草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

昭和天皇のお墓参り 若狭論文周辺

2008-03-18 23:49:38 | Weblog

 友が東京より来てくれた。忙しいから良いというのにどうしてもということで時間を設定してあう。活動の後輩を連れてきた。 
 ご結婚されるという。喜ばしきことである。三ヶ根を知らないようだったので車で三ヶ根山に案内した。是非知っていてほしいところであるから。
ここには殉国七士の廟がある。

 私が三ヶ根山を訪れたのは学生時代。すでに三十五年前である。車でたまたま通りかかったのがここ。以来、折に触れ参拝し、清掃奉仕にいそしんだ。友と毎月、日曜日毎に清掃奉仕をしたが、その一日がここであった。

 三河人でもほとんどの人がここを知らない。

 かつて私は中学社会科教師をしていたが歴史の授業で東條を教えた。あの時代、東條なくして国の存在はなかったと語っていた。当時のことだからA級戦犯としてさげすまれた東條を評価することは教師として危険なことであった。保身という意味では。しかし生徒には、「いまは日本中のどの社会科教師も語らぬが、必ず正当に評価される時が来る」といった。

 教室には教育勅語を掲げた。当然の如く組合の批判があり、校長も苦労されたようだったが。すでになくなられていて申し訳なきことだと思うが。
 しかし、当時、三十年も前の自分は、こんなに早く東條評価が起こるとは内心思っていなかった。中国の授業も人民公社の素晴らしさを教えねばならなかった。嘘だとわかっていたので、試験はこの通りに出すぞ。しかしほんとはこうだと、当時起こりつつあった自由市場の話をしっかりした。

 孤立無援の学生時代や教師時代。しかしその驚くべき廟がここ三ヶ根に堂々と立っている.地域の人々により、公に守られている。自分にとってここの存在は大きな支えであったのだ。母校、名古屋大学に、汪兆銘の梅の木が植わっているのを書物で読んで感動し、勇気付けられていたのと同様に。

 いつか必ずその日が来ると信じていた。
 昭和十六年、アメリカは重慶の蒋介石に莫大な借款供与を続ける一方、日本への経済圧迫を強め、遂に石油禁輸に踏み切った。ビルマでは義勇軍を装った米空軍部隊「フライング・タイガース」が日本軍と戦っていた。すでに日米は戦争状態に等しかった。近衛文麿内閣は内閣を投げ出し、陸相の椅子を去る東條も使命終了を確信。後継首相には東久邇宮を強く押した。この難局打開には皇族しかないと。
 しかし大命は東條に下った。そしてそれまでの御前会議の決定は白紙還元し、戦争回避のため、国策を再検討せよと言うのが天皇陛下のご意思であった。

 確かにこの時期、統帥部の反発を抑えながら戦争回避工作が出来るのは東條を措いていなかったのである。しかし、アメリカ側に妥協する意思が皆無である以上、どんな努力も実を結ぶことはなかった。極限まで譲歩した甲乙案に対するアメリカの返答は全面降伏を迫るに等しいハルノートであった。
 後にパール判事が「ハルノートのようなものを受け取れば、モナコやルクセンブルクのような国でもアメリカに対し武力を持って立ち上がったであろう」と断じた程の非道なる挑戦状。

 東條に全幅の信頼を置かれた陛下が、東條ほか七士を疎んじるはずがない。富田メモの発表の虚偽は明らか。事実、ここ三ヶ根グリーンホテルにはるばる陛下がお止まりくださった事実があるではないか。

 しかし陛下の三ヶ根御行幸はまだ公にできぬ。歯軋りするものがあった。
 左翼やマスコミの批判に御皇室がさらされることになると。

 しかし事実は知らされねばならない。
 若狭先生も「発表してよろしいか」と問われた。関係者の言質はとってある。
もういいでしょうやりましょう。国民が冷静な歴史観を取り戻したいま、是非お書きください。

「陛下のお墓参り」若狭先生の命名である。

 この地を訪れていただける方が一人でも多くなる事を祈るばかりである。祭礼は四月二十九日。昭和の日である。