草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

南京の事実はこうだった

2008-03-12 08:54:49 | Weblog
南京入城の体験者の声を聞こう

岡崎在住の大田正雄さんはそれはお元気。南京戦の数少ない体験者である。お話を伺った。これでも歴史を偽造する勢力は反論してほしいものだ
 南京入場は通常戦闘行為である     
 虐殺話は根も葉もない作り話である
   誰がそんなウソを言い出したのか
大田正雄 岡崎郷友会長(九十五歳)
  歴史の証言 南京戦の真実を語る 

 大田正雄氏は岡崎郷友会を率いてみえ、さまざまに国のためにご活躍いただいている方です。岡崎市若松町にお住まい。
 南京入城時、第三軍三個中隊を指揮する片桐部隊(独立部隊)の第一中隊松田隊第一小隊第一分隊所属.伍長であった。昨今の南京虐殺の作り話に憤る体験者が真実をかたる。
 大田氏の軍歴は従軍三度。最初の入隊は昭和八年、一月二十日豊橋十八連隊。三月に満州ハルピンに派遣される。青年学校を出てみえるので一年六か月で除隊になるところ、除隊延期となり二年四ヶ月間勤務。十年十一月除隊、一月五日に岡崎に帰る。
 二度目の従軍は昭和十二年、八月十五日。名古屋の三師団に応召される。この時、南京の松井閣下入城式に参列。更に三度目が敗戦時。苦難の時を体験される。

先生のご結婚は昭和十二年ですか。
はい、結婚は同年二月二十八日。娘が六十九歳で先月二月に亡くなりましたが、誕生日は十二月十二日。今月一日に三十五日法要を行ないました。ちょうど南京攻略戦の最中に生まれたのです。子どもと会えずに死ぬのかなあと思っておりました。当時のことはだからよく覚えております。
上海戦は過酷な戦いだったと伺いますが
 はい。二度目の徴兵後、すぐに上海に派遣されました。この敵前上陸戦は大変な激戦でした。同郷の若者が相当数殺されました。掘った塹壕に死体が累々と積み上げられましたよ。上海戦では食糧の到着がない。間に合わないわけです。食料は、現地調達するしかなかった。いかんことだといっても食べなければ死ぬわけだから。村に行って魚を調達したり。しかし一人ではとても歩けない。必ず威嚇射撃をしていかねば。あの肉厚幅広の包丁はどこの家にもあるわけです。下手に入れば首を落とされる。いつ何時隠れた敵兵に襲われるか分からない。事実、食糧集めで味方が三名襲撃されて殺されもしました。

上海攻略の後はどんなでしたか。
 南京攻略へ進むことになりました。敵を追っかけてね。
 南京攻略は南京の南二十キロ地点鎮口(?)の寺にて準備、駐屯しましたね。ここで阿倍仲麻呂の「三笠の山にいでし月かも」の碑を見てびっくりしました。驚いたですね。こんなところに歴史が生きているのですから。
いよいよ南京戦ですね
 南京城には二十ほどの門がある。さすが敵の首都だけにものすごい激戦となったですよ。。シナ兵は七つの師団からなる南京保衛軍を城外に配置し要塞を作って防御する。
 わが軍は十日十二時の和平開城勧告期限を過ぎても降参しないシナ兵に対して総攻撃を開始。遂に十二日、東京のわきざか部隊が西門を破って初の入場したといいます。一番乗りを競っていましたから。われらは武定(ぶてい)門を破る。ここも頑丈な鉄扉で手榴弾ではびくともしない。ここは橋を落とされ、道がない。堀を船で渡っての攻撃。砲弾を城門めがけて打ち続ける。敵は城壁の上から必死に打ち続ける。めったやたらにうちつづければそのうち命中しますよ。遂に門を破り入城した。変なもので、部隊は自分らが破った門からしか出入りできない。他の部隊がやぶった門からは入れないですよ。不思議なもので。
 南京城では中山門が一番大きい。敵兵は城に集結し、砲撃をしかける。迫撃砲に対してこちらも砲撃。入城しても敵兵は白旗を掲げることなく着替えて市民にまぎれて銃撃。わが軍も応酬。便衣兵なのか市民なのか判別のゆとりなく反撃するしかない。撃ってくるのですから。遂に南京城陥落。
 わしらの上官は十八連隊藤田大佐ですが、総司令官は松井大将です。
 十二月十三日。松井石根大将をお迎えして入城式がなされました。大将は部下を引き連れて中山門から入場された。
城内の様子はどうでしたか
 城内には、激戦のため戦死者は数多くいましたよ。自由に見て回るなんてできないから詳しくはわからないが。しかし、入城してからは敵部隊はほとんど揚子江川に敗走し、反撃はほとんどなかったよ。揚子江に逃げた敵兵は船の沈没で相当の被害が出たでしょう。何しろ矢作川の三倍以上の広さで水かさも深くながれも急。とても泳げはしない。追撃もできない。
焼き尽くすとか中国は日本の残虐さを言いますが
 おとしてからは、火事など見たことはない。燃やす必要はないでしょう。時折銃声はしましたが、家々に入り敗残兵を調べるには威嚇射撃しないと危険です。いつ隠れた敵兵に襲われるか知れませんから。またやっているなという感じでした。
 およそ一週間ほど滞在して、また駐屯地の応山に戻ったのです。作戦を立てて進軍作戦が命令されるまで待機となる。
その後はどんな方面に
 ほぼ一週間ほどで、再度進軍。大別山を越え、こし、杭州、羅山、新陽そして雲夢まで行きました。南京攻略の後も武関三鎮攻め、長沙作戦へと向かったのでした。しかし、途中で雲夢まで行った時、陥落の報を受け、南京南の応山の駐屯地に下がった。
 この間一ヵ月ほど。更に作戦体制をととのえ、進軍。舟(はしけ)で機雷を避けながら進撃。しかし補給が続かず、中止。
 他の部隊は重慶まで行ったが片桐部隊は重慶の手前にて後退し、わたしは応山にて召集解除となったのです。
その後終戦まではどうでしたか
 三度目の動員は十八年。名古屋二部隊。ラバウル要員であったが待てども船が確保できず。名古屋清水口の第一中に駐屯していました。
 瀬戸線沿線の補強業務。鉄橋の補強などをして出港を待ったのです。
 五月十五日が運命の日。八百機ほどの戦闘機が来る。当時下士官、分隊長でした。展望台にて監視命令を受け業務に就いていたら。十時ごろ空襲警報。五から八機の機影を校舎の上にて発見しました。敵は十二時から二時までものすごい勢いで空爆してきた。
 市民を必死に防空壕に避難させる。二千人ほどの市民を避難させる。昼間なのに黒い煙で空は真っ暗。燃え盛る火により地上は真っ赤となったのです。校舎にも二十発以上の焼夷弾が落ち、西側の炊事場に火の手が上がる。兵を使い、必死に消火する。消さなければ全滅。焼け野原となったでしょう。住むところがなくなる。
 三時頃終結し見れば十五個あったトイレは影も形もない。校舎は天井が落ちて、中の武器もうずまっていた。翌日、毎朝点呼をとる際に必ず大きく見えた名古屋城がない。これにはびっくりした。
 浜松も艦砲射撃を受けた。いよいよ敵上陸、本土決戦は近いと部隊は駿河へ向かうことに。
 三個中隊およそ四百名で徒歩にて移動.岡崎山中小にて宿泊。豊橋高師小学に。二十年七月七日だったか空襲警報が発令。南西からB二九が八機編隊三隊になってくる。仰角三十五度のところから爆弾投下すると、ここに落ちる。頭の上からではないですよ。校庭にいた部隊は動けば標的にされる。すぐ気付かれるから。みな仰向けになって寝ていた。良かった、通り過ぎた、とほっとした途端、豊川工廠が炎に包まれ黒煙が上がった。「やりやがったな。」被害が心配であったが、なんともしがたかった。
 二川から列車で駿河藤枝へ。大井川小で本土決戦に備え、駐屯陣地構築をしていました。大井町には特攻基地があり、飛行場では海軍の飛行訓練がなされていたですね。
 終戦を迎え、残務処理をして九月七日帰省しました。
 今次の戦争でこの小さなから十五・六人が出征し、七・八人が戦死。内妻帯者は二名でしたね。。
 軍を無茶に言うが、悪者扱いはなんとも情けない。赤紙一枚で行ったのに。
 志願でもないのに批判されて。
 南京虐殺などあるわけない。松井岩根大将の南京入城式では、部隊を代表して参列させていただいたが、現地にいたものとして、何が、誰がこんなウソをつくったのかわからない。参加した全員がそういっていますよ。 
どうもありがとうございました。是非南京の真実を語り続けてください。
               以上。

中共の野望を峻拒せよ 五輪の政治利用にくみするなかれ

2008-03-12 00:23:44 | Weblog
 
 終戦時、幾多の方が敗れし国と命をともにされたであろう。思えば誠に尊く哀しきことであります。影山正治塾長の下、維新に邁進された大東塾は永遠の維新の継承者としてご活躍してみえます。

 周知のごとく大東塾影山庄平翁始め十四烈士は終戦時、代々木にて自決なされた。その熱き祈りと涙の気高さ壮烈さは、道を学ぶものにとって常に魂魄の深きところにとどまりおり、檄を以って叱咤する。汝はなにを以って国に報いんとするのかと。
 豊橋時習館に学び偉大な国学者作家維新者であった影山正治塾長は元号法制化を熱祷奉ると自決され、その後大東塾代表としてご活躍された鈴木正男代表も靖国を守れと「不二」巻頭言に載せられ「神のまにまに」自決なされた。何と申し訳なきことか。
 今日その畏敬申し上げる大東塾不二歌道会磯貝さんと会合で同席させていただいた。陛下のご即位二十年の奉祝運動をいかに繰り広げるかについての会である。

 その席で陛下の北京五輪ご出席を画策するやからに対して強く抗議してみえた。さすが全身全霊を以って御皇室に仕えようとされる道の人である。
 私も今日のために必死で西三河通信23号を認めて参加していたためその主張記事を皆さんにご紹介し、北京五輪の非を語らせていただいた。

 時の政府は陛下の政治利用を常にはからんとする。非常に危険である。陛下御一人のお陰で、軍すら守れなかったこの国体を、文化をわれらはいただきその栄誉に浴させていただいている。陛下に危険な道をおふみいただくなどもってのほか。

ゆめゆめ中国のトリックに引っかかってはならない。心していきたいものである。