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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

龍穴:日月潭の龍脈

2012年10月15日 | エッセー
 「日月潭に消えた故郷」という本を読みました。著者は坂野徳隆氏、台湾の少数民族の歴史や生活をあつかったルポルタージュです。この本を読んでいて気になったのが「風水」のことでした。タイトルにした「龍穴」はこの風水における特別な場所のことです。

 坂野氏は、日月潭を見下ろす湖畔にたつ文武廟を訪ねた時のことを書いています。文武廟とは孔子や関羽などを祭っている日本の神社のような場所です。その文武廟から湖に向かって下り林の抜けていくと、蒋介石の聖地という場所に出るといいます。そこは「中正広場」になっており日月潭を見渡すように蒋介石の像がたっているといいます。

 そのあたりを歩いていると、坂野氏の本からそのまま引用すれば、「今まで感じたことのない、手先がビリビリと痺れるような感覚に気がついた。」というのです。そのまま湖畔の松林を歩いて行くと、「はじめて感じる形容しがたい心地よい感覚と時間が飽和したような幸福な静寂につつまれていた。」という体験をしたといいます。

 つまり、そこが正に台湾の龍穴だというのです。風水学においては繁栄の源になる大きな運気の流れが「龍脈」であり、それは山脈を伝わって動き、地上に流れ出る特別な場所が「龍穴」だという。台湾の中央山脈には三千㍍を超す高山が連なっていますが、九つの龍脈がそこを南から北へ循環しているという。日月潭は台湾の中央にあり「龍気」が集まる地点なのだという。

 これを読んだ感想を率直にいえば、「本当かな?」という気持である。日月潭の文武廟には二度行っています。高台にある廟からの日月潭は確かにすばらしい。そこをちょっと下れば蒋介石の像のある「龍穴」近くに行けたので、今から考えると少し惜しい気がしていますが、しかし、本当に手がビリビリするような感覚に誰もがなるのでしょうか。

 坂野氏は、自分はけっして霊感が強い体質ではないとことわり、さらにその体験を聞いた知人がそこを訪ねると、同じような感覚を得たというのを聞いて唖然としたいう。

 気というものが存在することをけっして疑わないが、そのような大きな気の流れを誰もが感じられる場所が本当に存在するのであろうか。

 来春にはまた台湾行きを計画しているので、この「龍穴」の話が真実か否か確認してこようと思います。

台湾の中央山脈

2012年10月03日 | エッセー
台湾を南北にはしる中央山脈は、日本のアルプス山脈などよりはるかに雄大です。

富士山より高い玉山(3997m)をはじめとして、標高三千メートルを超える山が256峰あるのは驚きです。ちなみに、日本は三千メートルを超える山は21峰ですから、九州と同じ位の面積の台湾の山脈の規模の大きさが想像できます。

今年の夏、この中央山脈を縦断しました。
東西縦貫道路で東海岸の花蓮から埔里へ抜けるルートで、もちろん車です。

まず太魯閣峡谷から山へ登り始めました。舗装されており日光のいろは坂のような山岳道路です。2000mを超えるころからすこし道幅が狭くなったようですが、なかなか面白い行程です。途中、台中市に向かうわかれ道を過ぎて、埔里方面を目指します。

合歓山で小休止、駐車地点の標高は3150m、合歓山主峰は3416mです。冬は、雪も降り、台湾軍はここで雪訓をするそうです。駐車場のそばに登山者用の宿泊施設の合歓山荘があります。

そこから登山道が整備されていて楽に登れる石門山にのぼりました。駐車場から石門山頂上までは標高差が80mであり、30分くらいで山頂に登れました。乳飲み子を胸に抱いて山頂から下りてくる若いカップルがいるくらいなので、ほとんどハイキング感覚です。石門山は3237m、これまでに登った山の最高記録です。

雲を下に見て眺めは最高、晴れていれば、最高峰の玉山も見ることができるようです。緑の山肌や点在する池塘でスイスの山岳地帯のようです。また、霧が多いようで晴れていたかと思うと、あっという間に雲海で何も見えなくなり、それもつかの間、また日差しがもどり絶景が浮かび上がります。

そこを過ぎて東西縦貫道路の「武嶺」で車を降りました。標高は3275m、台湾で車で行ける最も標高の高い地点です。歩かずにこんな高山に登れてしまうのだから大変なものです。

宿泊は、青境農場という牧場より少し標高の高い地点にある民宿に泊まりました。民宿とはいっても日本の民宿とは違い、ホテルそのもので、そこにはSPA施設もあり水着で入浴も楽しめました。

翌日は青境農場で牧羊犬のショウを見た後、さらに下りはじめます。こんな山道なのに自転車で登頂を目指す若者が多いのに驚きました。若い学生風の女子に、チャーヨー(加油:頑張れの意味)と声をかけると、照れくさそうにこちらを見て笑っていました。台湾の若者は、やる気がありますね。さらに下り「霧社」という地点を通り過ぎ、埔里に到着です。

また行きたいルートです。

台湾独立派(2)

2012年09月25日 | エッセー
王育徳は、著書「台湾」のあとがきで

「台湾の独立は、台湾人が中国人と全面対決することである。中国から出た台湾人がなぜ中国人と対決せざろう得ないのか。その由来を追求しなければならない。」と言いましたが、

彭明敏は、その由来を追求し、国民党の中国人と対決しました。

彭氏は、鳳山出身・1923年生まれ、李登輝と同い歳でしょうか。東大から台湾大学に学び、さらにパリ大学で法学博士の学位を取得。彭氏に災いが降りかかったのは、台湾大学法学院の政治学主任教授のときでした。

1964年10月23日、警備総司令部は「反乱罪」の容疑で彭明敏を逮捕した。容疑の内容は、「台湾自救連盟」の名で宣伝パンフレット作成したためであった。

王育徳の「台湾」からの引用になりますが、そのパンフレット内容がすごい。時の権力者に対して、歯に絹を着せぬいいかたで、事の本質を喝破した。あまりにはっきりものを言われたので、蒋介石も度肝をぬかれ、どう処置しよいか戸惑ったと思われます。

パンフレットには、おおよそつぎのように書かれていたようです。

1、一つの中国、一つの台湾は厳然たる事実と主張。国府の唱える「正統中国」を真向から否定。大陸反攻は絶対に不可能といいきる。
中共の強大さは、百年来外国の侮りに甘んじてきた民族主義者たちの等しく誇りにするところで、腐敗無能の蒋介石のまねのできる業ではない。

2、誰のために、そして何のために戦うのか。
台湾人兵士の頭の中には、228事件で台湾人指導者を虐殺した恨みがあり、沈黙を守っているが、徹頭徹尾、蒋介石の「無言の敵」である。

3、宣言は最後に三つの目標と八つの原則を掲げている。1200万人の島民が省籍の如何を問わず、誠意
をもって合作し、新しい民主国家をつくり、自由世界の一分子として世界平和に貢献すべきだと説いています。

4、中国には二つの価値基準があった。一つは国民党の極右的なもの、一つは共産党の極左的なもの。われわれはこの二つの価値基準から離脱すべきであり、この二つの政権に対する依頼心をぬぐい去らなければならない。

5、国民党でも共産党でもない、台湾から第三の道、自救の道を選びださなけれなならない。

 それにしても彭明敏の勇気はすごい。単純明快にしかも思い切りよく蒋介石を「腐敗無能」と切って捨てたのは、さあどうだ、殺れるものなら殺ってみろというところでしょうか。考えようによっては、蒋政権を倒すための捨て石になる覚悟だったような気もします。こんなことがあっても、蒋経国はひたすらわが道をすすみますが、ようやく変化が見られたのは、彭明敏の事件の後、20年余がたってからでした。

1984年 「蒋経国伝」を出版した台湾出身のアメリカ人を殺害。しかし、この後、蒋経国は人が変ったように民主化に進みます。

1986年 民進党が成立します。これは、彭明敏が所属した「台湾自救連盟」と関係があるのでしょう。死を予感した蒋経国の頭の中には、蒋家の支配やめて台湾が民主的な国家になる見取図ができていたようです。
1987年 戒厳令解除
1988年 蒋経国死去
1996年 民主的な総統選挙

台湾出身の李登輝が総統に選出されて、民主化の道を歩き始めました。
  

台湾独立派(1)

2012年09月23日 | エッセー
王育徳が書いた「台湾」という単行本は、台湾人を理解するうえで大変参考になりました。

 著者は、1924年台南生れ、1943年東京大学文学部シナ哲学科に入学、台湾に戻った時、演劇活動を起こして国民政府を批判します。228事件でかろうじて一死を免れ日本へ亡命。この本を出版した当時の1963年当時は、明治大学教授でした。現在生きていれば、88歳になっています。当時、氏は「台湾独立連盟中央委員」とのことでしたが、今もこの独立連盟は存在しているのでしょうか。

 王育徳は「まえがき」で、本の出版に際して死を賭したと書いています。歴史という学術的な本を出版するのに決死の覚悟をするなどという状況は、現代の日本人が実感するのはむずかしい。しかし、蒋介石の国民党が支配していた台湾では、言論の自由はおろか歴史の研究すら認められてはおらず、台湾人が自分の歴史を知ろうとすること自体が弾圧の対象になったことを考えれば笑い事ではすまされません。たとえ出版するのが一応安全な日本であっても、国民党の手先はどこにでも入り込んでいるからと心休まることがなかったようです。

 実際、この決死の覚悟が現実のものになった事件が、この出版から21年後、アメリカで起きました。1984年、江南というアメリカ籍の台湾人ジャーナリストが「蒋経国伝」を出版しましたが、まもなく江南氏はサンフランシスコの自宅で国民党の秘密組織により射殺されました。王育徳の恐れていたことが現実のものになったのです。不法なテロなので殺害の理由はわかりませんが、支配者を簡単に論じプライバシーに触れたため、その怒りをかっただろうことは間違いありません。蒋家が支配する台湾では、民族・国家・歴史などの研究や発表は、国家反逆罪のように扱われていたようです。

 独立派の王育徳は怒ったように書いています。
台湾は台湾人のもので台湾人が真の台湾の主人公である。しかし、それが支配者の気に食わない。支配者は自分の都合にいいように歴史を歪曲し、権力と財力にものをいわせて歪曲した歴史を全世界に向けて宣伝した、と。
そして、
台湾の独立は、台湾人が中国人と全面対決することである。中国から出た台湾人がなぜ中国人と対決しなければならないのか。その由来を追求しなければならないという。

その由来を追求したのが彭明敏であり、テロで殺された江南だったのではないでしょうか。
台湾の歴史は、蒋経国の死後大きく変わっていますが、歴史として何が起こったのかを知ることは現代を理解するうえで大いに役立つと思います。

本省人と外省人

2012年09月21日 | エッセー

 台湾の社会を複雑にしているのは、本省人と外省人の存在だろう。

 本省人は、蒋介石が台湾に来る前から住んでいた住民だし、外省人は、大陸で共産党との戦いに敗れた国民党が台湾に逃れてきた時に、一緒に来た兵士やその家族だ。外省人は、大陸での抗争には負けたが、台湾では統治者として、本省人に命令し横暴な政治を行った。統治者にはなったが、外省人の多くは教育程度は低く、なにより道徳観念が希薄で、汚職などは日常茶飯事。そんな奴らに命令される本省人は腹がたって仕方がなかったのだ。

 この二つのグループは、今では228事件と呼ばれる衝突で最高潮に達し、外省人は本省人を徹底的に弾圧したという歴史がある。その後は、蒋介石とその息子の蒋経国の時代を通じて、戒厳令が敷かれ言論の自由はなく、本省人は自分たちの歴史すら学ぶことができない時代が続く。

 この恐怖政治は蒋経国の死まで続き、本省人が政治を自分たちの手に取り戻したのは、台湾生まれの本省人・李登輝が総統に就任した時だった。

 さて、前置きが長くなったが、政治の主役になった本省人は、自分たちこそが台湾人であり、国民党を中心とする外省人は単なる訪問者であり、本物の台湾人ではないという。台湾の大部分を占める本省人の多さからすれば、自然な結論だろう。

 ただ、わたしの脳裏には一つの疑問が残る。それは、もし蒋介石が率いる国民党が台湾に来なかったならば、台湾の歴史はどうなっていたかという点だ。国民党の抵抗がなければ、台湾は間違いなく「共産党」の統治下になっていただろう。

 とすれば、自由と外貨保有高世界一の台湾の今日の繁栄はなかったはずだ。仮想の結論だが、異論はないだろう。とすれば、国民党を中心にする外省人の存在は大いに意味があるのであり、外省人もやはり、台湾の歴史をつくった台湾人に違いないと思う。
 
 本省人は、このことをどう考えているのだろうか?