草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

南京虐殺を信じようとする日本人いるんだ。

2008-03-04 22:45:58 | Weblog
質問状
三河実行委員会 実行委員 天野義裕殿

「南京虐殺事件」を、あったことを前提にする演劇会を開催する貴殿に対し、以下の質問をいたします。
なぜに蒋介石、毛沢東は生前一度も南京事件に触れなかったのか
 南京入場に際して中国政府は三十万以上の虐殺があったと主張しておりますが、当時の安全区において確保されていたのは二十万人。後には二十五万人まで増えてきているとされ、また安全区国際委員会のラーべ委員長は公文書第一号(十二月十四日付け)にて「貴軍(日本軍)の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げる」と書いている。そこにおいて三十万の虐殺があったとはとても考えられない。その安全区に逃げ込んだ一万に近き兵士が便衣兵であるがその摘発で三・四千名の処罰をしたと判断されるが、戦時のこと、充分な調査がされたか否かは不明なるも、戦時法に違反するものではない。
 中国軍司令官の逃走後の無秩序な同士討ちの結果多くの中国人兵士の死者が出たのもまた戦闘行為にて軍人が多く亡くなったなどの悲惨な結果には胸迫るものがあります。しかし日本軍が虐殺をしたとの指摘は決して当たらない。
 蒋介石毛沢東とも生前は南京虐殺に一度も触れていず、また南京入場後九年もたって突然東京裁判にて事件がだされた感がある。さきの衆院内閣委員会で質問に立った戸井田とおる議員による南京事件質問にて、きわめて重要な事実が明らかにされた。それは国際連盟第十八回総会(昭和十二年八月十三日から十月六日まで)にて南京広東に対する《日本の空爆を非難する案》を中国が提訴し、委員会総会で採決されている。翌十三年一月二十六日から第百回期国際連盟理事会が開かれ「支那を支援する決議案」が採択されていた。しかし、にもかかわらず、支那代表顧維きんによる南京事件提訴さえなされなかったとの説があったのでしたが、今回の資料開示の結果わかったこと、それは実際には、中国代表はこのとき国連の行動要請をしていた事実。しかるにあまりの荒唐無稽のプロパガンダに理事会ですら、さすがに一笑に付し無視した事実であります。
 演説の中で中国は「南京における旧日本兵による無差別殺戮女性への暴行市民殺害がなされ米国教授の報告や書簡にもとづく数として二万人が虐殺され数千の女性が暴行された」と主張。それに対して同理事会は、申し入れを拒絶。当時、日本の軍事行動を「非難決議」として採択した親中的理事会すら、中国が訴える「南京虐殺」を、政治宣伝と見抜き、却下。対日非難決議にもその文言は入らなかった。これらの事実に基づき考えられるのは「南京虐殺論」は中国の政治的プロパガンダに過ぎないと考えるべきではないのではないでしょうか。それを反日に傾いていた国際連盟ですら一笑に付した。なぜなら南京には当時何百人もの全世界からのマスコミが入っており、虐殺に当たる事実はないからと判断するのが妥当ではないでしょうか。もし万を越す虐殺がほんとになされたとしたならば、蒋介石が言わぬわけはないと思うが如何。見解を求めます。
何百人のマスコミが入っていたのに写真一つない矛盾をどう解釈するのですか。
 フィルム撮影をしたマギー牧師も東京裁判にて残虐行為を証言していますが「私が見たのは一人だけ」と証言。揚子江岸の下関で死体を見たとあるが何万ではなく三百から五百と言っています。それがいかなる理由でなくなったか(戦闘での死か他の理由か)。死体があったからといってまさか虐殺と言えるわけもありますまい。
 貴殿発行のチラシ中の「告白」文中の殺された中国人の「生首」を己の誉れの為にもって笑っている軍人の写真を中国で見せられた旨の文がありますが、証拠とされた写真のほとんど全てが中国政府によって作られたものとの実証がされているのをご存知でしょうか。この渡辺さんという方も見破ることができなかったと考えられます。専門的な知識なく罪悪感で見ていくと誰もが驚きのなかで冷静なる眼を失わされますので。それだけ中国の戦略に乗せられ易いものです。東中野氏の詳細な写真分析をご覧になりましたか。それでも中国の作為を読み取られないとしたらその理由をお示しください。
 とりあえずの疑問点に誠意あるご回答を必ず約束通り開催期日までにお示しください。
                               
再質問状
 十月十一日になって電話にてご回答くださいましたが、内容に付き、全く承知できませんので改めて再度質問をいたします。
 電話にての回答の件は一については「中国は内乱状態であり、国内統一の混乱の中で忙しく対日批判まで手が回らなかったと思われる」とのご見解でありました。三十万を越す虐殺の主張をしている現中国政府が政権奪取した後も毛沢東が南京に触れず、蒋介石も触れない理由にはならないと電話にて申し上げたとおりです。とても納得できる説明となっておりません。再度納得できる研究成果をお示しください。荒唐無稽な虐殺論はまだ構築できず、日本軍の不法行為がなかったことを責任者として当然知っていたからと判断すべきではないのですか。
第二項について。マギー氏のフイルムを見て死体がのっていた。虐殺を記録にとどめる資料も発見されている。証言者の話もある。よって虐殺は会ったと私は考える。との電話回答。しかし残念ながらマギー氏のフイルムには三十九の光景を映し出しながら、虐殺を示すものは何も映し出されていません。病院の様子や数体の死体の情景もありますが、死体があるから虐殺だと言う貴殿の論はまったく理論になりません。戦闘にてなくなった兵士が虐殺であるといえるはずもないでしょう。そもそもマギー師は東京裁判にフイルムを証拠に提出していませんね。これを最初に虐殺論に利用したのが国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者でしたね。字幕説明を加えて作り変え加工編修しなおしたのですから貴殿が見られてその雰囲気に呑まれたのは残念ですが、ふ通に見てみれば、証拠になりえないのは明らかでしょう。裁判での反対尋問で、永く南京にて日本の不法行為に目を光らせていたマギー師が実際目にした殺害は一人だけと証言。中国政府の言う数十万の虐殺の主張はどうなのでしょう。ティンバーリは国民党宣伝部が工作員として使っていた人物であることはご存知でしょう。べイツ師もフィッチ師もティンバーリ師とともに「宣伝本」を書いた人ですね。ドイツ大使館の公文書綴りが発見されたといわれるが、そのジョン・ラーべなるジーメンス社南京支社長の「三万の死体」説も伝聞記事であり、南京特務機関丸山進氏によれば埋葬遺体は一万四・五千。戦闘での死体であるという。貴殿の言われる虐殺証拠とはなりえないものです。電話にてご説明したとおり他誌掲載写真も東中野教授はじめ、研究者に
虐殺があったと主張されるならば、納得できる根拠を提示すべきです。
 「虐殺はむごたらしい殺し方でもある。数もそうである。千人以上は虐待死させている」との見解をとり、虐殺があったといわれましたが、それは推測であり証拠ではありません。マギー師証言やフィルムを根拠にしてみえましたが、一人の殺害現場をしか見ていなかったといっており、その殺害理由も明らかでない。安全地帯に逃げ込んだ逃亡兵は数千から万とされる。彼らは「捕虜」でもなければ市民でもない。便衣兵であり、戦闘員の資格四条件を悉く踏みにじっているため、いかなる権利も有しない不法戦闘員。とらえられても国際法上の保護は得られないのは自明。捕虜になりえないのである。東京裁判においてすら捕虜処刑を明言する欧米人は誰もいなかった。日本が残敵掃蕩の際の処刑について世界の誰も非難していない。不法でも残虐行為でもない。銃殺等が残虐な殺害方法だと言う意味で虐殺と言われるなら、論外であり、犯罪者の死刑廃止論でも論じられておられればよい。南京事件とは無関係である。     
 中国政府は三十万を越す人間を日本軍が殺したとキャンペーンを張っております。その人数には意図的重大な過ちがあることを貴会もお認めになっていると判断してよろしいでしょうか。中国のためにする論を批判する立場に立たれると解釈してよいのでしょうか。そうでないといわれるのならば虐殺があったと主張されるその規模についても、さらにその推測を裏付ける根拠を示さなければ無責任極まりなきことです。
 一週間以内に文書でご回答ください。

なおとりあえず南京事件について私の見解を申し述べます。(再度提出前回同文)
 南京事件の発端は第二次上海事件。十二年七月七日には盧溝橋事件が起こり、これが当時北支といわれた中国北部に拡大し、さらに中部に飛び火し、上海での戦闘に発展。渦中を根拠地にする蒋介石としては北まで直轄軍を遠征するのは不利であり上海に派兵。五年前の第一次上海事件後、日中間で停戦協定が結ばれ、非武装地帯が造られたが、この地に中国はドイツ人の軍事顧問団をいれトーチカ陣地を築いた。ここには日本は海軍の陸戦隊が数千程度しかいない。中国兵ははじめ二十万後八十万。そして八月十三日日本の陸戦隊の本部に攻撃がかけられたのだった。わが国は在留邦人を保護するため応急動員をかけ第十一師団と第三師団の二個師団を八月末から上海に送り込んだ。しかし上海の防備は堅固にして被害続出。第九第百一第十三師団の増派となる。逐次投入の不利な戦略により被害続出。十一月になって十六師団を投入。背後を突き日本から新たに杭州湾に三個師団を投入。敵の退路を断った。結果中国軍は総崩れとなり、首都ナンキンに向けて退却を始めた。日本軍は当初南京を攻める予定はなかったのでしたが、中途半端な停戦では禍根を残す。決定的な勝利を収むべしとの国内世論に押されて最後には参謀本部も押し切られて南京攻略が決定される。予定された行動でないため弾薬はかろうじてあっても食料がない。糧を現地で調達する。略奪するなど悲しむべき状態となる。方や蒋介石軍は南京包囲を恐れ南京放棄論と抗戦論が戦わされたが、唐生智の抗戦論を採用。彼を司令長官として残し、蒋介石は十二月7日に南京脱出。南京は攻防戦の目標地となった。逃げられない人たちは城内に残る。難民も流れ込んでくる。外国宣教師たちの手により、安全区が設定された。南京市長馬超瞬は残留市民二十万人に対し国際安全区に移住すベしと命じた。日本軍は認めなかったものの、これを尊重し、攻撃一つしなかった。このことはラーベ委員長より感謝の書簡が出されていることでも明白である。南京市民は安全が確保されたのである。十二月十日頃から本格的な南京を巡る攻防戦が始まったのであった。十二月12日には激戦の末、日本がほぼ南京城を包囲できた。その際中国側は南京郊外に火をつけ農家などを燃やし撤退した地域を徹底して破壊した。この焦土作戦遂行は日本軍でなく中国軍であることに注意したい。
 司令官の唐生智は十二日夕方には真っ先かけて長江をわたり逃げてしまったので指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けた。逃げる味方兵を城門の上から機関銃で撃つと言う大変な同士討ちが起きた。は江門付近は死体の山だったと言う。これを「大虐殺」の証拠とされてしまっているが、その批判は全くあたらない。
 揚子江を筏で逃げる中国兵は途中筏がばらばらにない溺死。逃げ遅れた何千人の兵は安全区に逃げ込み便衣兵となる。国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)と認定されてつかまる。本来はこの便衣兵は安全区の管理者が武装解除させ、戦争が終わるまで置いておくか、捕虜として引渡しの義務があるのであるが、人数や能力からそれができないのみならず、敗残兵をかくまりたい、保護したいとの思いがある。日本との間にトラブルが起こり、反目が起こり、日本軍に不利な報告をすることとなる。結果敗残兵の掃討に強引さが出て、かなり杜撰な餞別となってしまったと考えられる。兵と誤認されたケースも出たであろう。便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと推測される。しかしこれはあくまで戦闘行為。虐殺には当たらない。手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし反攻のうわさで持ちきりであったため、戦闘目的であると解釈されても致し方なきこと。公開にて処刑したことが「虐殺」の宣伝文句に利用されてしまうのである。捕虜として扱うにはハーグ条約その他で一定の資格があるとされている。投降し、かつ受け入れ側が捕虜と認め捕虜収容所に連行して初めて捕虜の扱いを受ける。
 逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに逃げ遅れ幕府山の山麓に吹き溜まりのように集まっていた。捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。しかし一万四千七百七十七人の武装した敗残兵を捕虜とできるわけがない。自軍より十倍ほど多い捕虜を扱えるわけがない。殺戮すべきを、偲びず、十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に逃がそうと連行する途中捕虜暴動が起こりそのうちの相当数を殺してしまったのであったが、明らかに故意の殺戮でなく突発事故である。これらはしかし虐殺では断じてない。戦闘行為である。
 南京市内の不法行為はほとんどない。ラーべ委員会の詳細な記録によれば、南京市における殺害事件は四十九件。暴行事件四十四件となっておりそのうち一件は明らかに合法とされている。
 無論日本も勝つか負けるかの決死の戦闘の真っ最中のこと。犠牲者も数万を数える悲惨なものであった。しかし断じて何万もの不法虐殺をしたなどとあらぬキャンペーンを許してはならないのは明らかである。
 以上の考察の結果、南京での不法行為はきわめて少なく、両国にとって不幸な歴史ではあるが虐殺などと非難されるものではなく通常の戦闘行動の結果とみなされるものである。ちなみに入場に関わられた方のご意見は軍の名誉にかけて虐殺とされる好意はなかったとされるものであります。
 貴殿が真面目に政治的意図を離れて実証的に南京を語る方であってほしいと願うものであります。無責任な発言にならなきことを強くねがいたい。間違っても中国政府の戦略に毒されなきことを強く要望します。日本人の感性をお持ちいただきたいとは申しません。しかし貴団体は戦前にて事実追求の必要性を痛感したならば、今こそ客観的に資料を検証し、その上で判断されないと戦前の間違いを繰り返すことになることを老婆心ながらご忠告申し上げます。

参考に
松井石根(いわね)
    陸軍大将・上海派遣軍司令官
 松井石根は日露戦争に中隊長で参戦した後、陸軍大学に進み主席で卒業。通例では欧米駐在武官になるところだが、松井は根っからの日中友好論者で、自ら中国を希望した。
 軍内部の「下克上」の風潮が強まる中、軍機粛清を唱え、軍内部の派閥抗争や、軍人の政治関与を戒める松井は、一世代下の青年将校からは古臭いおやじとして嫌われ、敬遠された。派閥抗争の激化は遂に永田少将刺殺事件まで引き起こし、松井は軍長老として責任を取って一旦現役を退く。
 だが支那事変の勃発で松井は現役に戻され、上海派遣軍司令官となり上海・南京を陥落させた。南京戦の戦死者慰霊祭では日中の戦死者を共に慰霊しようと提言したが、実現できなかった。そこで帰国後、中日の戦死者を共に祀る「興亜観音」を建立。近くに庵を建てて住み、毎朝観音経をあげて菩提を弔い、隠棲生活を続けた。
 そんな老将軍が「A級戦犯」として逮捕された。その罪状の名は「南京暴虐事件」俗に言う「南京大虐殺」である。
 現在中国は犠牲者数を三十万人と主張するが、日本でこの数字を信じている人はまずいない。三十万人といえば原爆二個分である。しかも当時の南京の人口は二十万人だったのだ。
 では、実情はどうだったのか。真相に迫るには東京裁判でどのような立証がされたか検証すればよい。出廷した証人九名、宣誓供述書や陳述書による証言一七名、その他の文書十一通、以上合計三十七の証言・文書が、検察が提出した全証拠である。
ところがこれらの「証拠」は怪しいものばかりである。証言は裏付けの無い伝聞が多数。体験談も、数万規模の虐殺が行われたはずなのに、同一現場からの複数の証言が一組もなく、なぜかほとんどの殺戮事件で、常にたった一人の人間だけが、妙に似たような方法で生き残り、証言している。
 だが東京裁判では証言の真偽に関する検証は一切行われていない。そもそも東京裁判には「偽証罪」がなかった。中世の魔女狩り裁判と同じだったのである。
 検察は冒頭陳述で「組織的・計画的犯行」と主張したが、その証拠は遂に提出できなかった。つまり仮に南京で虐殺があったとしても、それはアウシュビッツや広島・長崎とは全く性格が違う、個人的暴発的反抗にとどまるのである。
 とにかく検察は物的証拠を一点も提出していない。写真一枚すらない。裏図家の取れない証言と、作成者のわからない資料、それが証拠の全てだった。つまり、南京で虐殺があったと確かに立証しうる証拠は何も提示されていないのだ。
 ところが、松井は南京の暴行事件を完全には否定せず、「興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行ったものがあったらしく」と、一部を認めた。ただしそれは何処の占領地でも起こる軍規違反の犯罪のことであり検察が主張する「大虐殺」までは決して認めていなかった.それでも松井が認めた少数の「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の区別はよく伝わらず、反証が弱いと言う印象を与えてしまった。
 判決は弁護側の証拠をほとんど却下し、検察側証拠はほぼ全てを採用し、指揮官の松井に虐殺を止める友好な対策を講じなかった「不作為責任」があるとし、死刑を言い渡した。
 松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する「人道に対する罪」をきせられたとは思っておらず、ただ、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として、僅かな軍規の弛みも許しがたく、痛恨の一大事と認識していたのだ。だがその潔癖さがかえって誤解を生み、「大虐殺」を認めたかのように思われてしまった。
 松井は生涯を日中友好の為に尽くした人物でありその礎石となるべく、従容として死についた。それなのにその御霊が靖国神社に祀られている事を中国が日本攻撃の道具に使うとは、何たる無情、何たる皮肉であろう。

この質問状は共同主催の九条の会にも出したが全く回答なく、だんまりを決め込んだままである。
 岡崎に95歳になられる太田様は南京入場の際部隊を代表して参加された方、「誰がこんな作り話を言っているのかと憤慨して見えますよ.かくしゃくとしてみえます。真面目な研究者なら話を伺うべきでしょうに。ちなみに九条の会の関係者と思われる岡崎市会議員の情宣カーに9条が印刷してありますが、恥ずかしくも9条の条文が間違っているまま。ようは読んでもいないし、覚えてもいないのですね。ばからしくて忠告もしていませんがこんな共産党だからばかにされるんでしょう。情宣カーの周りに活動家が一杯いても誰一人9条を知らない証拠です。もう私が発見して以来半年以上たつのにね。九条改正するんだなあといつか使ってみたくなりますよ、この事実。
 


中日新聞は沖縄戦への意図的世論誘導記事を是正すべし

2008-03-04 22:26:57 | Weblog
抗議文

貴紙十二月二十八日発行中日春秋欄に、高校生諸君と呼びかける主張が掲げられた。われわれはその品位なき、悪意に満ちた扇動の主張に断固抗議するものである。
 そもそも沖縄は敵国米軍の圧倒的攻撃を受け国土防衛に向け必死に戦った激戦地である。五十万余の敵兵に対し我がほう十二万余の兵力で戦わなくてはならぬ困難きわまる闘いであった。その中での必死の戦いであった。
 貴紙は日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して軍の強制があったとしているが、兵力不足、兵器不足の最たる現地で、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されたにすぎない。手榴弾自決をもって軍による自決命令へとすりかえるのは、ためにする議論である。
 元ひめゆり学徒隊の証言の中には『「まだ若いのだから無駄死にすることはない」と逃がしてくれた』『豪の中で、もうみんなで自害しようと女学生の一人が手榴弾を手にしたら、今まで仲良かった兵隊さんが、刀を片手にすごい勢いで怒鳴った。「お前ら、今すぐここから出て行け!さっさとしないと叩っ切るぞ!!」女学生達は泣く泣くアメリカ兵の待つ、豪の外へ出る。豪から少し離れた時に、豪の中から爆音が・・。兵隊さん達は女学生達を死なせまいとして、あんなヒドイことを言ったんだ・・豪の中から黒い煙がいっぱい出てくる。』というものもある(『ひめゆり記念館』)。手榴弾配布も大江裁判において金城証人により実証された如く「三月二十日の兵器軍曹からの手榴弾配布事実は渡嘉敷のみ」の事実さえ崩れ、「渡された証人が誰一人いない」事となっているではないか。軍命令であるなら、ありえないことである。いかに説明をするのか。
 裁判にて梅澤裕氏は言う。大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら五人が訪ねてきた。
《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》
 切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴弾などの提供を求めた。氏は驚いて即座に断り、こう言葉を返した。
《決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない。》これこそが事実である。自決用手榴弾を軍命令で配布した事実があるなら貴紙はその証明をすべきである。
「沖縄戦の集団自決が軍の関与なしで起きたかのように書かれた日本史の教科書を読まされるところだったのだ。」などとする表記は悪意そのものである。
 座間味島で軍命令を出したとされる元守備隊長梅澤裕少佐は「戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用の為、島の長老達から偽証するよう頼まれ、従った」と証言しているではないか。座間味島の宮城初枝(当時青年団長、集団自決で生き残った)は「一九四五年三月二五日に村の有力者五人と隊長にあった際に、隊長は『自決命令』を発していない」との手記を遺しており、娘の宮城晴美が二〇〇〇年に『母の遺したもの』として出版したその手記によると「厚生省の職員が年金受給者を調査するのため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(初枝)は島の長老に呼び出されて『命令があったと言って欲しい』と頼まれ、(本当は命令はなかったが)命令があったと証言した」と告白している。宮城初枝女史はこのあと、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などの非難を浴びたが、彼女が再び発言を変えることはなかった。 
 また、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決についても、役所の照屋氏は「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
 自決にしてくれと頼まれ、県民のためになるならと、「軍命令」を偽造してまで沖縄を守ろうとした軍人の心を、真実を、なぜに覆うのか。なぜに県民の生活を守るために名誉を捨ててまで非難覚悟で口をつぐみ続けた心を分かろうとされないのか。真実を知りながら逆の報道・主張をなすのがマスコミの姿勢と言えるのか。北朝鮮による拉致、従軍慰安婦問題でのミスリード同様、罪を重ねることになるのをお気付きか。事実に目を向けることなく世論をあおるが如き姿勢はマスコミ人の姿勢にあらず。かつての大本営発表に追従した姿勢と何ら変わるものではない。
 何とか敵を倒し国土国民を守る。敗れてのちも沖縄のためにできることをなす。それこそが沖縄県民救済のために軍人が取った方途である。

 貴紙は「教科書に一泡吹か」そうと言う。何たる言い草。教科書の存在の意義を否定する扇動者の立場をとろうとするのか。生徒にすりより仲間意識をかもし出そうとは哀れでもある。「古きよき学生運動」へのノスタルジーであるのか。世論迎合、生徒迎合も限度を持たれよ。
 さらに問う。あの沖縄で軍は、マスコミは、何が出来たのか。君らはペンの力で自決を止めえたのか。君らの先輩は命を張って沖縄を防衛して来たのか。
 軍は命がけで住民を国土を守ってきた。自決された方々は米軍による国土への凌辱を見るにしのびず、気高き生命を国に捧げられた方々と判ずべきものであり、この哀しみは、われらが深くこころに受け継ぎゆくべきものである。軍より自決命令が出されておらず、さらに死んではならぬと指示があったことが判明した以上、少なくとも軍の強制との論は成り立たない。 
 貴紙が「軍に強制」されて死を選んだと断じるのは、今や軍と殉国自決者に対しての冒涜である。「軍の強制」を実証なく論じようとする愚を即刻改められよ。
 公器たるマスコミとしての責任を果たしえなかったこと(戦時の戦意高揚報道、今回の沖縄集会参加者水増し報道と軍命令不在事実判明後の対応など)を自己批判せず、軍に責任をかぶせるが如き言論は見苦しい。高校生に「調査要請」すべきは「マスコミの戦争加担問題」ではないのか。

われらは貴紙の無責任な「軍の強制論」に断固抗議するものである。

以下、三点につき、貴紙の見解を問う

一 記事冒頭 沖縄集会参加人数について
 主催者発表十数万 しかし写真分析では一万数千名とされる。貴紙の判断を問う
二 県民救済への政府及び軍の実績評価について
 十九年七月七日以降、政府及び軍は沖縄非戦島民に避難勧告し疎開計画に基づき十六万人を救出。二十年三月の計画終了後も、沖縄戦ぎりぎりまで海軍艦艇を那覇港に横付け、艦長命令を出して市民を熊本まで移送救助している。それでも沖縄に残らざるを得なかった方々が悲しむべき戦闘に巻き込まれたわけであるが、貴紙は軍が住民救出に必死に努力した戦闘前中後の行為事実をいかほど掌握し判断してみえるのか。軍による自決命令どころか自決関与すらない(伝聞証拠以外)ことをどう判断されるのか。
一 沖縄には在日米軍基地七十八パーセント の誤解是正について
 沖縄には在日米軍基地の二十三・五パーセントしかないに関わらず七十八パーセントの表記が言論界において使われる。確かに米軍専用基地だけで考えればそうに違いないが国民の誤解を生みやすい表現である。是正の意思を問う

以上三点及び抗議内容についての回答、見解を求む。なお期日は今月末日。文書を以って回答願いたい。

平成二十年一月三日
      塾の会愛知三河会長   杉田謙一
      有隣塾         黒川 昭
      愛知郷友連盟青年部代表 伊藤 弘
      日本の主権を守る会代表 渡辺智央
      牛喘倶楽部代表     栗野成人
中日新聞編集局長 
  加藤幹敏殿
 
この回答は「新聞記事をすべてと考える。」よってノーコメント。情けない限りです。新聞社は事実を知った上でなお反軍の扇動をしつづけているのです。情けなき限りです。