草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

四月二十九日の奉祝活動を企画しよう

2008-03-10 23:37:43 | Weblog
昭和の日制定の意義を踏まえ、報恩感謝の思いを

 国民の祈りむなしく、昭和天皇が崩御された直後から国民の間で四月二十九日をどのような祝日として残すかが議論された。官房長官の私的諮問機関「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」においても、名称案をして「昭和の日」が挙がっていた。
 国会においては、「みどりの日」制定を審議した平成元年2月の参議院内閣委員会で、柳澤錬造議員が質問をして以来、六年八月に西村眞悟衆議院議員、八年一月に村上正邦参議院議員、十年三月に板垣正参議院議員が、其々「昭和の日」に関する質問をしている。
 民間においても、平成五年より「昭和の日」を求める国民団体が草の根的に運動を展開してきた。この様な動きを受けて、平成十年に「昭和の日」推進議員連盟が設立され、遂に昨年、みどりの日を改め「昭和の日」として祝日になった。みどりの日は五月四日とされた。建国記念日復活、元号法制化、国旗国歌法制定 そして教育基本法改正と続く愛国者グループの法的成果であった。
大東亜戦争や戦後復興など様々な出来事があった「昭和」。この様な苦難や繁栄を経験した「昭和」への思いは、我が国の将来を考える上で重要なものであり、祝日として後世へ永く残さなければならない。
 「昭和の日」を制定したことの意義は極めて大きい。明治大帝の明治神宮建立の如く昭和神宮建立を熱心に進めてくださる団体もあり、昭和大帝への是非大きな恩返しをしたいものである。
 昭和の時代、その初期にわが国は国際社会のリーダーの地位まで上り詰めた。経済的にも世界ナンバー2の地位を占めることになり国際連盟時代の常任理事国としても名誉ある地位を占めるに至った。しかし、当時は全世界が欧米列強の支配下にあった。アジア・アフリカは列強の巨大な軍事力に支配されていた。被支配民族にとっては、とても彼らに勝利できるとは思いもつかなかったのだ。その中で、日本は人種平等を掲げ、果敢にその責務を果たそうとした。国際連盟構築の提案国、アメリカさえ、日本の主張に脅威を感じ、連盟参加を否決したのである。
 哀しくも昭和の十六年には遂に覇権国家と鉾を交えることになった。その悲劇は歴史の宿命とはいえ、わが国は悲惨な結果に呻吟せざるを得なかった。経済的にも国力のすべてを使い果たし、大陸にすべての財産を放擲せしめられた。その苦難の歴史は歴史に類を見ない。人類初の原子爆弾の被害、占領下の国法明治憲法の改正。歴史改竄と原罪の刷り込み。
 しかし昭和大帝は死中に活路を見出すべく、祭祀を絶やされることなくお勤めになり、国政上も御退位されることなく、あえて戦前と戦後とをお一人でおつなぎになられたのである。軍すら守りえなかったこの国。それをお一人でお守りくださったのである。国破れるも、悠久の日本民族の叡智と矜持とをわするなかれと。
 遂にわが国は敗戦の汚辱の中から不死鳥の如く蘇った。人はこれを「奇跡の復興」と呼んだ。国民の間に昭和天皇をお慕い申し上げ、との気持ちが髣髴と蘇ったのである。われらは永続する日本の歴史の中においてこの日をけっして忘れてはならない。日本人の復活の象徴たる日なのである。
 万感の思いを以て「昭和の日」を祝っていきたい。

教育に週休二日はいらない。

2008-03-10 14:24:00 | Weblog
   土曜授業を復活せよ
 京都市では来年度どからいよいよ土曜授業を復活することになった.正規な授業としてではなく土曜補習という形で.
とりあえず市内三十校でモデル実施し、最終的に対象を全市二百五十四小中学校に拡大する計画である。土曜学習は全国各地で取り組みが始まっているが、教育委員会が本格的に取り組むのは全国初という。
 土曜日の学習は明治以降のわが国の教育水準を高めた根幹であった。大学生が分数計算すらできずにいる。専門的分野で活躍するために基礎基本をおろそかにしてよいはずはない。本来備わっているはずの叡智も努力の大切さを知らずして発揮できるはずもない。
 七五三なる言葉も言い古された(小学生七割中学生五割高校三割の授業理解度)が、いまは五三二ほどの理解度では有るまいか。個性化、少人数化との美名の中で、実際、基本的な計算力や理解力が育てられていないのが現状である。
 更にその基礎たる学習姿勢など、目を覆うばかりになっている。茶髪やピアスなど、考えられないほどの学校現場である。日本の教育の迷走は驚くばかりである

 ちなみに昨年の愛知県学力テスト調査結果は小六は全国二十二位、中学生は九位。決して芳しき成果ではない。岐阜13位5位静岡14位7位長野16位15位に比べ、見劣りしてならない。教育で名を売る愛知にしてこの結果である。
 岡崎市に市の公開条例に基づき中学別のデータを求めたが、発表せずとのこと。これ以上公表を求めれば裁判での決着しかないとのこと。争いは本意ではないのであきらめましたが、けっして安穏とできるものではあるまい。

 対処するに果たして現状でよいのであろうか。
 かつては土曜は半日授業。いつしか二週に一度の出校となり、今では完全休み。これに学校行事が絡んできて、授業は年間365日の中で十日程度しかない。学力向上は無理な話である。それ以上に金曜夜から土日にかけてのプチ家出問題やなど、生活指導に翻弄されている現場教師の疲弊はとどまる所を知らない。教育効果から言っても、継続した学習が中断してしまうわけで、非効率極まりない現状なのである。

 更に問題がある。偏差値教育批判の中で偏差値を敵視した結果、本人の学力現状が本人に伝わらない。客観的なデータを知りえないのである。教師が励みにさせようとも相対評価が出せないから現状に甘んじてしまう。校内順位が市レベル、県レべルでどのくらいなのか知りえないのである。当然教師の教育力は問われなくなる。授業がなされなくても済まされてしまう。
 密室の中での評価のみで、生徒は井の中の蛙の状態となっており、父兄もそのデータを知りえないため指導ができなくなってしまっている。個人を大切になどの言葉が美名に過ぎなくなっているのである。
 
 問題山積の現状を何とかしようとする教師がいても、いつしか現状に流されてしまう。刺激にかけているのである。ならばルネッサンスを学校外部から働きかけるしかない。子らは地域の宝であるから。
 
 土曜授業の復活は子どもを大切にする以上、必須事項であります。
            

春季皇霊祭は先祖への感謝の日であります

2008-03-10 08:42:43 | Weblog
春分の日を国旗を掲げてお祝いしましょう
春季皇霊祭と皇室の祭祀
 三月二十日は国民の祝日「春分の日」です。この日が昼と夜の長さが等しいと習うのは中三理科。しかしなぜこの日が祝日かと問えば、答えが返ってこない。まさか昼の長さが十二時間だからお祝いするはずもなかろうに。
「春分の日」は皇祖皇宗を祀る「春季皇霊祭」の日です。皇祖とは天照大神から初代の神武天皇までの皇室の祖先で、 皇宗とは第二代天皇以降の歴代の天皇のことです。
 明治以降、この春分には「春季皇霊祭」が行われ、いまも大切にお祭りされている。つまり皇室の「お彼岸」であるのです。
 春分の日、三月二十日(年により前後あり)は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ということで、祝日として戦後も大切にされているのです。
 宮中で先祖のお祭りを大切にされていたこの習慣に合わせ、民間にも広まった。
 祖霊崇拝の思想は本来仏教にはない。仏教のお彼岸は、日本古来の風習が仏教と習合したものといえましょう。
 日本の仏教では、平安時代のころから春秋に彼岸会(ひがんえ)が催され、悟りの彼岸へ至るための法要が営まれていました。また浄土思想の広がりとともに、彼岸の中日(ちゅうにち)の夕刻、落日に向かって念仏を唱えれば、西方の極楽浄土に往生出来ると信じられていました。これが宮中行事化していったのです。
 明治以来宮中で行われる春秋二度の皇霊祭は、御皇室の祭祀にとどまらず、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という日本本来の自然観に立った全国民のものとなっているといえるでしょう。
 宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ、皇霊殿には、歴代天皇・皇族方の御霊がお祀りされています。
 明治以前は、仏式により寺院や宮中のお黒戸に霊碑を奉祀しておりましたが、明治天皇は、これを神式に改められ、皇霊殿において春秋二度の皇霊祭を行うことを制定されました。明治十一年に明治天皇がこの日を皇霊祭の祭日に定められたことにより休日となり、戦争の終わりまで続き、今日では名を改め春分の日とされたものです。

 他にも 以下のように、皇室の皇祖皇宗を祀る祭祀は年に七回行われています。
一月七日    昭和天皇祭 (大祭)
         昭和天皇崩御日に行われます
一月三十日   孝明天皇例祭(小祭)
        孝明天皇崩御相当日に行われます
三月二十一日  春季皇霊祭 (大祭)
        皇室の御祖先祭神殿では「春季神
        殿祭」が行われます
四月三日    神武天皇祭 (大祭)
        神武天皇崩御相当日に行われます
七月三十日   明治天皇例祭(小祭)
         明治天皇崩御日に行われます
九月二十三日  秋季皇霊祭 (大祭)
        皇室の御祖先祭神殿では「秋季神  
       殿祭」が行われます
十二月二十五日 大正天皇祭 (小祭)
         大正天皇崩御日に行われます