草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

南京攻略は通常戦闘行為である

2008-03-05 14:49:42 | Weblog
 南京入場は通常戦闘行為である     
 大田正雄氏(九十五歳)
   岡崎郷友会長にうかがう。
 本日、大田様に南京入場の様子や軍隊謙を伺いました。

 南京入城時、第三軍三個中隊を指揮する片桐部隊(独立部隊)の第一中隊松田隊第一小隊第一分隊所属.伍長であった。
大田氏は岡崎郷友会を率いてみえ、さまざまに国のためにご活躍いただいている方です。若松町にお住まい。
 最初の入隊は昭和八年、一月二十日豊橋十八連隊。三月に満州ハルピンに派遣される。青年学校を出てみえるので一年六か月で除隊になるところ、除隊延期となり二年四ヶ月間勤務十年十一月除隊、一月五日に岡崎に帰る。
 二度目の従軍は昭和十二年、八月十五日。名古屋の三師団に応召される。
ご結婚は同年二月二十八日。娘さんが六十九歳で先月お亡くなりになったが、誕生日は十二月十二日。今月一日に三十五日法要を行なわれた。悲しみのときに恐縮ながらもお話を伺ったわけです。
 娘さんは、何と南京入場の時にお生まれになったことになります。
 徴兵後、上海に派遣。敵前上陸は大変な激戦。同郷の若者が相当数戦死された。掘った塹壕に死体が累々と積み上げられたと伺い誠に申し訳なく深く感謝した。
 上海攻略の後、南京攻略.ほぼ一週間ほどで、再度進軍。大別山を越え、こし、杭州、羅山、新陽そして雲夢まで行かれた。南京攻略の後も武関三鎮攻め、長沙作戦へと向かったが、途中で雲夢まで行った時、陥落の報を受け南京南の応山の駐屯地に下がった。この間一ヵ月ほど。更に作戦体制をととのえ、進軍。舟(はしけ)で機雷を避けながら進撃。しかし補給が続かず、中止。他の部隊は重慶まで行ったが片桐部隊は重慶の手前にて後退し、応山にて召集解除となる。。
 南京攻略は南京の南二十キロ地点鎮口(?)の寺にて準備、駐屯。ここで阿倍仲麻呂の「三笠の山にいでし月かも」の碑を見て驚いた。
 南京城には二十ほどの門がある。さすが敵の首都だけにものすごい激戦となる。シナ兵は七つの師団からなる南京保衛軍を城外に配置し要塞を作って防御する。
 わが軍は十日十二時の和平開城勧告期限を過ぎても降参しないシナ兵に対して総攻撃を開始。遂に十二日、東京のわきざか部隊が西門を破って初の入場。われらは武定(ぶてい)門を破る。頑丈な鉄扉で手榴弾ではびくともしない。ここは橋を落とされ道がない。堀を船で渡っての攻撃。砲弾を城門めがけて打ち続けル。敵は城壁の上から必死に打ち続ける。しかし遂に門を破り入城した。
 中山門が一番大きい。敵兵は城に集結し、砲撃をなす。迫撃砲に対してこちらも砲撃。入城しても敵兵は白旗を掲げることなく着替えて市民にまぎれて銃撃。わが軍も応酬。便衣兵なのか市民なのか判別のゆとりなく反撃した。上官は十八連隊藤田大佐です。遂に南京城陥落。十二月十三日。松井石根大将をお迎えして入城式がなされた。大将は部下を引き連れて中山門から入場された。およそ一週間ほど滞在して、また駐屯地たる応山に戻る。城内には激戦のため戦死者は数多くいたが、入城してからは敵部隊はほとんど揚子江川に敗走し、反撃はほとんどなかった。揚子江に逃げた敵兵は船の沈没で相当の被害が出た。何しろ矢作川の三倍以上の広さで水かさも深くながれも急。とても泳げはしない。追撃もできない。作戦を立てて進軍作戦が命令されるまで待機となる。
 上海戦では大変であった。食料もなく、現地調達するしかなかった。食べなければ死ぬわけだから。しかし一人では歩けない。必ず威嚇射撃をしていかねばいつ何時隠れた敵兵に襲われるか分からない。事実、食糧集めで味方が三名襲撃されて殺されもした。
 三度目の動員は十八年。名古屋二部隊。ラバウル要員であったが待てども船が確保できず。名古屋清水口の第一中に駐屯。瀬戸線沿線の補強業務。鉄橋の補強などをして出行をまつ。五月十五日か運命の日。八百機ほどの戦闘機が来る。当時下士官、分隊長。展望台にて看視命令を受け業務に就く。十時ごろ空襲警報。五から八機の機影を後者の上にて発見。敵は十二時から二時までものすごき勢いで空爆。市民を必死に防空壕に避難させる。二千人ほどの市民を避難させる。昼間なのに黒い煙で空は真っ暗。燃え盛る火により地上は真っ赤となる。校舎にも二十発以上の焼夷弾が落ち、西側の炊事場に火の手が上がる。兵を使い必死に消火する。けさなければ全滅焼け野原となったであったろう。すむところがなくなる。三時頃終結し見れば15個あったトイレは影も形もない。校舎は天井が落ちて中の武器もうずまっていた。翌日、毎朝点呼をとる際に必ず大きく見えた名古屋城がない。これにはびっくりした。
 浜松も艦砲射撃を受けた。いよいよ敵上陸、本土決戦は近いと部隊は駿河へ向かうことに。三個中隊およそ四百名で徒歩にて移動.岡崎山中小にて宿泊。豊橋高師小学に。二十年七月七日だったか空襲警報が発令。南西からB二九が八機編隊三隊になってくる。仰角三十五度のところから爆弾投下するとここに落ちる。頭の上ではないですよ。校庭にいた部隊は動けば標的にされる。すぐ気付かれるから。みな仰向けになって寝ていた。良かった通り過ぎたとほっとした途端。豊川交渉が炎に包まれ黒煙が上がった。やりやがった。被害が心配であったが、なんともしがたい。
 二川から列車で駿河藤枝へ。大井川小で本土決戦に備え、駐屯陣地構築をなす。多い町には特攻基地があり、飛行場では海軍の飛行訓練がなされていた。終戦を迎え残務処理をして九月七日帰省。今次の戦争でこの小さなから十五・六人が出征し、七・八人が戦死。内妻帯者は二名。
 軍を無茶に言うが悪者扱いはなんとも情けない。赤紙一枚で行ったのに。志願でもないのに批判されて。南京虐殺などあるわけない。松井岩根大将の南京入城式では、部隊を代表して参列させていただいたが、現地にいたものとして、何が、誰がこんなウソをつくったのかわからない。参加した全員がそういっていますよ。 以上。