巡行23基目から。
23番目(先の巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、次の橋弁慶山、後の巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」
船鉾(ふねぼこ)
「くじ取らず」の船鉾。全体の23番目に巡行します。
これにはもうひとつ意味があって、「前祭の巡行の最後」を務めます。
このおもしろい形ゆえに人気があります。
名前の由来は、神功皇后をめぐる説話により鉾全体を船の型にしています。皇后の御神体は安産の神とされ、岩田帯を巻いて巡行し、巡行の後で妊婦に授与されるそうです。
船首には「鷁(げき)」と呼ばれる、伝説上の鳥が。
行く手のあらゆる艱難辛苦を乗り越えて旅を貫徹させるイメージから、船の守り神として船首の舳先にその像が取り付けられている。
黒く見える船の舵が見えますが、これは螺鈿(らでん)でできています。
寛政4年の作とされています。見事なものですね。
祇園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と「後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行が行われていました。
その後は7月17日に統一されましたが、「前祭」組が先に巡行し「前祭」最後尾の船鉾のあとに「後祭」組が続きます。
北観音山(きたかんのんやま)
「上り観音山」ともいわれ、後の祭の山鉾巡行の先頭にたつ。
毎年、外人さんが多いのもこの山の特徴かな。
鉾のように見えますが、「曳き山」
鉾頭の替わりに松がそびえる。
町内に三井家や松坂屋などの豪商も居住していたため、豪華な装飾品が数多くあります。
おっと、ここにも、タンチョウとマナヅル。
山の後ろに柳の枝が飾られているのがこの北観音山の特徴ですが、写せていませんでした。(涙)
ちなみに、柳の枝は、ご神体である楊柳観音が薬草を表す柳を持って人の中へ出向き、人々を病苦から救ったということによる。
橋弁慶山(はしべんけいやま)
弁慶と牛若丸が五条大橋の上で戦う姿を表しています。この山には山籠も真松ない古い形が残る。
舁山(かきやま)で唯一の「くじ取らず」。後祭の2番目を巡行する。
胴掛は、葵祭を絵巻風に牛車・近衛使・検非遣使などが描かれた「加茂祭礼行列図綴錦」で円山応挙の下絵とされています。
役行者山(えんのぎょうじゃやま)
修験道(しゅげんどう)の開祖である役行者が、一言主神(ひとことぬしのかみ)を使って葛城と大峰の間に石橋をかけたという伝説を表している。
山の上には役行者を中心に、一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の3体の御神体が安置されています。
ん~、肝心の役行者が写っていない。(涙)
八幡山(はちまんやま)
町内に祀られている八幡山をやまの上に勧請した山。
天明年間(1781~1788)(江戸後期)製作といわれる社殿は総金箔の精巧壮麗なものです。
祠には運慶の彫り物である、応神(おうじん)天皇騎馬像が祀られています。
鳥居には左甚五郎作と伝えられる鳩が飾られています。
祇園祭巡行その8(最終回)へ続く・・・
23番目(先の巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、次の橋弁慶山、後の巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」
船鉾(ふねぼこ)
「くじ取らず」の船鉾。全体の23番目に巡行します。
これにはもうひとつ意味があって、「前祭の巡行の最後」を務めます。
このおもしろい形ゆえに人気があります。
名前の由来は、神功皇后をめぐる説話により鉾全体を船の型にしています。皇后の御神体は安産の神とされ、岩田帯を巻いて巡行し、巡行の後で妊婦に授与されるそうです。
船首には「鷁(げき)」と呼ばれる、伝説上の鳥が。
行く手のあらゆる艱難辛苦を乗り越えて旅を貫徹させるイメージから、船の守り神として船首の舳先にその像が取り付けられている。
黒く見える船の舵が見えますが、これは螺鈿(らでん)でできています。
寛政4年の作とされています。見事なものですね。
祇園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と「後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行が行われていました。
その後は7月17日に統一されましたが、「前祭」組が先に巡行し「前祭」最後尾の船鉾のあとに「後祭」組が続きます。
北観音山(きたかんのんやま)
「上り観音山」ともいわれ、後の祭の山鉾巡行の先頭にたつ。
毎年、外人さんが多いのもこの山の特徴かな。
鉾のように見えますが、「曳き山」
鉾頭の替わりに松がそびえる。
町内に三井家や松坂屋などの豪商も居住していたため、豪華な装飾品が数多くあります。
おっと、ここにも、タンチョウとマナヅル。
山の後ろに柳の枝が飾られているのがこの北観音山の特徴ですが、写せていませんでした。(涙)
ちなみに、柳の枝は、ご神体である楊柳観音が薬草を表す柳を持って人の中へ出向き、人々を病苦から救ったということによる。
橋弁慶山(はしべんけいやま)
弁慶と牛若丸が五条大橋の上で戦う姿を表しています。この山には山籠も真松ない古い形が残る。
舁山(かきやま)で唯一の「くじ取らず」。後祭の2番目を巡行する。
胴掛は、葵祭を絵巻風に牛車・近衛使・検非遣使などが描かれた「加茂祭礼行列図綴錦」で円山応挙の下絵とされています。
役行者山(えんのぎょうじゃやま)
修験道(しゅげんどう)の開祖である役行者が、一言主神(ひとことぬしのかみ)を使って葛城と大峰の間に石橋をかけたという伝説を表している。
山の上には役行者を中心に、一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の3体の御神体が安置されています。
ん~、肝心の役行者が写っていない。(涙)
八幡山(はちまんやま)
町内に祀られている八幡山をやまの上に勧請した山。
天明年間(1781~1788)(江戸後期)製作といわれる社殿は総金箔の精巧壮麗なものです。
祠には運慶の彫り物である、応神(おうじん)天皇騎馬像が祀られています。
鳥居には左甚五郎作と伝えられる鳩が飾られています。
祇園祭巡行その8(最終回)へ続く・・・
一度、その由来を調べてみます。
余談ですが、太子山だけは松ではなくて「杉」を立てているそうです。
今確認したら、書き忘れていました。