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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

台湾原住民(首狩り)

2013年01月19日 | 歴史
台湾原住民はどのような目的で首狩りを行ったのだろうか?

 そのこたえは「台湾蕃族風俗誌」という明治時代に出版された本の中にある。著者の「鈴木 質」は、植民地時代の台北に住んでおり、原住民の生活や習慣などを研究している。その本によれば首狩りの目的はつぎのように説明されている。

 首狩りは宗教的行事であり、まず吉凶を判断するときに行うとある。たとえば、新しい開拓した土地での農作業が豊作か否かを占うためとか、また流行性感冒で多くの死者が出たような場合、それは祖霊の怒りのためと考え、その怒りを鎮めるために行う場合などもある。また、一人前の男と認められるために行うこともあるし、ある女性と結婚を望んで張り合う男がいる場合、はやく首を獲った者がその女を得るというようなこともあるらしい。

 首狩りは、数人がグループになり、綿密な計画をたてて行うこともあれば、単独で行うこともあるという。馘首する首は、異民族とか敵対者であり、その行為は単純で、縁もゆかりもない人を襲う。恨みや強奪が目的ではないので、何の防備もない第三者、たとえば旅人や女性などを狙うのを得策とし、多くの場合、被害者は蕃人とはまったく面識のない人が多いという。首狩りに成功すると、蕃人は山地の動物のように、一目散に山奥に姿を消してしまう。

 首狩りは文明人からみれば、人道上許すことのできない残忍な行為だが、山地原住民にとっては祖先の遺風であり、かつ至上の道徳として神聖視し、無上の栄光と信じているという。

「出草」とは、首狩りの別語であり、首狩りという言葉は現在でも通用する言葉だが、この「出草」だけは、「生蕃の首狩り」以外には使われないと、「台湾蕃人風俗誌」に書かれている。

 パイワン族は「首狩り」に成功し、凱旋して社(蕃人の村をこう呼ぶ)に帰り、酒宴で歌う歌は、「首を獲られた汝の両親は鳶にヒナをさらわれた雌のごとく、心配しているだろう。汝が馘首されたのは不運として諦めよ、わが社の名誉である。」として、犠牲者の家族を思いやり、悲しむという細やかな感情をもつ場合もある。

 一方、首狩りの盛んなタイヤル像の場合は、馘首した首の口の中に食物を含ませ、ひもじさを感じさせないようにして、その家族をも呼び寄せて首狩りができるように願う。そこには犠牲者の家族を思いやる姿はない。部族により、首狩りに対する考え方は異なるようだ。  以上

台湾原住民(2)

2013年01月18日 | 歴史
 台湾の原住民は通常、熟蕃と生蕃の二つに分類されている。「熟蕃」とは、海岸地方に住み大陸から移住してきた漢人と融合し、文明化されている部族をいい、「生蕃」は、侵入者との混在を拒否し、山地で昔ながらの生活をしている部族のことういう。

 ここでとりあげるのは、この生蕃であり、日本が植民地政策をはじめた当初、頑強に抵抗した原住民のことである。

 生蕃である原住民の男子は七歳ころから、木登り、水泳、射撃、首狩り等の教育を受け、好戦的なタイヤル族などにおいては、先輩から戦いの武勇談を聞かされて育つという。

 首狩りの教育というのも物騒なはなしだが、原住民にとっては伝統の神事であり、私たち日本人が神社に行ってお賽銭をあげて願い事をするのとあまり変わりがない。

 この蕃人特有の「首狩り」の習慣を特に「出草」と呼ぶが、1895年にはじまる台湾の植民地政策をはじめたころ、現地の人々が恐れてのは、この生蕃による「出草」であった。

 ついでではあるが、出草で馘首した首をもちかえると、の女たちは狂喜して歓迎し、酒宴を開き勇士の武勇をほめたたえたという。男子は、異民族の首を獲ってはじめて一人前と認められるし、何個も馘首した男となれば、その名声は中に広まることになる。

 しかし、この「首狩り」の習慣は日本の領有以後は禁止され、熊や猪などを狩って満足するようになったが、首狩りの行為が全面的になくなるのには、かなりの年月を要している。   以上

台湾原住民

2013年01月17日 | 歴史
 昭和5年(1930年)、台湾中部の山岳地帯、霧社(現在は仁愛郷という)で日本人殺傷事件が起こった時、蕃人鎮圧のため作戦参謀として戦いの現場にいた台湾軍歩兵大佐の服部兵次郎は、蕃人の行動が日本人に似ているとの感想をもったことは前項で述べた。

 服部大佐が驚いたのはそれだけではなく、蜂起した原住民の強靭な体力についても報告している。事件後、司令部あてに提出した「霧社事件について」という報告書のことばを借りれば、「蕃人の身長は左程偉大というほどではないが、筋肉の締まった、比較的手足の長い、丁度ランニングの選手のような体格であった。」という。

 日常、彼等は裸足で生活しているが、足の裏の強靭なことは靴の裏と同じであり、葦の鋭い刈株を自由に踏んで走りまわるのはもちろん、有刺鉄線の鉄条網を平気で踏み越えることができたという。また、足の親指は内側に彎曲していて、斜面を踏ん張るのに適していたという。

 あるとき、日本軍の将校が高さ50メートルほどの削ったような岩壁を指さして、あれを登った者には「酒一升」あげようと冗談半分に言ったところ、即座に数名の男が猿のごとくすらすらと上まで登ってしまい、なみいる日本兵を驚かせたという笑い話まで報告している。

 この身体能力に関しての話だが、台湾ではじめて野球をやったのは、アミ族であり1923年(大正12年)ことであったという。花蓮港の丘にある花岡山グラウンドでアミ族を中心にした少年チームと地元の日本チームが対戦したが、アミ族エースの好投によりアミ族チームが勝ったという。

 さらに、このチームのメンバーが中心になり「能高団」という野球チームを結成、1925年日本遠征をしているという。日本各地を転戦して、なかなかの戦績を残したようであり、当時の朝日新聞は、訓練された立派なチームであり、あなどりがたい実力をもっていると評価した。
 
 この伝統は現在も受け継がれているようで、プロ野球の中日ドラゴンズで活躍した「郭源治」やローマオリンピックの十種競技で銀メダルを獲得したアジアの鉄人「楊伝広」は台湾原住民であり、二人ともアミ族出身であった。台湾原住民の驚異的な身体能力は現在も生きている。  以上


日本人と台湾原住民

2013年01月16日 | 歴史
日本人と台湾原住民の共通性についていくつかの根拠がある。

 一つは、植民地時代の台湾軍にいた服部大佐が、「霧社事件(1930年に起きた山地原住民による日本人殺傷事件)」直後に書いた報告書のなかにある。

 服部大佐は蕃人(当時、山地原住民をこう呼んだ)との戦闘の中で、彼等は日本人によく似ているという感想をもつようになる。蕃人とはいっても、文明を拒否しているだけであり、銃器をつかいこなす彼らにも、宗教観や死生観があることは服部大佐は知識としてもっている。

 死生観についていえば、異民族に対して恨みをもった場合、たとえば身内を殺されたり、領地を侵略されたりような場合、文字をもたない彼等は口づてにその恨みを伝承し、時がいたれば命がけで復讐を実行するという。このあたりの感情が忠臣蔵や武士道におけるあだ討ちに似ているのだろう。

 また、戦闘に参加する蕃人は、生きて帰る望みがないことを悟った場合は、あらかじめ妻や子供を殺してから戦いに行くこともあるし、戦いに敗れた場合は、家族ともども自決してしまうことが多かったともいう。このあたりの事情が、戦国時代の武将に似たものがあると感じたのであろう。

 さらに、蕃人との戦闘において、日本軍は「狄をもって狄を制す。」という作戦をとったことがあった。これは抜群の身体能力をもつ蕃人は山岳戦に優れていたため、日本軍は手を焼き、彼らに対抗するには、違う部族の蕃人を味方につけて対抗するのが得策であると考えからであった。
 あるとき、味方藩をつくるため蕃人を集めたが、その中に敵の蕃人がスパイとして潜入していた。そのスパイは不運にも、日本人に見つかってしまうが、その時その蕃人は蕃刀(小ぶりの日本刀のようなもの)を引き抜くと即座に自分の腹に突き刺して絶命したという。その時の蕃刀は背中から三寸(約9cm)くらい突き出ていたという。このいさぎよさに服部大佐は日本の武士道精神をみたようである。

 服部大佐は、蕃人の身体能力に目をつけて、彼らを日本軍人として採用し、当時泥沼に入っていた中国戦線や南方作戦に送りたいとの考えも付け加えているが、太平洋戦争がはじまると、蕃人は「高砂兵」として前線に出て行き、大佐の思惑は実現している。

 台湾の原住民がと日本人がその精神構造おいて似ているのは単なる偶然ではなく、同じ民族の流れをくむからだという説もある。

 それは明治29年(1897年)に発行された「台湾風俗史」という雑誌に紹介されている記事だが、台湾北部に住む原住民のことばと日本の九州地方の先住民のことばがよく似ているからだという。

 その説を要約すると、つぎのようになる。
台湾の蕃族、つまり原住民を大きく分けると九族になるが、台湾中部から北に住む原住民を北蕃、中部から南を南蕃という。北蕃は主にタイヤル族が主流だが、その人種が日本の九州地方の先住民とよく似ているという。

 その容貌骨格については、目は大きく睫毛は濃いが、よくみると極めて柔和な表情をしている。鋭さの中にも情愛のある眼差しは、薩摩人とよく似ているという。体は洗わないので一見その皮膚は黒く見えるが、よく見ればその皮膚は薩摩人と変わらないという。農事なども九州地方の農民のそれとよく似ているという。

 その理由として考えられるのは、九州人の一部が漂着して、台湾原住民と混和したのかもしれないという。さらに、似ている言葉をあげているが、参考までに書いておこう。

     標準日本語     九州語(薩摩族)   台湾語(タイヤル族)
     あの方       アアニイ       ヘエニイ
     物を借りる     チョイト       チョイト
     わたし       ヤッコ        ヤコ
     寝る        コロット       コロッポ
     杖         メタカ(盲人)    メタカ
     頭         ドンノクボ      ドンノク
     忌む        イヤ         イヤ
     妹         イモト        ウモ
     ものを煮る     イダル        イダウ(鍋)
     光る        ピラ         ピラ

 以上が日本人とタイヤル族などの北蕃の種族の共通していることの根拠だが、もっと調べてみる必要はあるだろう。       以上

誰も書かなかった台湾(3)

2013年01月12日 | エッセー
 鈴木明はその著書で「高砂族には美人がいる。」という、日本人の間に伝わる伝説に触れている。原住民に関する古い文献には、若い女性が多く写っているが、多くは特徴のある美人だという。わたし自身この情報に興味をもち、その美人というのはどのような顔かたちをしているのか見てみたくなり、日本の植民地時代の古い本を調べてみた。

 その美人の写真のひとつは、「霧社討伐写真帖」という1930年(昭和5年)に起きた「霧社事件」の直後に出版された雑誌に掲載されていた。霧社事件とは、山地原住民が日本政府の植民地政策に反抗して蜂起し、100人を超える日本人を殺害した事件のことである。

 その事件はともかく、その「霧社討伐写真帖」には、三人のタイヤル族の娘がならんで写っている写真がある。左にいるのが「バカン・ワリス」とう18歳くらいの娘、その妹の「ウマ・ワリス」が右側で妹は姉より多少背が高い、そして真中にその友達と思われる少し小柄な娘がいるが、名前は不明だ。これらの16歳から18歳位の娘たちは、黒髪を後ろに束ね、長袖の上着とズボンをはき、胸から下に前掛けのような手織の赤い蕃布を巻いており、三人とも裸足である。ネックレスをしているのは一応正装しているということだろうか。写真を前にして少し緊張しているのか笑顔はないが、確かにかわいいし、成長すればかなりな美人になる面影がある。日本人の間に伝わる「美人伝説」というのは、これらの美少女のことをいうのかなと思った。

 台湾の原住民の多くはマレー・ポリネシア系の流れをくむ民族といわれているが、台湾北部に住むタイヤル族は多少違っており、日本人に近い祖先をもつとも考えられている。見方によれば、日本美人としても十分通用する容姿であることは間違いない。

 山地現住民と日本人との共通性について、日本の台湾統治初期に発行された雑誌に面白い記事があるので、次項で紹介しよう。          以上