おはようございます。
みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
ブログ読者の皆様、いつも購読戴きありがとうございます。事務局の竹本祐介です。
皆様ゴールデンウイークはどのように過ごされましたでしょうか?
僕は10数年ぶりに地元に帰ってみました。
千葉県船橋市にあるマンモス分譲団地なのですが、ここに5歳から成人するぐらいまで住んでいました。
久しぶりに訪れた故郷は定期的な改装をしている為かとても綺麗で、当時の感覚が鮮明に戻ってきました。
当時の感覚と言うより過去に戻ってしまったような感じもしたし、過去から未来にタイムスリップしてきた感じもしました。
澤谷先生にその話をしたところ、
「日々接している日常空間とその異空間に感じたものは一緒だ」
と言ってました・・・
僕が置き去りにしてきた過去が今も変わらずに、そこにあった気がします。
異空間ではなく、同じ空間である事を認識する為に、僕にしなくてはいけない事がまだあるような気がします。
大型連休が終わり、今日からまた通常どうりの生活が始まります。
僕にとっては誕生月です。一番好きな新録の季節にワクワクしています。
5月病なんて言葉がありますが、今、目の前にある幸せに感謝して顔晴っていれば大丈夫!!
万が一5月病にかかってしまったら、澤谷先生のセミナーに来て元気を取り戻して下さい。
各会場にてお待ちしています。
さて本日は2012年2月6日のブログから抜粋させていただきます。
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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(5)
文殊(もんじゅ)菩薩と無著(むぢゃく)禅師とは、互いに時代がことなるから、このように現実に相見えることはないはずです。
無著禅師が初めて文殊のお寺に行ったとき、道が遠く行き着くまでに日が暮れました。近くに古いお寺があり、一夜泊めてもらいました。その寺の老いた和尚は、仏教の造詣が深く、ほとんど徹夜で、無著は教えられることが多かったといいます。
翌朝、無著禅師が出かけようとすると、その寺の和尚は、一人の童子を見送らせました。門外に出たとき、無著禅師は童子に聴きました。
「このお寺はなんといお寺ですか? そして和尚はなんという高僧ですか?」
童子は、紋の左右に立っている仁王を指して、
「仁王の後ろを見なさい」
といいます。なにがあるのかと無著が目を凝らした瞬間、すべての姿が消え、そこは広い雑草のおおい茂る野原であったといいます。その古いお寺の和尚は、文殊菩薩であって、神通力によって無著禅師をねぎらったのだ、とわかったというのです。
前回の文殊と無著の対話のあとに、ある書には、夢の中でのこの問答の続きが載っています。
門外に出たとき、無著は童子に尋ねます。
「和尚は前三三後三三といわれましたが、それはどれほどの数をいわれたのでしょうか?」
童子は無著禅師に、
「大徳!」
と大きな声で叫びました。無著禅師は、自分を尊敬して「大徳!」と呼びかけたのだと受け取り、「はい」と応じました。童子は、
「大徳の大というのはどれほどの大きさだと思いますか?」
と問います。無著は自分の徳の大きさを観ようとしたとき、童子もお寺も消えて、目が覚めたのでした。
徳の大小、セミナー聴聞者の多少の問題ではない、何がほんもので何がにせものなのか、何が真実で何が夢の中のものなのか、それらを見分ける眼を持つことが大切である。と同時に、しあわせな人生の実現をサポートするため、縁ある人を出来る限り結集するというのは、ほんとうの大徳なのでしょう。
そこで、三つの眼で考えてみることにします。
ひとつは「見の目」とも呼ばれる肉眼です。
もうひとつは「観の目」と呼ばれる心の眼です。心は、心ころころと絶え間なく変わるので心だと笑いながら言った人がいましたが、徹底して澄むこともできるし、濁ることもできるのが、この眼です。澄んだ心で自分と対面すれば、道元のいう仏向上の存在に出会うと言うことになるのでしょう。その心は、澄んで仏向上心と呼ばれるものなのでしょう。
三つ目の「眼」は、【垂示】に「頂門上に眼あり」と書かれていますが、両眼の他に額にもうひとつの眼があるというのです。現実世界に起こる前の心の世界の兆しを観るというものです。
「観の目」のどれほど澄んだものなのか? はたまたどれほど濁ったものなのか? 見極める眼をいいます。心眼とか隻眼という言葉があります。
「心眼」とは、辞書によると、
「心の目によって目に見えない真実を見抜く力のことである。武術においては重要視される。漫画や小説などのフィクションやオカルトでは超能力の一種であるかのように扱われている。具体的には目や耳などの感覚器で知覚することが出来ない情報を経験と想像力で推論することによって見えない物の具体的な形質や挙動を把握すること、また科学的な推論に基づいて見えない物の本質を理解する能力のことである。武術においては相手の挙動を予測して行動することで相手を制することを心眼で見切ったなどと表現している。」
とあります。
「見の目」でみると想像上の動物である龍など見えるはずがありません。しかし、「観の目」でみると龍にも蛇にも、蛇も大小・無毒有毒もみえてきます。今、という時空間において、龍なのか蛇なのか? 聖なのか俗なのか? を見極める眼をいいます。
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本日オフィシャルブログでは、
澤谷 鑛先生の
「カップルでもおかしくない歳の差だもんな」
を掲載させて頂いてます。
AM10:00より
山口 悟さんの
「孫兵衛の話」
を掲載します。
どうぞご覧下さい。
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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京開催決定!!
6/2中央区立産業会館10:00~16:00
ヒューマンライフセミナー in 東京は5月、7月の開催がありません。
今回席が少ないので、この機会を逃さずに、今すぐお申し込みください。
http://www.kou-sawatani.com/sem-hls.html#sem01
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みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。
ブログ読者の皆様、いつも購読戴きありがとうございます。事務局の竹本祐介です。
皆様ゴールデンウイークはどのように過ごされましたでしょうか?
僕は10数年ぶりに地元に帰ってみました。
千葉県船橋市にあるマンモス分譲団地なのですが、ここに5歳から成人するぐらいまで住んでいました。
久しぶりに訪れた故郷は定期的な改装をしている為かとても綺麗で、当時の感覚が鮮明に戻ってきました。
当時の感覚と言うより過去に戻ってしまったような感じもしたし、過去から未来にタイムスリップしてきた感じもしました。
澤谷先生にその話をしたところ、
「日々接している日常空間とその異空間に感じたものは一緒だ」
と言ってました・・・
僕が置き去りにしてきた過去が今も変わらずに、そこにあった気がします。
異空間ではなく、同じ空間である事を認識する為に、僕にしなくてはいけない事がまだあるような気がします。
大型連休が終わり、今日からまた通常どうりの生活が始まります。
僕にとっては誕生月です。一番好きな新録の季節にワクワクしています。
5月病なんて言葉がありますが、今、目の前にある幸せに感謝して顔晴っていれば大丈夫!!
万が一5月病にかかってしまったら、澤谷先生のセミナーに来て元気を取り戻して下さい。
各会場にてお待ちしています。
さて本日は2012年2月6日のブログから抜粋させていただきます。
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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(5)
文殊(もんじゅ)菩薩と無著(むぢゃく)禅師とは、互いに時代がことなるから、このように現実に相見えることはないはずです。
無著禅師が初めて文殊のお寺に行ったとき、道が遠く行き着くまでに日が暮れました。近くに古いお寺があり、一夜泊めてもらいました。その寺の老いた和尚は、仏教の造詣が深く、ほとんど徹夜で、無著は教えられることが多かったといいます。
翌朝、無著禅師が出かけようとすると、その寺の和尚は、一人の童子を見送らせました。門外に出たとき、無著禅師は童子に聴きました。
「このお寺はなんといお寺ですか? そして和尚はなんという高僧ですか?」
童子は、紋の左右に立っている仁王を指して、
「仁王の後ろを見なさい」
といいます。なにがあるのかと無著が目を凝らした瞬間、すべての姿が消え、そこは広い雑草のおおい茂る野原であったといいます。その古いお寺の和尚は、文殊菩薩であって、神通力によって無著禅師をねぎらったのだ、とわかったというのです。
前回の文殊と無著の対話のあとに、ある書には、夢の中でのこの問答の続きが載っています。
門外に出たとき、無著は童子に尋ねます。
「和尚は前三三後三三といわれましたが、それはどれほどの数をいわれたのでしょうか?」
童子は無著禅師に、
「大徳!」
と大きな声で叫びました。無著禅師は、自分を尊敬して「大徳!」と呼びかけたのだと受け取り、「はい」と応じました。童子は、
「大徳の大というのはどれほどの大きさだと思いますか?」
と問います。無著は自分の徳の大きさを観ようとしたとき、童子もお寺も消えて、目が覚めたのでした。
徳の大小、セミナー聴聞者の多少の問題ではない、何がほんもので何がにせものなのか、何が真実で何が夢の中のものなのか、それらを見分ける眼を持つことが大切である。と同時に、しあわせな人生の実現をサポートするため、縁ある人を出来る限り結集するというのは、ほんとうの大徳なのでしょう。
そこで、三つの眼で考えてみることにします。
ひとつは「見の目」とも呼ばれる肉眼です。
もうひとつは「観の目」と呼ばれる心の眼です。心は、心ころころと絶え間なく変わるので心だと笑いながら言った人がいましたが、徹底して澄むこともできるし、濁ることもできるのが、この眼です。澄んだ心で自分と対面すれば、道元のいう仏向上の存在に出会うと言うことになるのでしょう。その心は、澄んで仏向上心と呼ばれるものなのでしょう。
三つ目の「眼」は、【垂示】に「頂門上に眼あり」と書かれていますが、両眼の他に額にもうひとつの眼があるというのです。現実世界に起こる前の心の世界の兆しを観るというものです。
「観の目」のどれほど澄んだものなのか? はたまたどれほど濁ったものなのか? 見極める眼をいいます。心眼とか隻眼という言葉があります。
「心眼」とは、辞書によると、
「心の目によって目に見えない真実を見抜く力のことである。武術においては重要視される。漫画や小説などのフィクションやオカルトでは超能力の一種であるかのように扱われている。具体的には目や耳などの感覚器で知覚することが出来ない情報を経験と想像力で推論することによって見えない物の具体的な形質や挙動を把握すること、また科学的な推論に基づいて見えない物の本質を理解する能力のことである。武術においては相手の挙動を予測して行動することで相手を制することを心眼で見切ったなどと表現している。」
とあります。
「見の目」でみると想像上の動物である龍など見えるはずがありません。しかし、「観の目」でみると龍にも蛇にも、蛇も大小・無毒有毒もみえてきます。今、という時空間において、龍なのか蛇なのか? 聖なのか俗なのか? を見極める眼をいいます。
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本日オフィシャルブログでは、
澤谷 鑛先生の
「カップルでもおかしくない歳の差だもんな」
を掲載させて頂いてます。
AM10:00より
山口 悟さんの
「孫兵衛の話」
を掲載します。
どうぞご覧下さい。
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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京開催決定!!
6/2中央区立産業会館10:00~16:00
ヒューマンライフセミナー in 東京は5月、7月の開催がありません。
今回席が少ないので、この機会を逃さずに、今すぐお申し込みください。
http://www.kou-sawatani.com/sem-hls.html#sem01
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