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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

モーナ・ルダオ(2)

2013年06月17日 | 歴史

  1910年(大正元年、モーナ・ルダオ 28歳)

                                                   

 この頃、時期は正確ではないが、日本は霧社一帯から、銃器を無条件で提出させ武装解除に成功している。ある意味では霧社は、蕃地政策の模範となったともいえるが、原住民からすれば、大事な武器を手放すことは屈辱であった。

 また、モーナ・ルダオは、それまで霧社蕃全体のリーダーであったホーゴ社のパワン・ノーカンの死後、彼に代わって、その後継者となった。

 武装解除に続いて、「出草(首狩りのこと)」を悪習として永遠に禁止し、また「どくろ架(さらし首を置いておく台)」を撤去させ、刺青を禁止した。

  1911年(29歳)、この年の4月、モーナ・ルダオは日本内地を旅行している。これは、台湾総督府が企画したもので、名目は観光であったが、その実体は台湾原住民の代表を日本に連れてゆき、日本の実力を誇示して、反抗心を失くさせようとしたものだった。

 この第1回日本内地旅行には、タイヤル、ブヌン、ツオウ、パイワンの4部族から13人が参加。訪問都市は、基隆港から、門司、神戸、名古屋、東京、横須賀、京都、大阪、広島、長崎など訪れている。モーナ・ルダオは「日本には、川原の砂のようにたくさんの人がいる」と感想を漏らしたという。大きな船や建物、それに軍隊、さらに人の多さなどを見て驚いたに違いない。参加した頭目は、天皇の意味を理解せず、部族の頭目と同じような存在と考えていたという。

 この時の内地旅行で4カ月ほど滞在したという。その間、日本女性を同伴させて、たいへん丁寧に取り扱ったという。モーナ・ルダオは、行く先々で出合う警官の態度がたいへん優しいことに感動したという。

 この内地旅行でモーナ・ルダオが得た実感は、自分たちの村が悲惨なのは、山地警官が悪いからであり、質の悪い警官を山にもってくる制度を変えなければならないと決心したという。

 原住民であるとはいえ、モーナ・ルダオは物事の本質は見抜いていた。


モーナ・ルダオ(1)

2013年06月14日 | 歴史

 モーナ・ルダオはセデック族、マへボ社の頭目、漢字で書くと、賽徳克(セデック)莫那魯道(モーナ・ルダオ)となる。

 2011年、モーナ・ルダオを描いた映画が台湾で公開された。タイトルは、「賽徳克 巴莱」(セデック バレ)であった。巴莱はモーナルダオのことであり、「霧社事件」を描いたものだ。モーナ・ルダオは、日本帝国主義に反抗して立ちあがった英雄として再認識され、仁愛郷には「霧社山胞抗日起義記念碑」を建設して、褒めたたえるとともに、かれの胸像をモチーフにした記念硬貨まで発行している。

 このモーナ・ルダオについて調べてみた。

 1882年(明治15年)生れ、マヘボ社の頭目であると同時に、霧社蕃全体のリーダーであり、「霧社事件」を起こした時は、48歳だった。気性は飄かん、体は大きく180cmを超えていたといい、少壮の頃より戦術に優れていた。勢力は霧社蕃中でずば抜けており、彼の右に出る者はなかったらしい。性格は朗らかで、酒が好きでよく飲み、笑い声も大きく、話をしていて楽しいので人気があったという。

 セーダッカ族生き残りのアウイヘパッハが書いた「証言 霧社事件」に、彼が座談会で話した「モーナ・ルダオ」の思い出があるので引用してみよう。

 ちなみに、アウイヘパッハは、1916年(大正5年)生まれ、ホーゴ社頭目の直径で、霧社事件が起きた時、14歳だった。セーダッカが蜂起した時、少年組として加わっている。その後、投降して日本人から尋問を受ける。蜂起に参加したかどうかについてだった。参加したとこたえた場合は、その場で銃殺。素直な山地族の少年たちは、ほとんど殺されたが、アウイは山に狩猟に行っていて加わっていないとこたえて、銃殺を免れている。必死の思いで、嘘をついたわけだが、これを責めることはできないであろう。さらにいえば、アウイが生き残ったおかげで、蜂起側からみた「霧社事件」の実態が明らかになったのでる。

 この本をまとめた「許介鱗」(1935年台湾生まれ、台湾大学政治系教授、東京大学法学博士)は、この資料を、霧社事件について書かれた本の中で、第一級の資料として高く評価している。

 アウイ自身の戦いの記録、思い出しながら描いた座談会の記録、さらに許介鱗の簡潔で核心を突いた解説は、植民地時代に日本が台湾の山地でしたことを、公平に分析してしており、わたしは読みながら、目から鱗が落ちる思いがした。「霧社事件」について知ろうと思うならば、避けてはならない本だろう。

 さて、アウイの思い出の中の「モーナ・ルダオ」にもどろう。

 霧社総頭目の「モーナ・ルダオ」は、一世一代の英雄であり、体も大きいし、鼻も高い、どうも西洋人の血が混じっているらしいという。父の「ルーダオ・ビーラッカ」が臆病で、人から馬鹿にされていたので、自ら奮発して勇敢になったという。

 13歳の時から首狩りに参加して、胆力を練る。15歳の時、北港渓で他部族と戦ったとき、敵の一人が対岸で撃たれて倒れたが、誰一人として首を取りに行く者がいない。少年のモーナ・ルダオは激流に飛び込み、皆が危ないあぶないと騒いでいる内に、川を渡りきり、首を取ってまた泳いで帰ってきたという。その時から、モーナ・ルダオの名は四方に響き渡り、英雄としてあがめられるようになったという。

 モーナは、首狩りに行く時は必ず名をあげ、首狩りが禁止される時までに、一人で30個の首を取ったという。戦いのたびに、こういったという。「誰も俺より先に進んではならない。戦いで俺より先に進む者がいたら、俺は必ず撃ち殺す。」と。

 1920年のサラマオ討伐の時、日本の味方藩として同族攻撃に参加しているが、壮丁の一人が勇敢さを示そうとして、先頭に立って前進した。モーナ・ルダオは怒って、直ちに射殺したという。その後は、誰もモーナ・ルダオの先に進む者はいなくなったという。

 

 


台湾原住民の宗教観

2013年06月10日 | 歴史

 台湾の原住民が独自の宗教をもつのは、他の民族と変わることがない。部族により信じる神も多少異なるが、共通しているのは、祖先崇拝、霊魂不滅を深く信じていることだ。

 祖先が自分たちの生活を見守り、自分たちも死後は、祖先のもとに行き、一緒に暮らすことになると信じており、死を超越した凛とした死生観をもつ。

 土地は神聖であり、大きく成長した老木は神の化身と考え、種族の土地は死をかけて守る。死後は生まれ変わって、土地の守護神になるともいう。霧社事件を起こした「セーダッカ族」はタイヤル族の流れをくむが、セーダッカは中央山脈の「プスカフニ」の大木から生まれた一対の男女から始まるという伝説がある。

 余談ではあるが、台湾中部の「阿里山」は台湾最高峰「玉山」への登山口でもあるが、海抜2,000m位の山頂付近には「神木」(北京語でシンムー)と呼ばれる巨木群が生育している。中でも圧巻は樹齢1万年を超える紅檜(ベニヒ)であり、「三代木」と名づけられている。第一代は、樹齢1万年、第二代は3千年、第3代は100年の巨幹が絡み合っている。「わがまま歩き台湾(ブルーガイド)」の言葉を借りれば、まことに神々しいばかりの存在である、といえる。わたし達日本人でも、巨木には「木霊」が宿ると信じる人が多いが、台湾の原住民でも同じこと、巨木には神の魂が宿っているし、神の化身であると考えていたのだ。その巨木を植民地時代の日本は、遠慮なく伐採していたのだから、原住民が怒らないわけがない。

 はなしを戻そう。

 タイヤル族の神は、「ウットフ」といい、自然や祖先崇拝が信仰の中心である。原住民は、「ウットフ」が人間を織り、人生を織ると考える。人間が生まれることを「ウットフが織る」という。 織布の縦糸、横糸に、人間とその人間が経験する出来事や喜怒哀楽を織り込むと考える。つまり、人生は神が決めたものであり、生きるも死ぬもウットフの御心のままということになる。

 何かわからないことが起きると、彼等はすぐに「ウットフ」にお伺いを立てる。これにより得た神の意志により行動することになる。では、どのように「お伺い」をたてるのかといえば、「首狩り」ということになる。「首狩り」は蕃人にとっては、神事であり、宗教行事なのである。

 たとえば、来年は豊作かどうかとか、どこの土地を開墾すれば収穫が多いかなどを神にうかがうとする。彼等は、儀式にのっとり「首狩り」の準備を始め、首尾よく首が得られれば、「ウットフ」がOKを出していると考える。首に、恨みはないので、偶然に旅人にでも出会えれば、その首をもらって一目散に引き揚げてしまう。神事であれば、金銭を盗るなどの略奪はしない、故に文明人にとっては、怖い話ではある。

以上

 


霧社事件(2)

2013年06月08日 | 歴史

 なぜ、セデック族が蜂起したかについては、日本統治時代の山地行政、つまり未開の土地に暮らす原住民の取り扱いについての背景を知らなければならない。

 まず大きな歴史の流れからいえば、17世紀はじめ頃、異民族の満州族に追われた漢人が大陸から台湾に入植するようになる。鄭成功がオランダ人を台湾から追い払った頃のことだ。文明化された漢人の流入により、未開の原住民は山地に追いやられる。何千年も住み続けてきた祖先の土地が、少しずつ漢人により奪い取られてきたわけである。

 1895年、日清戦争後の下関条約により、台湾は日本に割譲され、日本の植民地としての時代が始まる。それまでは、原住民は山地に追いやられてはいたが、漢人との住み分けはできており、それなりの自主的な生活はできていたが、日本統治時代が始まると、原住民の自治はなくなり、何をするにも日本人の命令のもとでしか行えなくなった。日本は植民地経営として、山林資源を重要視し、大規模な開発を始める。交通を円滑するために鉄道や道路を整備し、西から中央山脈を超えて太平洋に達する東西横断道路の建設などをはじめた。

 この時、現住民を指揮命令するのは、台湾総督府の出先機関である警察官であった。いたるところに駐在所を置き、植民地経営を円滑にするために原住民を統治した。野蛮な「首狩り」の風習は厳禁し、銃などの武器は取り上げ、狩猟で使うときは警察の許可が必要であった。そ代わりに、小学校や病院をつくり、また日本語という共通語を与えて、彼らの生活を文化的なものにした。大ざっぱにいえば、植民地経営という目的のもとではあったが、台湾を模範的な国にするために日本人は大いに努力したといえる。

 さて、事件の原因だが、その第一は原住民を人間としてみなかったからだろう。当時は、原住民を蕃人と呼び、動物に近い劣った存在と見ていた。蕃人の中で、文明化したものは「熟蕃」と呼び、一方昔からの狩猟生活中心の原住民を「生蕃」と呼んだ。山奥で生活していたのは、この「生蕃」であり、首狩りの風習などをもっていたので、人間らしい道徳などはもち合わせていないと考え、動物並みに扱ったからだった。

 蛇足になるが、原住民には道徳などがないという判断は間違いであり、原住民は宗教、道徳などをもち、文明人とかわらない規律をもっていた。ちなみに、「首狩り」は、原住民の宗教行事であり、日本人が何かの願い事をするとき、滝にうたれたり、髪を切ったりすることと同じなのだ。ただし、文明人には、受け入れられない風習ではあるが。

 つぎは警察官の質の問題であろう。警察官は、台湾総督府の名のもとに、行政権と司法権をもち原住民を酷使した。山地における絶対的な権力者で、すべてを取り仕切り、道路や建物の建設を実行した。正義感のある警察官が多かったが、なかには、日本でまともな仕事ができない男が、台湾で一旗揚げようと巡査になり、私利を肥やして不正をはたらく者もいたようで、原住民の反感をかった。

 山地行政について、具体的な例でいえば、駐在所を建設するために、出役義務を課し、山奥から材木を切り出して、運び出させる。切り出した木材は、引きずることを許さず、肩に担がせたため、峻険な山道では命をかけるような労役になった。理由なく休めば、暴力をふるい牢屋に閉じ込めたため、声にならない憎しみが生まれた。

 警察官はよく原住民を殴ったようである。何かにつけて殴る。規則を破ったとか、命令に従わなかったとかで、大人でも子供でも無差別に殴る。すべての警察官がそうであったわけではないが、霧社には原住民を人間扱いしない暴力主義の警察官が多かったようである。このことが、原住民の自尊心を傷つけた。

 さらに、出役義務に対して、わずかな日当を支払うが、警官はその日当をピンはねして全額を渡さないとか、支払いを遅らせるなどの不正するが、それを咎めることができない。このような行為に対する恨みがつもり積もっていた。

 もう一つは、女性問題があった。この当時、赴任した巡査は原住民のリーダーの娘などと結婚することがよく行われた。いわゆる「現地妻」だが、原住民を支配する方法としては効果があった。台湾総督府もそれを暗に奨励し、3年くらい一緒にいれば、後は別かれるなり、捨てるなり、好きにしてよいというような態度であったらしい。

 この方針により、リーダー「モーナ・ルダオ」の妹「テワス・ルダオ」は日本人の巡査と結婚をした。彼の名は「近藤儀三郎」、彼はその後花蓮に転勤になったが、理由もなく行方をくらましてしまう。捨てられたテワス・ルダオは村に戻ったが、兄のモーナ・ルダオは、自分の妹を捨てた官憲に恨みをもった。

 このような警察官の不正と横暴に、原住民の怒りが爆発したのが「霧社事件」であった。

以上


霧社事件(1)

2013年06月06日 | 歴史

 台湾原住民を理解するうえで忘れてはならない事件だ。霧社は(ムシャ、北京語ではウサ)と呼び、山地原住民の居住地を意味する。所在地は、台中県仁愛郷、標高1,100mくらいの山地であり、名前の通り「霧」が多い。

 日本統治時代、入植した日本人がそこに町をつくり、食料品や雑貨などの店のほか、郵便局や駐在所などがならび、小学校などもできていた。埔里から来れば、途中までは軽便鉄道を利用できたが、そこを過ぎれば、険しい山道であり霧社に辿りつくにはたいへんな道のりであった。

 事件は1930年(昭和5年)10月27日の朝、公学校で起きた。公学校とは、現地人の子供たちが通う小学校のことである。その日は秋の運動会、日本人のほかに原住民の子供やその家族が集まっていた。そこへ突然蜂起原住民約300名が襲いかかり、日本人だけを標的にして、あっという間に男女年齢を問わず、104人の日本人の首を斬ってしまった。襲ったのは。セデック族、タイヤル族の流れをくむが、言語などが違い、独立した民族ともいえるようだ。

 日本は報復として、襲撃に参加した原住民の徹底的なせん滅作戦で応じた。警察のほかに、軍隊が参戦し、航空機による爆撃や毒ガスなども使用した。セデック族の戦死者は、おおよそ160名、自殺者、140名、その他蜂起した原住民の家族など、数百名の行方不明者がいたという。事件の首謀者は「モーナ・ルダオ」、セデック族のリーダーでもあるが、事件後、日本軍の反撃が始まると、一人で山奥に分け入り自殺している。

 2013年3月の下旬に霧社を訪れたが、事件のあった公学校は、今は台湾電力公司の管理所になっており、敷地内の桜は散っていた。この桜は、「霧社の緋桜」といい、この地方特有の種で、赤みがかった花びらをもつという。事件で生き残ったセデック族のピホワリスは、「霧社緋桜狂い咲き」という本を出版して、事件の記録を残している。

 霧社公学校の跡地をを見た後、事件で亡くなった日本人の慰霊碑を探してみた。さして広くない地域なので、すぐに見つけられたが、慰霊碑の周辺は荒れ放題、雑草が生い茂り、空き缶などのゴミが捨てられており、慰霊碑のすぐ前には、犬のような動物の頭蓋骨があった。植民地時代は、清掃されていたと思うし、弔問に訪れる人達も多かったに違いないが、今は、時折わたし達のような日本人が訪問するくらいのようだ。

 気になったのは、日本人慰霊碑のすぐ側には、「仁愛郷清潔隊」という管理事務所があり、数人の事務職員が働いていた。慰霊碑はその事務所の庭のような場所に立っているのに、掃除くらいしないのだろうかと思ったことだ。しかし、彼らが清潔にすべき場所は、山地原住民の居住地であり、日本人に反抗して立ちあがったセデック族の慰霊碑であり、そのリーダーである「モーナ・ルダオ」の墓であるらしく、日本人慰霊碑を清掃する気は全くないようだった。

 しかし、それを責めることはできないだろう。なぜなら、中華民国に復帰した後は、漢人も原住民もすべて中華民国の国民になったわけだし、かつての敵国人の墓を清掃でもしたら、それこそ「漢奸」とでも言われかねないからだ。しかし、心底日本人が嫌いで掃除すらしないわけではないことは、台湾を知る人には理解できることであり、管理事務所で働く人の気持ちは複雑であろう。というのも、そこは歴史的な事件があった場所ではあるが、現在は風光明媚な観光地でもある。避暑に訪れた人達が、空き缶などのゴミだらけの慰霊碑を見てよい印象をもたないことは充分感じていることだろう。

 では、なぜこの事件が起きたのか。事件の生き残った人達の記録を読んでいくうちに、原住民についての興味深い事実がわかってきた。

 (続)