ氏は侵略追放の悲哀を一身に抱えながらも隊中国批判を隠忍自重し、独立をうたわず、中国政府に「高度な自治」を求めてきた。武力を背景に植民主義を展開する中国に対して、大譲歩した小国亡命政権の悲哀を思う。

 しかし、中国政府のダライ・ラマ批判は止まず、チベット自治区のトップ、張慶黎・党委書記らは全人代で、北京五輪に向け「最大の不安定要素はダライ・ラマ集団。一日たりとも分裂活動を中止しない(分裂主義者)」と非難していた。

 そもそも中国、胡主席は、チベット自治区党委書記時代の八十九年、ラサ暴動を鎮圧し、その功績が故小平に評価され昇進につながったという。チベット弾圧の総司令官であったのだ。今回も全世界的中国批判を一顧だにせず、軍と経済力、さらに国連拒否権国の立場、さらにオリンピック開催国メリットを最大限利用し、チベット制圧を公然とはかろうとしている。

 いま、侵略へのチベット国民の平和的な抗議行動は、中国政府の強行突破方針のなかで、チベット各地のみか近隣自治州さらにアメリカ、フランスなど全国で激しく燃え盛ってきている。
 現行の中国統治下で、チベットの人々の心に深く根ざしてきた憤りの爆発を誘発した。五輪の前に国内矛盾を一挙に一掃しようとした強圧的政府の挑戦に、もはや我慢の限界点をこえてしまったのだ。そして現実を知った世界が動いた。スピルバーグ監督の父はチベット仏教の研究者という。その思いが巨匠の良心を動かし、オリンピックの選手の良心に伝わり、英国皇太子の平和への行動を導いた。
侵略と虐殺を許さぬ全世界的良心のあらわれが全世界的広がりを持ち始めてきた。

 この事態を受けて、ダライ・ラマ十四世は、遂に「自制なければ退かねばならない」事を表明された.

 これは重大事態である。
 
 穏健派でしかも精神的支柱の十四世を失えば、独立急進派がリーダーシップをとり、事態は泥沼化しそうな気配である。イスラムの怨念の再来とならぬとどうしていえようか

「これまで絶えず申し上げてきたように、武力行使による統一と安定は一時的な解決にしかなりません。武力支配下にあっては統一と安定を期待するのは非現実的であり、平和的、永続的な解決策を見いだす助けとなることもありません。したがって、私は、中国指導部に対して、武力の行使を中止し、チベットの人々との対話を通して、長年鬱積してきたチベットの人々の憤りに本気で取り組んでくださるよう訴えます。また、同胞のチベット人に対して、暴力に訴えないよう強く求めます。」
 
 かく声明を述べる十四世の悲痛な訴えをわが日本が積極的に答えなくてはならない。
 かつて大東亜戦争開戦時、連合軍の強力な要請を断固跳ね除け、対日批判に走らず、連合軍に参加せずに中立を守ってくれた、チベットの恩義に答える道である。


                               

                               

アジアの命を救え

2008-03-19 00:43:55 | Weblog
五輪ボイコットをなぜいま否定するのか
どれだけ媚びれば済むのか政府。

人権を語る政治家よ、なぜに隣国中国にはこぶしを振り上げないのか。抗議する気概を持たないのか。なぜに現在進行中のアジアの悲劇を阻止しようとしないのか。

 信教の自由を叫ぶ宗教者よ。踏みにじられた信仰を取り戻したいと願う仏教徒の願いを、聞き届けようとする宗教者ひとり、なぜに出ないのか。

国連第一主義を言う政党から、国連安保理開催を訴える声明ひとつ出ないのはなぜだ。
 虐殺容認につながる五輪擁護を今発言するのか。いつから日本はアジア軽視の道を歩みだしたのか。

 自由と繁栄の輪を目指したはずの与党政府はどこへ行ったのか。言葉を奪われ呻吟するアジアの声を聞け。いのちをかけて生存を訴えるチベットの叫びを聞け。

 オリンピックの出場決定者よ。アジアのいのちと名誉を守り五輪ボイコットを主張せよ。失われゆくいのちは二度と帰りはしないのだ。
 
 現在進行中の虐殺に断固抗議せずして侵略の連鎖は断ち切れないのだ。

 

昭和天皇のお墓参り 若狭論文周辺

2008-03-18 23:49:38 | Weblog

 友が東京より来てくれた。忙しいから良いというのにどうしてもということで時間を設定してあう。活動の後輩を連れてきた。 
 ご結婚されるという。喜ばしきことである。三ヶ根を知らないようだったので車で三ヶ根山に案内した。是非知っていてほしいところであるから。
ここには殉国七士の廟がある。

 私が三ヶ根山を訪れたのは学生時代。すでに三十五年前である。車でたまたま通りかかったのがここ。以来、折に触れ参拝し、清掃奉仕にいそしんだ。友と毎月、日曜日毎に清掃奉仕をしたが、その一日がここであった。

 三河人でもほとんどの人がここを知らない。

 かつて私は中学社会科教師をしていたが歴史の授業で東條を教えた。あの時代、東條なくして国の存在はなかったと語っていた。当時のことだからA級戦犯としてさげすまれた東條を評価することは教師として危険なことであった。保身という意味では。しかし生徒には、「いまは日本中のどの社会科教師も語らぬが、必ず正当に評価される時が来る」といった。

 教室には教育勅語を掲げた。当然の如く組合の批判があり、校長も苦労されたようだったが。すでになくなられていて申し訳なきことだと思うが。
 しかし、当時、三十年も前の自分は、こんなに早く東條評価が起こるとは内心思っていなかった。中国の授業も人民公社の素晴らしさを教えねばならなかった。嘘だとわかっていたので、試験はこの通りに出すぞ。しかしほんとはこうだと、当時起こりつつあった自由市場の話をしっかりした。

 孤立無援の学生時代や教師時代。しかしその驚くべき廟がここ三ヶ根に堂々と立っている.地域の人々により、公に守られている。自分にとってここの存在は大きな支えであったのだ。母校、名古屋大学に、汪兆銘の梅の木が植わっているのを書物で読んで感動し、勇気付けられていたのと同様に。

 いつか必ずその日が来ると信じていた。
 昭和十六年、アメリカは重慶の蒋介石に莫大な借款供与を続ける一方、日本への経済圧迫を強め、遂に石油禁輸に踏み切った。ビルマでは義勇軍を装った米空軍部隊「フライング・タイガース」が日本軍と戦っていた。すでに日米は戦争状態に等しかった。近衛文麿内閣は内閣を投げ出し、陸相の椅子を去る東條も使命終了を確信。後継首相には東久邇宮を強く押した。この難局打開には皇族しかないと。
 しかし大命は東條に下った。そしてそれまでの御前会議の決定は白紙還元し、戦争回避のため、国策を再検討せよと言うのが天皇陛下のご意思であった。

 確かにこの時期、統帥部の反発を抑えながら戦争回避工作が出来るのは東條を措いていなかったのである。しかし、アメリカ側に妥協する意思が皆無である以上、どんな努力も実を結ぶことはなかった。極限まで譲歩した甲乙案に対するアメリカの返答は全面降伏を迫るに等しいハルノートであった。
 後にパール判事が「ハルノートのようなものを受け取れば、モナコやルクセンブルクのような国でもアメリカに対し武力を持って立ち上がったであろう」と断じた程の非道なる挑戦状。

 東條に全幅の信頼を置かれた陛下が、東條ほか七士を疎んじるはずがない。富田メモの発表の虚偽は明らか。事実、ここ三ヶ根グリーンホテルにはるばる陛下がお止まりくださった事実があるではないか。

 しかし陛下の三ヶ根御行幸はまだ公にできぬ。歯軋りするものがあった。
 左翼やマスコミの批判に御皇室がさらされることになると。

 しかし事実は知らされねばならない。
 若狭先生も「発表してよろしいか」と問われた。関係者の言質はとってある。
もういいでしょうやりましょう。国民が冷静な歴史観を取り戻したいま、是非お書きください。

「陛下のお墓参り」若狭先生の命名である。

 この地を訪れていただける方が一人でも多くなる事を祈るばかりである。祭礼は四月二十九日。昭和の日である。

大阪の下品な中核派を府民の名で放擲すべし

2008-03-17 22:48:21 | Weblog
 織田信長の非常さは今の世の中から見れば異常にさえ映る。本願寺の焼きうちや、一銭切り。一銭でも盗めば死刑というのはあまりにむごい。しかし、時は幕府権力など機能せず無法状態。戦国の世であり、治安は強力な政権が立ち上がらなければ確立しない。この一銭切りは盗みが犯罪であることを徹底するに大成果があったという。一罰百戒である。

 信長が非情とされるのはあくまで、今の治安国家の目からであり、当時においては重要な選択であったことを見なければ正しいとはいえない。

 比叡山や本願寺焼き討ちなどはその典型的例である。当時の寺社は強大な武装僧兵を持ち「座」などの商人や関所からの莫大な利益を守るため、軍事力で戦国大名にも勝っていた。信長は楽市楽座の政策を推し進める上で、敵に回った利権集団である寺社を倒した。その戦で息子さえ失う。停戦のたびに約束をたがえて攻めたのは寺社側であったことを忘れてはならない。

 最後の和睦で、一切の咎めをしないと信長は宣言する。なぜか。

 今後、坊主は武装しない。武力を放棄すると寺社側が申し出たからである。秀吉の「刀狩」の寺社バージョンであり、抵抗と重みが秀吉とは大いに異なる。これを守ると約束したから今までの反逆は罪を問わない。

 なぜにでは信長は強硬なる手段を講じたのか。誰よりも先に地球が丸く日本は小さな東洋のはずれの国であったことに気付いていた。献上された地球儀により、すでにヨーロッパが大陸シナのすきをうかがっていた、なろうことなら支配下に置こうとしていた、それを読み取ったのである。急がねば必ずその勢いがわが宇内に押し寄せるはずである。

 家来にも威圧的にあたる。有無を言わさぬためには言葉で飾るものを切り捨てる。非情に徹するのである。狂人の如き振る舞いをするのも自己保身に走りがちな家来に甘えを峻拒させるためであったろう。

 大阪府の職員が橋下知事にたてついて朝礼を団交の場にしようとたくらんだ映像が流された。その言葉使いの横柄さにはニュースを見ていて腹が立った。ネットにて知ったところによれば彼女は中核系の組合員。サービス残業をしてまでがんばっているんですと大見得切ってテレビに登場したにかかわらず、どれほどのの残業ですかと記者に問われて「実はしてません。」

何たる下品。何たる愚弄。

 月曜になり、朝一番で大阪水道局に抗議の電話を入れた。上司と本人を処分せよと。
 かかる利権集団が大阪を働かぬ公務員天国にしていたのだ。

 借金だらけの職場にあって税金をうまく手に入れようとするグループの温床であったら改革はなしえない。

 一銭切りこそ、いまの大阪に必要なのである。即刻処分しなくてはならない。ついてこない職員はお引取り願うしかないのである。

 危機意識を持った橋下氏が公務員の一銭切りと利権集団の刀狩とを狂気にみえる勢いで成し遂げてもらいたい。きっと天下の流れになりうるはずである。

チベット侵略を即時中断せよ  中国領事館への要望書

2008-03-17 15:01:49 | Weblog
チベット自治区への弾圧を即時中止せよ

 そもそもチベットは独立国家であった。貴国の侵攻により国家の自治を失い、はや半世紀。ダライ・ラマ氏はインドに亡命政府を立ち上げ、チベット国民の平和的生存を国外から希望してみえるにかかわらず、貴国は軍事侵攻のみか、自由なる反対勢力を刑務所、強制収容所に収容、さらに住民虐殺を繰り広げた。また宗教弾圧を繰り広げ、九割を越す寺院の破壊と僧侶追放、さらに強制的民族同化政策、植民政策を繰り広げ、チベットの文化宗教を根絶やししようとしている。許しがたきことである。

 一九五〇年の貴国解放軍によるチベット侵攻は、「チベットを含む中国の総ての領土の解放を求める」などと勝手なる理屈に基づき行なわれた。そして「チベット人を外国の帝国主義者より解放するための進軍」と理不尽な進軍理由を発表した。

 チベットはすぐに、「中国とチベットの関係は、施主とラマのそれであり、チベットは中国の一部であったことは一度もなく、またチベットを支配する外的勢力などそもそも存在しない以上、外国の帝国主義者よりの解放など必要ない」と強く抗議した。にもかかわらず貴国は軍事侵攻を繰り広げたのである。

 一九五〇年の十月インドのデリーにおいて中国とチベット政府の間に代表交渉がなされた。この交渉において中国側はチベット側に対し(1)中華人民共和国はチベットの国防問題を処理する(2)チベットは中華人民共和国の一部であること認めるという2点に同意し、協約を結ぶことを迫った。理不尽な要求を認める理由も必要もなんら存在しなかったためチベットはこの要求を拒否した。貴国のこの要求は明らかに今日確立されている自決権の内容に著しく抵触するものであり、当然チベット側が納得できるものではなかった。

 その交渉の最中、一九五〇年十月七日に人民解放軍は宣戦の布告なしに東チベットに急襲をかけ侵攻を開始し、「チベット人を帝国主義者の弾圧より解放するため、また中国西部国境線の防衛強化のため、人民解放軍のチベット進軍を命令した」と公式に発表したのであった。

 しかし、チベットはまったくの独立した「国家」であったばかりか、「外国の帝国主義者による弾圧」はそもそも存在しなかったのである。

 チベットの国家存在の根拠は一九一二年の辛亥革命により清朝が滅亡後、亡命先のインドからイギリスの支援を受けたダライ・ラマ十三世がチベット本国に帰還して行なったチベット帝国独立宣言である。十三年にはその独立宣言に基づきチベットとモンゴルの間で満州人(清国)からの独立を宣言し両国の友好の強化、相互の独立の承認を内容とするウルガ条約が結ばれた。

、チベット語を話し独自の文化・価値観を有するチベット人の現チベット領域への定住とその後二千百年間のチベット文化の隆盛は歴史的事実であり、その政府組織や、内閣制度も確立しており、内政・外交ともによく整備・統治されていた。チベットは中国の主張するような「切り離すことのできない中国の一部」ではなく、明らかに一つの独立した「国家」であった。 

 そして、何よりも、一九四七年の毛沢東によるチベット独立を認め、それを歓迎するとした発言の存在は中華人民共和国自身がチベットの国家としての独立を認めていたことを示す明白な証拠である。

 一九五一年五月、事態打開のため北京を訪れていたザサー・ソナム・ワンドウー氏、トウプテン・テンダル氏らの代表団ならびに、人民解放軍侵攻の初期の戦闘で捕虜になったカプー・カワン・ジグメ氏らにたいし、貴中華人民共和国政府はかれらを軟禁状態におき、脅迫・恫喝・強制の下、やむなくいわゆる十七条協約に調印させた。この際、この調印に関してチベット代表団は本国チベット政府に対してなんら支持を仰ぐことも許されず、また連絡も一切とることのできない状況に追いこまれた。
また北京で偽造された印璽による調印であった。

国際法的観点から見て、このいわゆる十七条協約の法的効力は明らかに否定されるべきものである。強制の下で締結された条約の法的効力については、伝統的国際慣習上からも明らかに無効であるとされている。

 また、強制の下で締結された条約が無効とされることは「条約法に関するウイーン条約」でも認められている。
 十七条協約の法的効力の無効は明らかであり、この協定を根拠とする中華人民共和国の一連の侵略行動は正当性を有しない。

 しかし、協約調印以降、中華人民共和国はチベットにおけるあらゆる行動の正当化の根拠としてこのいわゆる十七条協約を振りかざすことになり、中華人民共和国はチベットにおける侵略行為をさらにエスカレートしていった。

 一九五九年三月、それまでの中華人民共和国による暴虐な振る舞いに対してチベット人は決起した。しかしこの決起も、質・量に勝る人民解放軍はこれを鎮圧、チベット軍人・ゲリラ兵のみならず、何万という民衆が殺された。この決起後、中華人民共和国は「民主改革」という名による虐殺・民族浄化・ジェノサイドをおこない、今日でもその惨劇は断続的に続けられている。

 しかしこの頃まで、チベット使節団がチベットのパスポートで世界中を回り救援・支援を訴えつづけてきた。このパスポートがアメリカ、イギリスその他の国で法的に正式な書類として認められたことは、すなわちそれらの国々がチベットを一個の国家として認識していたことを示す確たる証拠であるといえるだろう。

 以上の如くチベットは明らかに、独立した一個の国家であり、中国の行動はそのチベットへの武力による侵略であり、現在のチベットのおかれている状況はそのような中華人民共和国による不当な占領下にあると断言できる。

 中華人民共和国は非常に残虐な方法をもって、刑罰という名の虐殺を行なった。公開処刑、絞首刑、銃殺はまだ幸運なものであったという。はりつけ、生きながら焼かれる、生き埋め、餓死、といったもの。さらには、父は子を、子は母をと家族の者同士によって殺されるよう強制された。生きながらに解剖されるといったこともされたという。女性は処刑前に老いも若きもことごとく強姦された。年端の行かない少年僧、少女尼僧にもそれは行なわれた。

 拷問による死者も多数に上る。爪の間に竹串を刺すと言ったものから、指を一本づつ切断する、電気ショック、身体中に長いくぎを打ちこまれる、ガソリンをかけ火をつける、零下の中裸で放置されるといったものまであるという。さらに女性強姦。

 侵攻以来、今日までに、貴国政府の入植政策により一千万人もの中国人が入植し、チベット人の民族的独自性は完全に危機に瀕している。

 今日、チベットの学校ではチベット語はほとんど教えられていないという。また、八十五年から一万八千人の子供が「中国本土で教育を受けさせる」という名目で中国本土の民族学院へつれて行かれ、一万人以上が帰ってこなかったという。

 さらに貴国がチベットに放射性核廃棄物を野ざらしで投棄しているというチベット亡命政府高官の証言がある。実際、亡命者の中には原因不明のガン、白血病患者がいるという。もしこれが事実ならば、IAEAの「重大関心事項」に該当する事柄として監査されるべき事柄である。
 
 最近では一九九九年前半に中華人民共和国・ウイグル自治区で起こったテロ事件や同年後半に都市部で起こった法輪功事件以降、中華人民共和国内における少数民族・宗教に対する警戒・弾圧は激しさを増してきている。

 カルマパ十七世のインド亡命後にはその責任を口実に多くの僧侶が逮捕・投獄されているという。さきの全人代ではダライ・ラマ十四世を反動分離主義者として激しく非難し、最近ではダライ・ラマ十四世の訪日に対したいへんに強い圧力を日本政府に対してかけた。今日のチベットの情勢は悪化する一方である。

 貴国のチベットに対する侵略行為は明らかに違法であり、中華人民共和国のチベットに対する虐殺・人権侵害事件は、「人類の平和と安全に対する罪」に他ならないのである。

 まさに悲劇である。

そうした屈辱の中で遂にチベット国民は民族の存亡の危機に直面し、今回のデモ行動にたったという。然るに貴国政府は必死の民族自立の叫びに耳を貸すどころか、これを軍により弾圧し、1節には百人以上の多数の死傷者をだすにいたったと報道されている。

 大虐殺である。しかも外国のメデイア取材すら受け入れようとしない。
 あまりにも理想論にさえ思えるダライ・ラマ十四世の、これに抗議する言葉にさえ耳を貸そうとしないどころか、逆に首謀者発言すらしていることは容認できるものではない。

 わが国、町村官房長官の「双方が自制して混乱が拡大しない事を望む」などの自制要請に何らこたえようとしない貴国政府の行動は、国際道義にもとる人類に対する重大なる挑戦である。

 一刻も早く弾圧の放棄をし、チベット民族への侵略をやめるよう強く要請する。

                   チベット国民に連帯する市民の会
                                      

国旗掲揚を目指そう

2008-03-16 23:08:50 | Weblog
 昨日、昼間、車にて名古屋行き。約束の時間に間に合うように行くつもりが途中二箇所寄り道することに。国旗掲揚の話である。

 祝日でないため、国旗が掲げられているのは消防署と高校。嬉しいなと思いながら走ると、企業も掲揚してくれている。 

 トヨタ市に入ると、国旗がボツボツ出してある。いいことだと思いつついるとどうも変だ。よく見ると三本のポールの中央に国旗がなく、低い、左側のポールに掲揚されているではないか。中央には社旗が翩翻と掲げられている。

 徒然草の丹波詣ではないが、不思議に思って大企業の事務所に訪問して、そのわけを伺う。しかし、特に意味がないとの返事。掲揚のお礼は言いながらも国家あっての御社の繁栄と思いますので、国旗を高々と中央に掲揚願いたいとお願いした。

 しばらく走るとそれがまたもや。再度お寄りし、要請する。ついでに国家問題についてお話してきたのですが。無論全く知らぬ方でしたが。

 かつて、とある高校に国旗がびりびりのままかけてあった。あげっぱなしで相当たっていた。余りにひどいので交換をお願いしたのが教頭先生。答えて言われるのは、「校長が不在のためわかりません。」何と。いないときは自分が責任者でしょう。「恥ずかしきこと早速変えましょう」との返事が返ってくると思っていたのに驚いた。「換えなければ国家に対し非礼ですよ。」
 そうはいっても、言葉の端々に(出したくない、ぼろで何が悪い)というニュアンスを感じ、「それじゃあ、教育委員会にお願いして換えていただきましょう。」

 こう啖呵をきって帰ったが、程なく変わっていた。教育委員会の名は効きますね。
 小学校の運動会でも半旗になっていてもそのままだったのを注意したことも。出ていれば良いのではなく気持ちが入っていなければ。

 三月二十日の掲揚状況に何かしらの変化がでてくれればと願う。

チベットを守れ

2008-03-16 22:00:38 | Weblog

 遂に恐れていたことが起こった。チベットにおいて血の粛清がなされてのである。
 報道によれば四百名を越すラマ教僧侶や国民の自治権の求める平和なデモに対して中国兵が発砲、死傷者は百名を越すと見られている。 

 かつて、独立国家であったチベットに弾圧を加えた中国は、遂に宗教的指導者ダライ・ラマ氏を国外追放に成功。国土を呑飲し、漢民族の植民の地とした。形式的には宗教の自由を認めさせながら、実質上、僧侶は中国政府に追随するもののみを任命し、ダライ・ラマ批判をしない僧侶は追放したのである。
 新たな少年をラマ十一世でしたかに任じ、ラマ教を政府の支配下に置いた。その後、その聖職者はインド亡命政府を頼ってダライ・ラマ師のもとに亡命したと聞いていたが、久しくペマギャルポ氏のお話を伺う機会に恵まれず、その後の経緯を知らずにいた。  

 亡命政府、ダライ・ラマ氏は、国家再建の願いを当然持ってみえるはずであるが、武力による解決は望まれず、自治権の拡充を希望してみえたという。
 アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」で 、チベット全土を平和地域とする。チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する 。チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する。 チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない。チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する。そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めない、と譲歩もしている。

 となりの新疆自治区(東トルキスタン)では核実験により数十万人が死亡しており、氏の希望は余りに当たり前すぎる要望に過ぎないのだ。

 しかし、中国政府は植民地政策を強力に推し進めた。中国共産党は中国の他の地方で共産主義による急速な「民主改革」を進めていたが、協定後は、チベットの事情に配慮して「チベットには改革を強制しない」と約束した。しかしまったくことばだけ。現在にいたるまで、「銃口から政権が生まれる」という有名な言葉どおり、中国はチベットに銃口を向けつづけたのである。

 仏教国であったチベットの九十五%以上の僧院を破壊し、多くの僧侶を還俗させ、経典を焼き、仏像を持ち去って溶かした。また、僧院を中心とした社会の仕組みを壊し、チベット人の土地を勝手に分配し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させた。

 チベット人の中国への抵抗はしかし根強い。中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺された。もともとそれほど多くの人間を養うような肥沃な土地の少ないチベットに軍人などが急に流れ込んだために食糧事情が悪化し、大量の餓死者もでた。
  チベットの文化やチベット人のアイデンティティの破壊、人権の抑圧は、現在も着々と進む。僧院などの宗教施設は形だけは復活しましたが、僧侶の数に制限が設けられ、共産党のチームが駐屯して「愛国教育」と称する講習をなす。そこでは、チベット人の指導者であるダライ・ラマ法王をののしることが強制され、嫌がる者は僧籍を剥奪されて追い出されたり「分離主義者」として投獄されて拷問を受ける。
 中国支配の下でチベット語を教える教師が減り、したがって、チベットを学ぶ機会が減り、中国語しか話せないチベット人ばかりが増える。多くの役所や職場を牛耳っているのは中国人。中国語ができないと就職すらできぬという。 その中での平和なデモの実施であったに過ぎぬのだ。それに対して、中国は何をなしたのか。目をそむけては断じてならない。

 われらは思い出さなければならない。ナチスドイツがベルリンにてオリンピックを開催した。そのとき、各国首脳が参列していた事を。ヒトラーは、そのまえで自国の誇りをうたい上げ、国内矛盾を昇華し、遂に何を始めたかを。

 しかし、日本は、国是として民族平等の精神を打ち出していた.杉原千畝氏や、東條英機氏・樋口李一郎氏などの関東軍が、どれほど多くのユダヤ人を救い出したかを。

 いかに強大な軍事力を誇るシナとはいえ、われらは大東亜解放、アジア解放に命をかけられた先人に恥じる行為はできぬ。

 今こそチベット国民の救済に立ち上がるべきである。