草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

明日への遺言大ヒットに神意あり

2008-03-15 23:23:49 | Weblog
歴史の最大の危機をむかえ、進退窮まるとき、その中で最善の方法を選択すべき指揮官はいかなる心情であろうか。

 忠臣蔵の大石蔵之助は、忠義の証として、正義の実践者として義挙に走った。四十七士とともに。決断を強要したのではない。最後まで義のために命をかける決意と理性を持つもののみを選び同道の友として。しかし、家族や人生を他に選びとった者を了とし、吉良上野介の首をあげることを目指すもののみにその願いを認め、同行した。褒め称える町人の喝采の中、従容と死を受け入れて逝った。
 他に求むるものなく、義挙をあげつろうでもなく、ひたすら、忠義の道を生きたのである。
 三島由紀夫氏は森田必勝氏のみを同志のその代表として義挙に立った。時の為政者は「狂気の沙汰」と評したが、国民はその行為を通して日本を思った。
  
 東条英機以下七名の殉国七士は東京裁判での主張を残して逝った。個の助命などあろうはずもない。
 愛すべき祖国の名誉と欧米の理不尽なるアジア侵略の行為を断罪して。しかし米国が勝利の熱狂から冷め、屈辱の占領を終えた日本が自らを自らの言葉で振り返り始めた時、その裁判不当の主張は広く深く国民の知るところとなった。
 ついにいま、東京裁判を正当と見る学者は皆無に等しくなった。マスコミと戦後利得政党以外に極東裁判を容認する勢力は完全に駆逐された。

 「特攻」を、万策尽き果てた後、容認した大西滝次郎。海軍内で、「愚将」として、一言の弁明無く「暴挙」の責任を取って、終戦の翌日 自決。

 「前途有為な青年を大勢死なせてしまった。おれのようなやつは無間地獄に堕ちるべきだが、地獄のほうで、入れてはくれんだろうな」と、友に語った。
 遺書は二通。妻淑恵あてに一通、安逸を貪ることなく世のため人の為に尽くし天寿を全くせよ。と記す。末尾に、之でよし百万年の仮寝かな とあった。

 さらにもう一通 「特攻の英霊に日す」
「特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れ共その信念は遂に達成し得ざるに至れり。
 吾死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。
 次に一般青壮年に告ぐ。
 我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するの誠ともならば幸なり、隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は国の寶なり。平時に処し、猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」

 ちなみに大東亜戦争における「特攻隊」の参加人数は二千五百三十名、飛行機は二千三百六十七機という。訓練不足の飛行士を犬死させず、名誉の死を与えての出撃命令であった。
 敗戦の後は、死を求むるなかれ、生きて国に尽くせと語る。万死にあたると一人、旅立った。大西滝次郎、行年五十五歳。

 わが愛知に岡田資大人の命あり。妻に最後の「法戦」の姿をしめして逝く。婦人は大府市にて亡くなられたと聞く。

 今回の映画は、他の指揮官に劣ることなき、凛とした武人のいのちが見事に表されている。日本人の琴線に触れて大覚醒を生み出しているという。さもありなむ。

いかに骨抜きにされようと、たとえ表層意識において対中・米屈従の理を持ち込まれようと、日本人のコアパーソナリテイは不動である。六十年のイデオロギー操作に揺るぐものではない。
「明日への遺言」は花も実もあるやまとだましい、ますらをぶりを、国つ民に示して余りあるものである。

 ますらをの哀しきいのち積み重ね、積み重ねつつ守る大和島根を この道統につらなり、国民覚醒の荒御魂として陛下二十年の御世に偉大なる遺言をあらわしてくれた岡田大人の命に、神意を思う。

遺言を魂魄に刻み、破邪顕正の道を、我もおこたらず生きたいとねごう。


昭和天皇の墓参り 若狭和朋様の寄稿

2008-03-15 00:35:32 | Weblog
若狭先生は岐阜県関市御在住。三ヶ根の支援者です。原稿をいただきましたので掲載させていただきます。
陛下の、七士に対するお気持ちが読み取れる秀作です。是非歴史の事実として記録しておきたい。

寄稿 殉国七士追悼式に参加して 元教師 若狭和朋氏
 
 十二月二十三日(天皇誕生日)に、門前に国旗を掲げながら今年は例年になく自分の感情の中に妙な澱(おり)のようなものを覚えた。国旗を掲げて東方に一礼し、その後は庭の南天の陰で東南の三河湾の方角に合掌した。ここまでは例年のことだ。
 三河湾を見晴らす三ヶ根山の山頂には「A級戦犯」として処刑された「殉国七士墓」が存在するのだが、今年は六十年忌なのだ。
 昭和二十三年のこの日の払暁に七人は処刑された。墓碑の裏面に土肥原賢二、松井石根、東條英機、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の署名が彫られている。肘を縛されての署名だったという。この順に処刑されていったのだ。記名して、東条英機に薦められ松井石根の音頭で天皇陛下万歳と三唱ののち、「お先に失礼します」と会釈して、順に処刑室に去っていったと記録は伝えている。悠然と死に就く七名はアメリカ兵にも「世話になります」と会釈したという。思わず敬礼を返す米兵もいたとも聞く。
 絞首刑の「判決」は十一月十二日であったが、弁護団はマッカーサー司令部は遺体は言うまでもなく遺骨も家族に渡さず極秘のうちに処分、投棄する方針であることを知った。処刑日は必死の探索の結果、アメリカ人某(職・氏名は判明している)の協力により皇太子(今上陛下)の誕生日に合わせた十二月二十三日であり、火葬場は横浜と知ることができた。「東京裁判」の開廷は昭和二十一年四月二十九日(昭和陛下の誕生日)であったから、処刑は皇太子の誕生日の引き出物というわけだ。
 火葬場が横浜市久保山火葬場と特定できた。
 当日の夜である。久保山にある興禅寺住職と火葬場長は協力して厳重な米軍の監視の眼を盗み、七名それぞれの遺骨の一部づつを奪回することに成功した。隠した場所に密かに焚いた線香が原因でことは露見して、遺骨は再び奪われてしまった。だが梱包して搬出寸前だったせいか、それぞれの奪われた遺骨は一つに混ぜ合わされて残骨捨て場に投棄されてしまったのであった。
 次の晩はクリスマス・イブである。
漆黒の闇のなかを、市川伊雄住職ほか二名(氏名は判明しているがここには書かずにおく)は苦心惨憺して投棄された遺骨の回収に成功した。まさに決死行であったのだ。
 遺骨の受難を避けるためには二十余年の歳月を要したと書かねばならないことを、私は心から哀しいと思う。
 東京の西方四〇〇キロ・三河湾国定公園三ヶ根山頂に埋葬され、有志の芳志により遺骨を埋葬し墓域が定礎され墓碑が建立された。
 昭和三十五年八月十六日、遺族と関係者・有志が参列して静かに墓前蔡が行なわれたのであった。墓碑には「殉国七士墓」とある。
 平成十九年十二月二十三日、皇居では奉祝に訪れた多数の国民が国旗を手にして万歳を唱えていた。まことに慶賀の至りと私もTVの前で正座していたものだ。平成も二十年を迎えるのかと、九十七歳の老母がぼそりと呟いた。彼女は明治、大正、昭和、平成と四代の陛下に仕えてきたと笑う。昭和十三年秋には南支那派遣軍に従軍し、広東第一陸軍病院の開設に従事して初代の総婦長を勤めている。七ヶ月の乳児(私の三兄)は乳母のお乳で育っている。「女性に召集はないだろう」と問う私に、陸軍病院に勤務した経験のある身で誘われて頼まれれば断れたものではないと「志願」の訳を言う。復員したら三歳になっていた乳児は母から逃げ回ったという。この母が言った。都内のどこかで営まれているはずの七士の六十年忌の慰霊式に触れて「マッカーサーはひどいことをした」と言った。まさに慰霊の封禁の仕組みである。
 「まあいいさ、明日は三ヶ根の墓に参るよ」と私は、この話を打ち切った。友人たちから案内を頼まれていたからでもある。
 翌朝、二人の友人と墓前の慰霊祭に参列した。和歌の朗唱や献花など簡素な六十年忌の慰霊祭は三十分くらいで終了した。山頂一体は多数の各種の慰霊碑などが建立されている。しかもいずれも整然と整備されているのには、いつもながら感動を覚える。慰霊祭の多くが戦友会のものだが、日本人の心の中に人倫の根本が生きているのに私は感動するのだ。生き残った俺たちの:という誠がこれらの慰霊祭には凝固している。そして九十七歳の母は「私が最後の一兵よ」と言う状況に私は脅えるのだ。
 近くのレストラン兼事務局(後述)でカレーライスをいただきながら、三十人の自己紹介「会」のようなひと時が流れた。参加された東條英機のお孫さんの東條由布子さんが理事長(後述)であることを知る。
 平成十九年はA級戦犯問題で騒がしかった。A級戦犯が靖国神社に合祀されたから昭和天皇は参拝を止められたとマスコミは報じたが、私は「富田メモ」は〝謀略文書〟だとある雑誌に書いた。その理由として記者会見の有無など縷々記載したが、その理由以外に「昭和天皇の墓参り」を知っていたからである。
 三ヶ根山の七士の墓の極く近く(700メートルくらい)の山腹に一軒のホテルがある。昭和五十四年五月二十六日、天皇皇后両陛下はこのホテルに宿泊された。翌日の植樹祭に御出席のためである。植樹祭の行なわれる場所は当時の愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)西山中地内の県有林(現・昭和の森)であった。開会は午前十時であった。三河の首邑は岡崎であり現地には最も近い。名古屋からも現地は近い。最も遠いのが三ヶ根のホテルである。にもかかわらず、このホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるという。
 当日の朝、お部屋で七士の墓の方角に対して両陛下は不動のままに佇立されていたという。御内意といい、御佇立といい、ともに責任のある地位にあった元政府高官の証言である。ホテルにその日の御様子を確かめても「私どものレベルでは:」と笑う。それはそうだ。「なぜおたくのホテルに:」と尋ねると、「JR系のホテルだからかと:」と困惑を隠さない。気の毒である。「両陛下にお泊りいただいたホテル」というのは本来なら金看板のはずだ。言葉の端々に「警戒」の気配りが見える。サヨクやその仲間のマスコミを警戒しているのだろうか。
 A級戦犯の靖国神社への合祀はこの「墓参り」の前年の昭和五十三年十月十七日である。ところで、昭和天皇の靖国神社行幸は戦後八回を数えるが、無原則に行幸はなされるものではない。以下の記述は所功著『靖国神社の祈り遥かに』(神社新報社203頁)と上杉千年著『ユダヤ難民を助けた日本と日本人』(同社86頁)に依拠している。詳しくは両書を参照されたい。
 三木首相が八月十五日の参拝を「首相としてではなく渋谷区南平台の一住民三木武夫として参拝します」と答えて以来、公人私人などという不毛な議論がマスコミの世界を支配するようになった。首相の行為を公人と私人に分けて、なにごとかの批判を逃げようとする姑息な姿勢は国家理性の中枢から基本的な心棒を抜く行為となるのである。国家のために生命を捧げた国民に追悼の誠を捧げるべき行為を私人としての行為と言い逃げ下首相の言は歴史的な妄言として記憶されるべきである。ひとは「首相として」饂飩(うどん)を食べはしない。なら私人三木首相の靖国参拝は饂飩屋の暖簾をくぐるのと同じ行為というわけだ。
 終戦四十年の昭和六十年八月十五日、中曽根首相は「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と言明し、公式参拝のような声明を出した。
 ところが中国外務省が「A級戦犯も祭る靖国神社への首相参拝はわが国人民の感情を傷つけた」として激しく抗議してきた。
 これに屈して、中曽根首相は春秋の例大祭も八月十五日も取り止めてしまった。私は中曽根首相が自ら中国首脳の名をあげて「盟友支援のために参拝を中止した」という意味の演説するのを聞き、耳を疑ったものだ。(中国首脳の名も首相演説も周知の通りだ)
 こうしたなかで終戦四十年の昭和六十年の秋の例大祭への靖国行幸は客観的に不可能になったのである。
 これを「A級戦犯が合祀されているからそれを忌避されて靖国行幸がない」と報道するのは世を惑わす行為と言うべきではなかろうか。例え話で恐縮だが、航空機の飛行で尤も大切なのは姿勢の保持であろう。エンジンその他がいかに快調でも、離着陸でも水平飛行でも姿勢の保持を誤れば大惨事にいたる。
 日本に一番欠けているのがこの姿勢の保持だと私は思い続けている。すべての戦没者への鎮魂の誠の弔意、日本に殉じて散華した魂への惜しみなき敬意と賞賛、そしてかくあらねばという責任感こそが日本人の姿勢の骨格だと私は思う。
 敗戦の将として理不尽にも処刑された日本の将に唾をかけ赤い口を開けて罵る者は、国家の歴史のなかでも最も国民の道徳性・倫理性の開示された戦争というものを語る資格などはありはしない。
敗戦にともない日本を逃れて亡命した日本の指導者の名を捜してみよう。誰もいはしない。外国人は日本天皇はどこに亡命するのかと真剣に観測したのである。第一次大戦の敗戦とともにカイザルは亡命した。ナチスの幹部の多くが南米などに逃げた。
「A級戦犯」なるものをどう見るかという視点は日本人の姿勢を見る観点でもあると私は確信している。私事を書くことをお許し願いたい。私の高祖父は佐幕の責任を負い、次席家老として切腹して果てた。
 「家老が馬鹿だったから」として藩は許された。墓に参るとどこの誰だか知れないが花が手向けてある。私たち兄弟はみな落涙する。身内を調べても心当たりはないという。従容として死に就いた馬鹿家老でも弔意を表して下さるひとがいるということは、私たち家族には何か倫理的な緊張感を与えるものだ。
 三ヶ根山の殉国七士の墓は日本人の倫理観の根幹のありようを問いかけているような気がしてならない。
三ヶ根や 植樹もせむと 墓参り  合掌

 若狭先生は高校教師として三十余年ご勤務され更に大学・大学院で教鞭をこられてみえたかたです。御著書に『日本人が知ってはならない歴史』更に続編など。講演などを通じ啓蒙活動にご活躍中です。