Twitterを見ていると、「能登半島地震」についてのツイートが流れてくるが、その中でも何人かの政治家や研究者が、地震の被災地を「復興」させるのではなく、「移住」を進めたほうが良いのではないか、という意見を述べていた。早速、「ショック・ドクトリン」が現れ始めたというべきだろうか。地震発生から日付的には今日で二週間である。まだ二週間しかたっておらず、被害の全容も判明しないばかりか、被災者に食料や住処も行きわたっていない段階で、そもそも「移住」という話をするべきなのだろうか。この主張の論点は、能登半島の過疎化に対して、被災地のインフラを整備するよりもそこを放棄して、住民は別の場所に移り住んだ方が、経済的にも採算がとれ、生活も効率的になるというものだ。しかし、これは地震によって破壊された場所の「再開発」を目論んでいるに等しい。
まず第一に行うべきことは、被害を受けた地域の電気・ガス・水道・通信や道路の復旧を進めることであり、また水や食料が行き届かないところに届くようにする方策を考えることであって、政治家や研究者が住民そっちのけで、「移住」によって能登の経済効率を議論したり、インフラの民営化=放置をどさくさに紛れて主張するべきではないだろう。このような政治家や研究者の「移住」の強調は、ナオミ・クラインが指摘した「ショック・ドクトリン」(「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」)と言わざるを得ない。この「移住」という主張は、地震によって破壊された地域を住民に放棄させ、その空いた土地を安く買いたたき、リゾート地にしたり原発にしたりと、結局は資本家のいいように地域を資本化する口実となり得るのである。このような主張が、地震後わずか十日余りで出てくるのは、東日本大震災の東北や北海道と同じように、能登も経済的には〈劣った地域〉として、蔑視され差別されているということに他ならないだろう。要は「復興」させる価値はないから放棄しろということである。
このようなツイートを受けて、ある人々は「移住」の提案を、地震をめぐる感情論を排した客観性と経済原理で考えた、能登のための意見だとして歓迎している。実際、能登は過疎化し、経済的にもインフラを維持するメリットがない。そこで地震をきっかけに「移住」を提案することは、経済原理的に〈正しい〉ということになる。だがこの場合の経済原理や経済効率とは、〈だれ〉のためのものなのだろうか。経済原理的に「移住」を進めている体にはなっているが、この判断の基礎には、経済原理を口実にした、「北陸」への〈差別〉が根底にあると見做すべきだと考えられる。クラインの著書『ショック・ドクトリン』でも論じられていたが、「惨事便乗型資本主義」は貧しかったり再開発が難しい場所を、「大惨事」に付け込んで〈更地〉にして、資本家が使いやすいような民営化された土地としてしまう。そのような経済的に弱い地域への差別感情は地震によってさらに増幅し、その差別感情に便乗して強引にその地域を再開発するのだ。差別感情を利用するわけだから、その地域以外の人は被災地に無関心になりやすいし、差別的に軽視する可能性がある一方で、逆に資本家による被災地の民営化や再開発を根拠のあるものとして支持しやすくなってしまう。「移住」が経済原理による〈客観的〉な意見であり、むしろ能登の人々のためでもあるという悪しき〈冷静〉さは、この能登への〈差別〉によって可能になっていると、まずは考えるべきであろう。そして今起こっていることは明らかに能登に対する厳然とした〈差別〉なのである。
そもそも人がその土地に生きることは、経済原理だけを目的としているわけではない。そこに住んできた歴史性や事情があり、そこの役割がある。経済原理だけでは解決できない、その場所で生きる根拠を行政が守らなかったら、いったい政府というのは何のために存在しているというのだろうか。昨今、〈財政難〉の自治体を中心に、水道の民営化など、人間の生きるための下部構造が、経済原理の名の下に民営化され、料金自体が値上げされている。本来水道を含むインフラや道路は採算をとるものではないはずだ。とはいっても、もちろんこれはインフラや住民の生活が経済原理と無関係だというのではない。そうではなく、富の分配の不公平さが問題なのである。能登の地震の被害に対して、まずは経済上の採算を考えるのではなく、インフラを復旧し、食料と水の確保をおこない、その場所を荒廃させない政策を考えなければならない。行政は、生きる〈根拠〉を守る必要がある。その時、〈差別〉を基にした経済原理による「ショック・ドクトリン」には十分注意すべきだ。経済原理を口実にした〈差別〉は、豊かで有利な土地や資本家に対してしか、有利な富の分配は行わないからである。しかもその不平等を容認するという差別感情は、経済原理という名の〈客観性〉で覆い隠されてしまう。
今、Twitterで主張されている「復興」ではなく「移住」を政策にするという、差別感情を基にした能登の被災地への攻撃は、「ショック・ドクトリン」であるし、僕は〈デマ〉の一種だとも思っている。この〈デマ〉によって、能登への差別感情は、経済原理という見せかけの客観性によって糊塗されてしまい、住民の〈強制移住〉すらも可能にしてしまうだろう。これは人権侵害である。なぜ不便で災害によって被害を受けた土地にわざわざ住みたいのか、過疎地なのだからこの際「移住」することが日本の経済のためだ、などの差別感情を基にした「移住」という強制的暴力が正当化されかねない。政治家や研究者が客観性を装って、しかも被害の全体も把握できていない段階で「移住」を主張するのは、明らかに〈差別〉を伴った「ショック・ドクトリン」である。災害時の〈差別〉を伴った〈デマ〉が、特に関東大震災で何を引き起こしたのか。〈差別〉と地震の際の虐殺を扱った、映画『福田村事件』を見直すべきでもある。
このような早い段階での「移住」の強調は、東日本大震災が踏まえられているのだろう。東日本大震災で被った経済的トラウマの〈否認〉を、行政も資本家も、政治家も研究者も、今まさにおこなっているのだ。
まず第一に行うべきことは、被害を受けた地域の電気・ガス・水道・通信や道路の復旧を進めることであり、また水や食料が行き届かないところに届くようにする方策を考えることであって、政治家や研究者が住民そっちのけで、「移住」によって能登の経済効率を議論したり、インフラの民営化=放置をどさくさに紛れて主張するべきではないだろう。このような政治家や研究者の「移住」の強調は、ナオミ・クラインが指摘した「ショック・ドクトリン」(「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」)と言わざるを得ない。この「移住」という主張は、地震によって破壊された地域を住民に放棄させ、その空いた土地を安く買いたたき、リゾート地にしたり原発にしたりと、結局は資本家のいいように地域を資本化する口実となり得るのである。このような主張が、地震後わずか十日余りで出てくるのは、東日本大震災の東北や北海道と同じように、能登も経済的には〈劣った地域〉として、蔑視され差別されているということに他ならないだろう。要は「復興」させる価値はないから放棄しろということである。
このようなツイートを受けて、ある人々は「移住」の提案を、地震をめぐる感情論を排した客観性と経済原理で考えた、能登のための意見だとして歓迎している。実際、能登は過疎化し、経済的にもインフラを維持するメリットがない。そこで地震をきっかけに「移住」を提案することは、経済原理的に〈正しい〉ということになる。だがこの場合の経済原理や経済効率とは、〈だれ〉のためのものなのだろうか。経済原理的に「移住」を進めている体にはなっているが、この判断の基礎には、経済原理を口実にした、「北陸」への〈差別〉が根底にあると見做すべきだと考えられる。クラインの著書『ショック・ドクトリン』でも論じられていたが、「惨事便乗型資本主義」は貧しかったり再開発が難しい場所を、「大惨事」に付け込んで〈更地〉にして、資本家が使いやすいような民営化された土地としてしまう。そのような経済的に弱い地域への差別感情は地震によってさらに増幅し、その差別感情に便乗して強引にその地域を再開発するのだ。差別感情を利用するわけだから、その地域以外の人は被災地に無関心になりやすいし、差別的に軽視する可能性がある一方で、逆に資本家による被災地の民営化や再開発を根拠のあるものとして支持しやすくなってしまう。「移住」が経済原理による〈客観的〉な意見であり、むしろ能登の人々のためでもあるという悪しき〈冷静〉さは、この能登への〈差別〉によって可能になっていると、まずは考えるべきであろう。そして今起こっていることは明らかに能登に対する厳然とした〈差別〉なのである。
そもそも人がその土地に生きることは、経済原理だけを目的としているわけではない。そこに住んできた歴史性や事情があり、そこの役割がある。経済原理だけでは解決できない、その場所で生きる根拠を行政が守らなかったら、いったい政府というのは何のために存在しているというのだろうか。昨今、〈財政難〉の自治体を中心に、水道の民営化など、人間の生きるための下部構造が、経済原理の名の下に民営化され、料金自体が値上げされている。本来水道を含むインフラや道路は採算をとるものではないはずだ。とはいっても、もちろんこれはインフラや住民の生活が経済原理と無関係だというのではない。そうではなく、富の分配の不公平さが問題なのである。能登の地震の被害に対して、まずは経済上の採算を考えるのではなく、インフラを復旧し、食料と水の確保をおこない、その場所を荒廃させない政策を考えなければならない。行政は、生きる〈根拠〉を守る必要がある。その時、〈差別〉を基にした経済原理による「ショック・ドクトリン」には十分注意すべきだ。経済原理を口実にした〈差別〉は、豊かで有利な土地や資本家に対してしか、有利な富の分配は行わないからである。しかもその不平等を容認するという差別感情は、経済原理という名の〈客観性〉で覆い隠されてしまう。
今、Twitterで主張されている「復興」ではなく「移住」を政策にするという、差別感情を基にした能登の被災地への攻撃は、「ショック・ドクトリン」であるし、僕は〈デマ〉の一種だとも思っている。この〈デマ〉によって、能登への差別感情は、経済原理という見せかけの客観性によって糊塗されてしまい、住民の〈強制移住〉すらも可能にしてしまうだろう。これは人権侵害である。なぜ不便で災害によって被害を受けた土地にわざわざ住みたいのか、過疎地なのだからこの際「移住」することが日本の経済のためだ、などの差別感情を基にした「移住」という強制的暴力が正当化されかねない。政治家や研究者が客観性を装って、しかも被害の全体も把握できていない段階で「移住」を主張するのは、明らかに〈差別〉を伴った「ショック・ドクトリン」である。災害時の〈差別〉を伴った〈デマ〉が、特に関東大震災で何を引き起こしたのか。〈差別〉と地震の際の虐殺を扱った、映画『福田村事件』を見直すべきでもある。
このような早い段階での「移住」の強調は、東日本大震災が踏まえられているのだろう。東日本大震災で被った経済的トラウマの〈否認〉を、行政も資本家も、政治家も研究者も、今まさにおこなっているのだ。