台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

モーナ・ルダオ(3)

2013年06月19日 | 歴史

 日本内地旅行をしたモーナ・ルダオのその後について。

                                           

 1920年(38歳)、「サラマオ事件」が起きている。原住民の反抗形態や日本軍の鎮圧したやり方が、霧社事件に似ている。

 サラマオ藩は、現在の台中県和平郷梨山にあった。梨山は台中から花蓮に抜ける東西横貫公路の中間点の山岳地帯で、山の斜面には果樹園が広がっていたという。その当時、梨山小さな街で、険しい山を行く人達にとっては、一息つける休憩地として栄えていた。現在は、「梨山賓館」という伝統的な中国様式の立派なホテルが建っているが、往時のような賑わいはなく、山間の静かな街という感じである。

 さて、アウイヘッパハが書いた「証言  霧社事件」によれば、1920年頃この地方にインフルエンザが流行、原住民から多数の死者がでて蕃情が悪化したという。原住民からすれば、このように多くの死者が出るのは、日本人が我々の土地に侵入して好き勝手なことをしているからであり、一刻も早く日本人を追い出せと、彼らの神「ウットフ」が怒っているということになる。

 この後、サラマオの藩人は、武装蜂起して、駐在所を襲撃、警部補の長久保栄左エ門以下、日本人19人を殺傷したというのが、「サラマオ事件」であった。

 サラマオ蕃が蜂起した時、当初モーナ・ルダオはサラマオと呼応して抗日蜂起をしようと計画したが、未然に発覚して、モーナ・ルダオは罪を問われそうになる。この時、日本は一計を案じて、モーナルダオを直接処罰しないで、サラマオ蕃討伐に加わるならば、その罪を免じようともちかけたらしい。このあたりの経緯は詳しい資料がないので不明だが、結局、モーナ・ルダオのマヘボ社は、日本軍と共にサラマオ討伐の奇襲隊として行動することに同意する。

 台中警部補の下山冶平は、サラマオ事件の討伐隊長として指揮をしている。下山冶平は、マレッパ族の頭目の娘「ピッコタウレ」を現地妻として4人の子供をもうけている。

  サラマオ事件については、「霧社の反乱 民衆側の証言」(林えいだい著)に詳しく書かれているが、息子の下山 一は、討伐成功後、父の治平が5個の首を下げて凱旋したのを見ている。女や子供の首もあり、首はあごの付け根から切り取り、麻縄で結んであり、半開きの目はどろんとして、思い出してもぞっとする光景だったという。

  モーナ・ルダオは、下山治平の指揮下でサラマオ討伐にあたり、戦闘のなかで逆襲され、額に傷を負ったという記述もある。

 「夷をもって夷を制す」という戦術は、山中の戦闘に優れた蕃人に対抗するには、同じ蕃人をもってするのを得策と考えたからだった。日本軍は蕃人を味方にするために、いろいろな便宜をあたえたりしたが、モーナ・ルダオの場合は、罪を免除するということで味方につけたようだ。

 このタイヤル族同士を戦わせるという戦術は、霧社事件が起きた時にも用いられ、モーナ・ルダオは同族サラマオ藩の首を切った報いを受けることになる。

サラマオ事件以後、モーナ・ルダオは要注意人物として、警察からマークされるようになる。

続                                        

 



コメントを投稿