草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

硫黄島のこと

2008-03-20 19:26:00 | Weblog
 歴史に学ぶ      硫黄島の自決
日本会議ではこのなつ陛下の慰霊のたびについての映画作成を準備してくれている。硫黄島での記録も載るという。是非この話も乗せてもらいたい。よって記載しておく。                 
 硫黄島での体験記を紹介。江田島の館長岡本氏の文であります。

 江田島記念館館長 岡村氏講演記録(口述)より

 硫黄島が返還されてすぐのこと。自衛隊司令に「島の北の端にアメリカの人が二十人ばかり保安庁の仕事をしている。挨拶に行ってくれ」と言われ、行ったときのこと。日本式の小さな墓が見える。よく見たら森田大尉の墓と書いてあるので向こうの隊長に「あれは何ですか」と聞いたら隊長が次のように説明してくれた。
 
 陥落した日に森田海軍大尉があの場所で大怪我をして、人事不省なのに無線機を左手に抱いてモールスを打っておる。意識は無いのに手だけは正確に日本内地に向かって硫黄島の最後の模様を打っているようなので、すぐアメリカ兵を一個小隊集めて銃に剣をつけて、捧げ銃で手が止まるまでじっとそれを見守った。その事を教訓にするために墓を立てたんだと得意満足で話をしておりました。

 部屋に行ってコーヒーを飲みながらふと左手を見たら明るい廊下の向こうで若いアメリカの青年が私の顔を見て、手招きして呼んでいる。とんでいったら「君は今日日本から来たのか」「そうだよ」「日本に東京大学はあるか」「ある」「どんな大学」「ハイレベルの大学だ」「そうだろうね」「どうしてだ」と言ったら「私の父はこの硫黄島作戦の最高司令官でした。硫黄島で戦う日本の将兵を見て、終戦後にアメリカに帰って十数年間、死ぬまで、アメリカの青年よ立ち上がれ。アジアにはすばらしい国があるぞ。それは日本と言う国だ。そこにはお前たちが想像もできない立派な青年たちがおる。ああいう青年がおるのなら、ほっておいてもやがて日本は世界の名手になるだろう。::と。ぼくはその東京大学が見たい。今度日本に言ったら、案内してくれ。」といったけれど私は返事をしなかった。今、東京大学構内を歩いてもそういう雰囲気は見られないのじゃないかと思ったからです。

 どういうことかといいますと、硫黄島の南の擂鉢山の中腹に穴があり、陥落した日にそこから陸軍少佐が出てきた。木の枝に白いハンカチを巻いて右足はもう飛んでない。左足で這ってきた。真っ青な顔をしている。「司令官はいないか。司令官はいないか。「何だ」と言ったら、「あの穴に私の部下がまだ三十人ばかり生きている。その中にすばらしい青年が一人いる。日本の東京大学の学生だが、、あの男を生かしておくと日本だけじゃない。地球を救うぞ。世界中探してもあんな立派な青年はいないと思う、どうかわしの首を切って代わって彼を助けてくれ。」と言って日本式の挨拶をしたから、司令官が「心配するな。君も助けるが彼も助ける。」と言ったら「サンキュー。」と息が絶えた。

 司令官が穴のところへ行って、「おい、いるか、浅田中尉はいるか、今君の隊長が君を救うために死んでいかれた。出て来い。もう戦争は終わったんだ。内地では君のお父さん、お母さんが待っているぞ。捕虜にしないから出て来い。」と言ったら、中から「黙れ、、自分のことは自分で決めるんだ。お前たちの指示を受けない。」
「煙草はあるか」「煙草なんてあるか」
「よし、やるぞ」と煙草を投げ込むと中からさーと煙が出てきて「サンキュー。口に二本も三本もくわえとる。もう何ヶ月も煙草なんて呑んだことは無いんだ。」

「菓子はあるか」「菓子なんかない」「よーし」とチョコレートを投げ込むと「ありがとう」と中で大騒ぎ。「食料あるか」「ない」「よーし」と缶詰を投げ込むと「ありがとう」と丁寧に挨拶をする。缶詰なんて食べたことがない。

それが二月のことであります。それから毎日のように行って勧告するが出てこない。三月四月五月まで頑張って、五月の朝、暗いうちにドーンとその穴で、大きい音がしたので、とんでいってみたら手榴弾で自決して死んでいた。その入り口にその東大の学生が日本語と英語と両方で、遺書を書いて置いてあったそうです。

 今その遺書は防衛庁にあります。その本文を読みます。

 閣下の私たちに対するご親切の行為、誠に感謝感激に絶えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや、水も無く食も無ければ十三日午前四時を期して全員自決して、天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を置きます。
 昭和二十年五月十三日  日本陸軍中尉浅田信二
米軍司令官 スプルアンヌ大将殿   (後略)終

いかに立派に戦い、武士として死んで行かれたか。これがわが日本の軍であり、われらの先輩であったのだ。

沖縄然り、南京然り。見事なる戦いであったのである。けしてマスコミの意図にのるなかれ。

とまどひ生きむ 殉国七士の墓建立の言われ

2008-03-20 12:13:47 | Weblog
三ヶ根山に何があるのですか。そんな質問を受けることが多くなった。ここにその碑文の紹介をしておきたい。詳しくはホームページ「三ヶ根通信」ご覧ください。
 私は、子どもたちにこの7名を「とまどひ生きむ」と紹介しております。七士の頭文字「と」東條「ま」松井「ど」土肥原「ひ」広田「い」板垣「き」木村「む」武藤の7文字でしらしめ、且つ日本人の歴史観がいまだに戸惑っている事をあらわしてのことです。お読みいただいた方に広めていただき、七士の真実を顕彰する一助にしていただきたく思います。以下墓の入り口に彫ってある碑文を掲載しておきます。
三ヶ根の碑文紹介(1)  殉国七士廟由来

東條 英機(元陸軍大将)
松井 岩根(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
板垣征四郎(元陸軍大将)
武藤  章(元陸軍中将)
木村平太郎(元陸軍大将)
広田 弘毅(元総理大臣)

 昭和二十年八月十五日終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を負い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの十一カ国は極東軍事裁判を開き、事後法に依り審判と評決によって右七名に対し絞首刑を決定し、昭和二十三年十二月二十三日未明前記A級戦犯七名の絞首刑が執行されたのである。当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯七名の遺骨を収得しようと決心したのは、絞首刑の判決が言い渡された昭和二十三年十月一二日午後のことであった。なぜならば各担当弁護士がいたいの家族引渡しの件でマックアーサー司令部を訪ねたが了解を得ることができなかったからである。このままでは遺体も遺骨も家族には引き渡されず極秘のうちに処分される事明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。又日本の将来の平和追及のためにも日本国の犠牲者犠牲者として処刑される七名の遺骨は残さなければならない。そこで遺骨だけでも家族になんとか渡したい一念により大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当たっては綿密な計画を要したが、それには先ず計画の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとのことで七人の刑の執行日はクリスマス前日十二月二十三日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察することができた。横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通じ、久保山火葬場長飛田美善市の協力を得ることにも成功した。しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り七名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の目を盗んで奪取し、一応計画は成功したかにおもわれたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審におもい、感づいた米軍人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので米軍も面倒と思ったのか奪取七名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。この時米軍が持ち去った七名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるがどの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。そこで翌二十四日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になることを知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒れる夜半、黒装束に身をかため、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。諸甥は暗くても、灯火と物音は禁物である。骨捨場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入り口も無いので思索の結果、火かき棒の先に空き缶を結びつけ苦心して遺骨を掬い取ることに成功し、ふつうの骨壷にほぼ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。遺棄された真新しい真っ白の遺骨は紛れもなくこの世に唯一の七名の遺骨でありこれを奪取することに成功したことは三文時弁護士にとっては一生を通じ命を賭した熱き長き一日の出来事であった。
 こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の合意の下に財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和三十五年八月十六日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
 以来毎年四月二十九日の天皇誕生日のよき日に例大祭を行うとともに時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客が花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々御参拝に参るようになり世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。
       弁護士   三文字正平 書
 昭和五十九年 十月三十一日  
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