おはようございます。
みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
本日は2012年2月3日のブログから抜粋させていただきます。
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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(2)
さて、『碧巌録』の「第一則 聖諦(しょうたい)第一義」の「本則」ですが、『本則』というのは禅の公案(こうあん)といわれるものです。優れた禅者の言行を記して参禅学道の課題としたものを公案といいます。
『碧巌録』には百則の公案を書き抜いて編纂されています。その第一則は、梁(りょう)の武帝(ぶてい)が達磨(だるま)大師に問う物語なのです。
天竺(インド)から支那(中国)に達磨大師がはるばるやってきた。仏教に熱心な武帝は、鄭重(ていちょう)に達磨を招き入れました。
「私は即位以来三年、今日まで多くの寺院を造り、写経をし、僧侶たちを篤くもてなしてきましたが、これらの行いにいかなる功徳があるでしょうか?」
と武帝が問うと、
「みな功徳無し」
と達磨は応えます。武帝は、
「何が根拠で功徳が無いといえるのですか?」
「人間も天人も煩悩(ぼんのう)のあるものである。功徳が欲しいと寺を造ったりしてみても、その心の中は、見苦しい。功徳が欲しい、ご利益が欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しい、というのであれば、欲しいという執着と煩悩以外のなにものでもない」
執着と煩悩のもとを積み重ねているのだから、善い行いの姿をしていながら、その影のようなものであって、そんなものは有って無きが如し、と達磨は言ったのです。
すると武帝は、やはりまだ功徳が欲しいのか、聞きました。
「ほんとうの功徳とはどんなものですか?」
「上智(じょうち)圓明(えんめい)にして體(たい)自(おのずか)ら空寂(くうじゃく)、是の如きの功徳は世を以て求むべからず」
達磨は、私の知恵はからいではない澄み切った神智で、執着や煩悩の波のない湖面にまんまるくて明るい透きとおった満月が映るように、そのままのはからいのない神智が映るのです。この世の功徳を願っているようなことでは、求めることのできないものだと言うのです。
達磨は、「體自ら空寂」というわけですが、肉体が象徴するこの世、また欲しいや功徳の象徴する心の世界がなくなる、というのです。小林秀雄は、無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ることと「無私の精神」でいっていますが、功徳のないのがまさに功徳ということでしょうか。
達磨は、上智という言葉を使っているのですが、神智ということです。仏教に神の智慧が出てくるのがおもしろいと思いました。
「如何なるか是れ聖諦第一義」
と武帝は聞きます。では、みずみずしいまっさらさらな濁りのない悟りとは何であるのか? 教えて下さい。といったのです。達磨は、
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
という。晴れ渡った青空のように一点の雲もないように聖なるものも、悟りもない。聖だ、悟りだ、功徳だ、とひっかかってはならない。
すると武帝は、聖なるものも悟りもない、にひっかかってしまいます。
「何もないというがここに悟った聖者のあなたがいるではないか?」
「識らず」
と達磨は答えます。武帝は達磨の境地にまで行けなかったのです。問答にならない。問いと答えがちぐはぐなのです。境地が違うのです。問答無用と達磨は揚子江を渡って魏(ぎ)の国に行きました。
武帝は達磨という高徳の僧をこの国からさらせるのではなかった、と使者を遣わしたのですが、達磨は帰って来ませんでした。
執着や煩悩や悟りや功徳など、何もつかむものがなければ、そこにからりと晴れた青空に清風が吹き、実に爽やかに自由自在の境地があらわれる。そこにはそのままで、すでにその聖諦(しょうたい)があるではないか、というのです。日常生活の中に聖諦(さとり)がある、というのです。
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本日オフィシャルブログでは、廣さんの
悦月さんの「清い水」
を掲載させて頂いてます。
どうぞご覧下さい。
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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京開催決定!!
6/2中央区立産業会館
受付開始しました。
http://www.kou-sawatani.com/sem-hls.html#sem01
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みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
本日は2012年2月3日のブログから抜粋させていただきます。
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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(2)
さて、『碧巌録』の「第一則 聖諦(しょうたい)第一義」の「本則」ですが、『本則』というのは禅の公案(こうあん)といわれるものです。優れた禅者の言行を記して参禅学道の課題としたものを公案といいます。
『碧巌録』には百則の公案を書き抜いて編纂されています。その第一則は、梁(りょう)の武帝(ぶてい)が達磨(だるま)大師に問う物語なのです。
天竺(インド)から支那(中国)に達磨大師がはるばるやってきた。仏教に熱心な武帝は、鄭重(ていちょう)に達磨を招き入れました。
「私は即位以来三年、今日まで多くの寺院を造り、写経をし、僧侶たちを篤くもてなしてきましたが、これらの行いにいかなる功徳があるでしょうか?」
と武帝が問うと、
「みな功徳無し」
と達磨は応えます。武帝は、
「何が根拠で功徳が無いといえるのですか?」
「人間も天人も煩悩(ぼんのう)のあるものである。功徳が欲しいと寺を造ったりしてみても、その心の中は、見苦しい。功徳が欲しい、ご利益が欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しい、というのであれば、欲しいという執着と煩悩以外のなにものでもない」
執着と煩悩のもとを積み重ねているのだから、善い行いの姿をしていながら、その影のようなものであって、そんなものは有って無きが如し、と達磨は言ったのです。
すると武帝は、やはりまだ功徳が欲しいのか、聞きました。
「ほんとうの功徳とはどんなものですか?」
「上智(じょうち)圓明(えんめい)にして體(たい)自(おのずか)ら空寂(くうじゃく)、是の如きの功徳は世を以て求むべからず」
達磨は、私の知恵はからいではない澄み切った神智で、執着や煩悩の波のない湖面にまんまるくて明るい透きとおった満月が映るように、そのままのはからいのない神智が映るのです。この世の功徳を願っているようなことでは、求めることのできないものだと言うのです。
達磨は、「體自ら空寂」というわけですが、肉体が象徴するこの世、また欲しいや功徳の象徴する心の世界がなくなる、というのです。小林秀雄は、無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ることと「無私の精神」でいっていますが、功徳のないのがまさに功徳ということでしょうか。
達磨は、上智という言葉を使っているのですが、神智ということです。仏教に神の智慧が出てくるのがおもしろいと思いました。
「如何なるか是れ聖諦第一義」
と武帝は聞きます。では、みずみずしいまっさらさらな濁りのない悟りとは何であるのか? 教えて下さい。といったのです。達磨は、
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
という。晴れ渡った青空のように一点の雲もないように聖なるものも、悟りもない。聖だ、悟りだ、功徳だ、とひっかかってはならない。
すると武帝は、聖なるものも悟りもない、にひっかかってしまいます。
「何もないというがここに悟った聖者のあなたがいるではないか?」
「識らず」
と達磨は答えます。武帝は達磨の境地にまで行けなかったのです。問答にならない。問いと答えがちぐはぐなのです。境地が違うのです。問答無用と達磨は揚子江を渡って魏(ぎ)の国に行きました。
武帝は達磨という高徳の僧をこの国からさらせるのではなかった、と使者を遣わしたのですが、達磨は帰って来ませんでした。
執着や煩悩や悟りや功徳など、何もつかむものがなければ、そこにからりと晴れた青空に清風が吹き、実に爽やかに自由自在の境地があらわれる。そこにはそのままで、すでにその聖諦(しょうたい)があるではないか、というのです。日常生活の中に聖諦(さとり)がある、というのです。
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