絆の法則

澤谷 鑛

身心脱落、脱落身心

2009-11-01 | Weblog
澤谷 鑛

 道元は、天童山におよそ1年いましたが、求める師が得られず、正師を求めて中国の諸山を巡りました。そんなとき、道元は如浄(1163年~1228年)の名声を聴きます。
 ところが、道元が天童山を去った直後に、如浄は天童山徳禅寺に入りました。道元はふたたび天童山に戻ってきました。
『正法眼蔵』面授の巻には、大宋の宝慶元年(1225年)五月一日に、道元ははじめて如浄に会ったことが書かれています。

 道元は如浄禅師についてひたむきな坐禅修行を続けます。
 夏安居(げあんご)の最中、大勢の僧が早朝に坐禅をしていました。すると一人の雲水が坐禅中に居眠りをしました。如浄は、大きな声で叱りつけ、居眠りする僧に警策(きょうさく:禅宗で、座禅中の僧の眠けや心のゆるみ、姿勢の乱れなどを戒めるため、肩などを打つ木製の棒)を加えました。
「坐禅の修行をすることは、心塵(しんじん)脱落のためなのに、おまえはひたすら居眠りばかりをしているではないか。そんなことで参禅の目的である、おまえの本質をあらわすことができるのか」
 と如浄禅師は言ったのです。
 その如浄の言葉で道元は悟りを開いた、と言われています。
 如浄は“心塵脱落なるべし”と語ったのですが、道元は“身心脱落なるべし”と聴いたというのです。
「坐禅とは心の塵を払うこと」と言った如浄に、道元は「坐禅とは身も心も超えて真実の存在に出会うこと」と聴いたのです。聞き違いなのですが、それで悟りが開けたのです。

 道元は如浄の部屋におもむき、焼香礼拝しました。
「なんのための焼香か?」
 と如浄が問います。
「身心脱落し来(きた)る」
 と道元が答えます。
「身心脱落、脱落身心」
 と師の如浄は言い、弟子の道元の悟りを認めました。
 しかし、道元はこのように言います。
「師よ。これはほんの少しの間(暫時)の手並み(伎倆:ぎりょう)です。私をみだりに認め(印可)ないでください」
「わしはみだりに印可したりはしない」
「では、そのみだりに印可しないところのものは、何なのですか?」
「脱落、脱落」
 如浄は、そのように道元の大いなる悟りを認めました。

 居眠りする僧には「心塵脱落」といい、道元には「身心脱落」という如浄禅師は、一体どこをみていたのでしょうか。

 弟子の道元は26歳、師の如浄は63歳の夏のことです。

 
 
 

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
気づく (三谷和英)
2009-11-01 06:33:37
自分に対してではない言葉によって悟る。

しかも聞き違い。

このようなこともあるのですね。

自分の周りにも、たくさんの大切なメッセージが飛び交っているが、

ただそれに、気づかずに過ごしているだけなのではないかと感じました。
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無限の暗示を秘めて (澤谷 鑛)
2009-11-01 07:27:01
三谷和英さん。

「心塵脱落」(しんじんだつらく・しんじんとつらく)も「身心脱落」(しんじんだつらく・しんじんとつらく)も、発音は同じで意味がまったく違いますからね。箸を持って橋の端を渡る、なんて方がまだ分かり易いですよね(笑)。

言葉は聞く人によって誤解がつきまとう可能性がありますね。しかし、それも批評のように結局自分を語っているのかもしれません。

その意味では、三谷さんのいわれるように「たくさんの大切なメッセージ」が無限の暗示を秘めて「飛び交っている」のかもしれませんね。
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聞き違いではあるが・・ (山さん)
2009-11-01 09:12:42
道元は、ずっと悟りの意味を見出せずに悩んでいました。
よって、「悟りとは何か?」と四六時中考えていたため、そのヒントに出会えたとき、それを感知する第6感のようなものを働かせる準備が常に出来ていたのではないか、と思うのです。

そのため、聞き違いなのにそこから答えを導いてしまった、ということなのでしょうか。

何かを成し遂げようとするところには、ひょんなところから助けがくる、ということが言われますが、これもそういった例の一つなのでしょうかね。

生きているなかにおける一つ一つの出来事との出会いに、ヒントや答えがちりばめられている、ということのでしょう。
嫌な出来事や、気に入らない人と出会いなどにもそういった意義のある要素が含まれているのかもしれませんね。
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よくよく教えてくれている (澤谷 鑛)
2009-11-01 09:40:39
山さん

そうですね。道元が思考し思惟しつづけていることが、おそらく引き寄せたということなのでしょうね。

翻って、このことをこのように私は考えたことがあります。
居眠りする雲水と道元では、格が違うのではないか? 居眠りするなまくらな僧に比べて、日本から危険を冒してまでも中国に渡り、求道する姿勢は、根本的に精神が違うのではないか? 居眠る雲水は道元と比較すると「下」、と最初に知ったときに思いました。学生時代の話ですが……。

ところが、この話を纏めるにあたり、最近心に浮かんだのは、この居眠りする雲水がいなければ、如浄禅師は「心塵脱落」とは言わなかったのですから、言わなければ道元はたとえ誤解であっても悟らなかったのではないか? 否、そんなことはないでしょう。このことがあってもなくても道元は悟ったでしょう。

しかし、この話は、私のような禅の素人にもわかりやすく教示してくれているようにも思います。ということは、この居眠りする雲水が道元のことをよくよく教えてくれているということです。では、居眠りする僧は道元と比較すると「上」、ともとれます。が、「上」も「下」もないのでしょう。それが人生なのかもしれません。

精神科医の山さん、まだチョット言い終えていませんが、何か又感じたら、教えてください。
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本来の師は自分自身(自分自神) (ほずま)
2009-11-01 15:24:22
聞き違いで悟りが開けた道元は凄いですね。

本来の師は自分自身(自分自神)なのでしょうね。

素敵なお話をありがとうございます。
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「仏向上」の世界を師とした (澤谷 鑛)
2009-11-01 15:39:05
ほずまさん。

「トークライブ」にご参加いただき、はじめてお会いしました。ありがとうございました。

70年代「自立の思想的拠点」などという言葉が横行してい、それは何なのだろう? と考え、読み、探したものです。

ほずまさんの道元の凄さへの批評と「本来の師は自分自身(自分自神)」という言葉に、道元のいう「仏向上」の世界を師とした考え方に納得しました。

コメントをmixiにいただき、ありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
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「身心脱落」という自由さ。 (さくらみるく)
2009-11-02 15:11:12
【「身心脱落」という自由さ。】
ほずまさんは、「聞き違いで悟りが開けた道元は凄いですね。」と、書かれました。確かにすごいのですが、その聞き違えられた道元の解釈を同じ音でありながらすぐに理解できた如浄もまた飛びぬけてすごいですね。ものすごく高レベルなやり取りがされていることに、舌を巻く思いです。

このお話は何度か伺っているものですが、このたび 「心塵脱落」と聞いた時に、なんだか近視的な狭い視野を感じました。

「心の塵芥を払え」という意味なのでしょうが、どれが塵やら芥やらと自分の状態にばかり気を取られるうちに、別の迷いに踏み込んでいってしまいそうな狭さを感じたのです。心の塵も芥も、生きていく上で絶えず出てくる薪ストーブの灰のようなものであり、気を取られすぎては結局自分に対する拘りの迷いが深まるだけであるように思えます。

塵や芥を生み出す自分それ自体が実は本質ではないのだから、最初から本質ではないものに拘る必要が無い。そういう意味での「身心脱落」。つまり身にも心にも拘らずに投げ出してしまう。という言葉になったのかもしれないと感じます。

大体肉の思いは心の思いに反して、肉こそが塵芥を生む元凶であることが多いようにも思えます。だからこそ、元の「心塵脱落」という言葉では「心」しか使われていませんが道元の解釈では「身心」、つまり身と心、両方について語られたのかもしれません。

かつてはわたしも、自分の心から塵芥を払い、自分の心が清くなることを願った時期がありました。でも、そんなことには何の意味も価値もなかったような気が、今はしています。いくら洗っても塵芥は無限に生まれて無限に自分は汚れ続ける。でも、いくら塵芥にまみれようが、自分の中には決して汚れない本質がある。ならば本質でない所でいくら汚れようが何も関係などない。そして汚れるからこそこの世のことがわかり、この世との接点が生まれるのだから、ならば進んで汚れに手も足も突っ込んでいいのだと思います。その自由さの中では、自身を清く保とうとする努力が、なんとも不自由でつまらなく、狭く思えてなりません。

不自由さを見て不自由であるとわかるほどに、自由を知るようになってきたのでしょうか。楽しくなってきている自分がいます。

ありがとうございました。
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人生の意義 (澤谷 鑛)
2009-11-02 20:17:49
さくらみるくさん。

「心塵脱落」すなわち心を澄ますことができなければ、当然「心身脱落」すなわち身も心も越えてほんものの存在と対面するということもできないでしょう。
だから、「心塵脱落」が「心身脱落」よりも狭いということはないわけで、「心塵脱落」がなければ「心身脱落」はないわけですからね。

塵や芥は本質ではありませんが、本質のみで人生は出来てはいません。そこに人生の意義をみつけだせるというか、人生の意義が示唆されているように思います。
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