こんな日本人がいた
先の大戦で最大の激戦地の一つであった硫黄島のでの話です。ある日本人が米国から返還されてまもなく硫黄島に渡ったときのこと。ある米兵に声をかけられた。「私の父はこの硫黄島作戦の最高司令官でした。硫黄島で戦う日本の将兵を見て、終戦後にアメリカに帰って十数年間、死ぬまで、アメリカの青年よ立ち上がれ。アジアにはすばらしい国があるぞ。それは日本と言う国だ。そこにはお前たちが想像もできない立派な青年たちがおる。ああいう青年がおるのなら、ほっておいてもやがて日本は世界の名手になるだろう。」司令官の体験は次のとおり。
硫黄島の南の擂鉢山の中腹に穴があり、陥落した日にそこから陸軍少佐が出てきた。木の枝に白いハンカチを巻いて右足はもう飛んでない。左足で這ってきた。真っ青な顔をしている。「司令官はいないか。司令官はいないか。「何だ」と言ったら、「あの穴に私の部下がまだ三十人ばかり生きている。その中にすばらしい青年が一人いる。日本の東京大学の学生だが、、あの男を生かしておくと日本だけじゃない。地球を救うぞ。世界中探してもあんな立派な青年はいないと思う、どうかわしの首を切って代わって彼を助けてくれ。」と言って日本式の挨拶をしたから、司令官が「心配するな。君も助けるが彼も助ける。」と言ったら「サンキュー。」と息が絶えた。
司令官が穴のところへ行って、「おい、いるか、浅田中尉はいるか。今、君の隊長が君を救うために死んでいかれた。出て来い。もう戦争は終わったんだ。内地では君のお父さん、お母さんが待っているぞ。捕虜にしないから出て来い。」と言ったら、中から「黙れ、、自分のことは自分で決めるんだ。お前たちの指示を受けない。」「煙草はあるか」「煙草なんてあるか」「よし、やるぞ」と煙草を投げ込むと中からさーと煙が出てきて「サンキュー。口に二本も三本もくわえとる。もう何ヶ月も煙草なんて呑んだことは無いんだ。」「菓子はあるか」「菓子なんかない」「よーし」とチョコレートを投げ込むと「ありがとう」と中で大騒ぎ。「食料あるか」「ない」「よーし」と缶詰を投げ込むと「ありがとう」と丁寧に挨拶をする。缶詰なんて食べたことがない。それが二月のことであります。それから毎日のように行って勧告するが出てこない。三月四月五月まで頑張って、五月の朝、暗いうちにドーンとその穴で、大きい音がしたのでいってみたら手榴弾で自決して死んでいた。その入り口にその東大の学生が日本語と英語と両方で遺書を書いて置いてあったそうです。
「閣下の私たちに対するご親切の行為、誠に感謝感激に絶えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや、水も無く食も無ければ十三日午前四時を期して全員自決して、天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を置きます。
昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉浅田信二
米軍司令官 スプルアンヌ大将殿 」
部下の救済を命を懸けて願い出る上官。武士道の精神で降伏をしない部下。栗林中将以下日本人二万の兵が亡くなられ、米国も七千人。建国以来最大の犠牲者が出た。尊い犠牲の結果、今の日本があることを僕らは忘れてはならない。僕らの勉学の道には真心はあるか。如何。
先の大戦で最大の激戦地の一つであった硫黄島のでの話です。ある日本人が米国から返還されてまもなく硫黄島に渡ったときのこと。ある米兵に声をかけられた。「私の父はこの硫黄島作戦の最高司令官でした。硫黄島で戦う日本の将兵を見て、終戦後にアメリカに帰って十数年間、死ぬまで、アメリカの青年よ立ち上がれ。アジアにはすばらしい国があるぞ。それは日本と言う国だ。そこにはお前たちが想像もできない立派な青年たちがおる。ああいう青年がおるのなら、ほっておいてもやがて日本は世界の名手になるだろう。」司令官の体験は次のとおり。
硫黄島の南の擂鉢山の中腹に穴があり、陥落した日にそこから陸軍少佐が出てきた。木の枝に白いハンカチを巻いて右足はもう飛んでない。左足で這ってきた。真っ青な顔をしている。「司令官はいないか。司令官はいないか。「何だ」と言ったら、「あの穴に私の部下がまだ三十人ばかり生きている。その中にすばらしい青年が一人いる。日本の東京大学の学生だが、、あの男を生かしておくと日本だけじゃない。地球を救うぞ。世界中探してもあんな立派な青年はいないと思う、どうかわしの首を切って代わって彼を助けてくれ。」と言って日本式の挨拶をしたから、司令官が「心配するな。君も助けるが彼も助ける。」と言ったら「サンキュー。」と息が絶えた。
司令官が穴のところへ行って、「おい、いるか、浅田中尉はいるか。今、君の隊長が君を救うために死んでいかれた。出て来い。もう戦争は終わったんだ。内地では君のお父さん、お母さんが待っているぞ。捕虜にしないから出て来い。」と言ったら、中から「黙れ、、自分のことは自分で決めるんだ。お前たちの指示を受けない。」「煙草はあるか」「煙草なんてあるか」「よし、やるぞ」と煙草を投げ込むと中からさーと煙が出てきて「サンキュー。口に二本も三本もくわえとる。もう何ヶ月も煙草なんて呑んだことは無いんだ。」「菓子はあるか」「菓子なんかない」「よーし」とチョコレートを投げ込むと「ありがとう」と中で大騒ぎ。「食料あるか」「ない」「よーし」と缶詰を投げ込むと「ありがとう」と丁寧に挨拶をする。缶詰なんて食べたことがない。それが二月のことであります。それから毎日のように行って勧告するが出てこない。三月四月五月まで頑張って、五月の朝、暗いうちにドーンとその穴で、大きい音がしたのでいってみたら手榴弾で自決して死んでいた。その入り口にその東大の学生が日本語と英語と両方で遺書を書いて置いてあったそうです。
「閣下の私たちに対するご親切の行為、誠に感謝感激に絶えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや、水も無く食も無ければ十三日午前四時を期して全員自決して、天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を置きます。
昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉浅田信二
米軍司令官 スプルアンヌ大将殿 」
部下の救済を命を懸けて願い出る上官。武士道の精神で降伏をしない部下。栗林中将以下日本人二万の兵が亡くなられ、米国も七千人。建国以来最大の犠牲者が出た。尊い犠牲の結果、今の日本があることを僕らは忘れてはならない。僕らの勉学の道には真心はあるか。如何。