さて……ここまでお話ししたことは、心理カウンセリングやコーチングの場面に限らず、人をサポートするときに共通する原則です。
僕たちがサポートしようとしている相手が、パートナー(配偶者)であれ、友人であれ、子どもであれ、部下であれ、クライアントであれ、聴衆であれ、サポートする側の僕たちにとって大切なのは、「相手の人生を切り開くための答は、相手の中にある」と心から信じてサポートすること。これは、言い方を変えると、「相手の人生を切り開くための答は、私にはわからない」という意識を持つことです。また、「相手の心の中に起きていることは、私にはわからない」という意識を持つことでもあります。
実はこれが、けっこう難しいことなんです。なぜならば、僕たちはすぐに、「わかったつもりになる」からです。
僕たちは、目の前で起きていることをありのままに観察するのではなく、自分の頭の中にある知識や経験に当てはめて、わかったつもりになってしまいます。
『U理論』の著者オットー・シャーマーは、これを「ダウンローディング」と呼んでいます。目の前のものごとを見ているようで、実は、自分の頭の中にある情報をダウンロードしているのです。僕たちは、目の前の人に対しても同様のことをしてしまいます。
相手のことを、自分が知っている理論や知識に当てはめて理解し、「わかったぞ」などと思ってしまうのです。
しかしこのダウンローディングでは、相手のことを本当に理解することはできないですよね。オットー・シャーマーによると、相手のことを深く理解しようと思ったら、ダウンローディングするのをやめて、(=相手に対して評価や価値判断を下すのをやめて、)「相手のことは、相手にしかわからない」「自分は相手の心の内のことまでは知らない」という視点に立ち、ニュートラルな好奇心をもって相手に対することが不可欠だということです。
しかし、若いころの僕は、心理学などを学ぶと、すぐに、学んだ理論やフレームワークを周りの人に当てはめ、そのフィルターを通して見たりしていました。これは典型的なダウンローディングですね。こうして、本当のその人のことが見えなくなっていくんです。
僕自身の反省を込めて、もう少し詳しく話しますね(^^;
僕が20代半ば~後半のころのことですが、当時、僕は、心理学を学んで覚えた理論やフレームワークを、仕事の仲間や後輩に当てはめて、そのフィルターを通して彼らを見たり、指導したりしていました。たとえば僕は、
「君が行動できない理由を僕が教えてあげようか。君は△△△△になることを怖れているんだよ。どう? ピンと来るでしょう。そして、その根本的な原因になっているのは、君の心の中にある『○○○○するべきである』というビリーフなんだよ。君はその非合理的ビリーフを信じ続ける気なの?」
だとか、
「君が人生で繰り返しているパターンの背後にあるのは、君の人生脚本というやつだよ。おそらく君は、子ども時代、□□□□な性格の親から育てられたんじゃない?・・・・・やっぱりそうなんだね。そして君は、そのとき作った人生脚本を今も採用し続けているんだよ。採用し続けるのも、手放すのも、君次第なんだよ」
なんて具合に、指摘するわけですね(^^;するとこれが、けっこう当たっていて、言われた方がグサッとくるんです。
「うわ、野口さん、それグサッと来ました。そのとおりですね、腑に落ちました。目からウロコが落ちました!」
みたいな感じで、その人に気づきが起きたりするわけです。そして中には、けっこう感動したり、喜んだりしてくれる人もいるわけですが、しかし、このような外発的な気づきは、
その人の根本的な変容にはつながりにくいんです。(一時的・短期的に変容したように見えることはありますが、やがて息切れします)
そして何よりも問題なことに、このようなやり方では、その人の「自ら考え、自ら見つけ出す力」が育たないし、また、その人が僕に依存するようになるんですね。(僕に依存的な尊敬心を抱くようになったりします)最初は僕も、そのような人たちが敬意を示してくれるので、なんとなく心地よかったのですが(^^;その人たちが仕事で結果を出せていないことに気づきました。僕はその人たちの自立を妨げるようなサポートをしていたのです。
さらに僕は、その人たちのことを深く理解できているわけではありませんでした。心理学的な理論に当てはめて、その人たちの「考え方のクセ」を指摘することをやっていただけで、本当の意味で、その人という人間を深く理解し受け入れることができていませんでした。それに気づいたのは、30代になるころに、本格的に心理カウンセリングを学ぶようになってからです。
自分のやっていたことが、いかにトンチンカンなことだったかを自覚したのでした(^^;
たしかに、目の前の人に対して、学んだ理論やフレームワークを当てはめて見れば、その人のことがわかったような気になるんですが、それは、本当の意味で、その人の深いところを理解したことにはならないんですね。人間というのは、そんな浅いものではないと思うんです。
「相手の人生を切り開くための答は、相手の中にある」
「相手の人生を切り開くための答は、私にはわからない」
「相手の心の中に起きていることは、私にはわからない」
という姿勢が大切だと思うんです。
この、「私にはわからない」という姿勢のことを、「無知の態度(無知のポジション)」と呼びますが、この「無知の態度(無知のポジション)」こそ、ダウンローディングを脱して、相手を深く理解する上で、とても大切な姿勢なんですね。
日本を代表するユング心理学者である河合隼雄先生の言葉も紹介しておきましょう。
河合先生は、クライアントの話を聴くときに、次の心構えで聴かれるそうです。
「今まで学んだ理論をすべて忘れて、目の前のクライアントの話に耳を傾ける」
「方向性を全部捨てた集中力で聴く(=導こうとしない)」
「何もしないことに全力を注ぐ」
「その人の中から何かが出てくるまで待つ」
(以上、『無為の力』 河合隼雄 著より)
また、「臨床心理と日本文化」という講演の中で、河合先生は、次のような話をされています。
「科学的な方法を人間にも当てはめようとするのはナンセンスです。科学の世界においては、客観的理論は万物に適用できます。しかし、人間にはおいては、そうはいかないのです。あなたに通用した理論や手法が、必ずしも他人に適用できるとは限らないのです。その人が自分で自分を探求するのを、私はサポートします。大切なのは、その人が内界を探求する場を作ってあげることです」
- 野口嘉則氏のメールマガジンより、ご本人の許可をいただき、転載させてもらい、3回の連載といたしました。 (澤谷 鑛)
「無知の態度」いいですね。
人は学べば学ぶほど、学んだことを使いたくなるものですが、その先に学んだことを忘れる世界があるのですね。
>人間にはおいては、そうはいかないのです
人間について知り、人間について学んでいくのは、実に奥が深くおもしろいものですね。
まさに、目の前の出来事をみずに、自分の頭の中にある情報をダウンロードしていました。
鏡に映っている現実を、ありのままの現実としてとらえず、自分の頭の中の情報をダウンロードした現実を現実としてみてたのでした。
なので、ありのままの現実にずれが生じて、心と肉体がついていかず、心に脚本を書かせている主体という存在(being)とその主観的道具(心)と客観的道具(肉体)がバラバラになり、息切れ状態でした。
私自身を深く理解するためには、ダウンローディング(自分自身に対して、評価や価値判断を下す)のをやめて、ニュートナルな好奇心をもって自分自身と対峙する。
<私の人生を切り開くための答えは、私のなかにある>
自分自身を信じて待とうと思います。
本日の記事に救われました。
ありがとうございました。
「本当の意味で、その人という人間を深く理解し受け入れること」
それは、具体的にはどうすることなのだろうか。
自分がやっていることはどうなのだろうかと
深く自問させられました。
「今まで学んだ理論をすべて忘れて、目の前のクライアントの話に耳を傾ける」
「方向性を全部捨てた集中力で聴く(=導こうとしない)」
「何もしないことに全力を注ぐ」
「その人の中から何かが出てくるまで待つ」
河合先生のご姿勢は、いつもいつもまっさらさらで
その人を、症例としてご覧にならない。
ただ一人の人としてご覧になられるのですね。
当たり前の事なのですが、忘れられがちなことですね。
なんと清々しいことかと思います。
しっかりと心に留めて、心がけていきたいことばかりです。
ありがとうございました。
あとダウンロードのお話や河合先生の言葉も勉強になります。
これからの電話相談に活かしていきます。
耳が痛くもある、大変ためになるお話でした。
ありがとうございました。