セーラの独り言2

お年寄りの独り言・・・・

電報

2018-05-28 | 日記
 それは私の誕生日の2、3日前のこと。
玄関のチャイムに出てみると、60年来の友人からの「お祝い電報」が届けられた。
年賀状のやりとりはもとより誕生カードもここ数年間にわたり互いに祝いあって
おりました。今年は色も鮮やかな美しい押し花の誕生日のお祝い電報であった。
思いがけない素敵な心をいただきました。
お礼の電話をすると「お互いに後期高齢者だからこの先元気に暮らしましょうね」
とのいたわりの言葉。
いままで何度か結婚のお祝い電報や、弔電は利用したことはありました。
私ごとで電報を受けたのは何十年振りのことであったろう。
 昔はよほどのことでない限り電報は来なかったものである。
たいてい、危篤とか亡くなった知らせが多かったのではないでしょうか。
携帯電話やスマホなどほとんどの人が持っている時代の今、何事もあっという間に
情報が相手に伝えられる。
でも、いろいろ美しく工夫を凝らしたお祝い電報は嬉しいものである。
 電報にまつわる父とのおかしくも、もの哀しいあの日の父の大失敗が思い出されて
きました。
父がもうとうに80歳を過ぎていた頃、11月か12月の寒いさむい日曜日のこと、
電話を受け取った父が「ちょっとそこまで」と言って出かけて行った。
母と私は「こんな寒い日にわざわざ出かけなくてもいいのに」とのんびり午後の
ひとときを過ごしていた。1、2時間の後、父宛に電報が届いた。
父はまだ帰宅していなかったが、急を要するのではないかと開けて見ると、
  宛先~~~父の名前
  文面~~~心よりお悔み申し上げます・・・・・・・
  差出人~~父の名前
思わず母と私は「お父さんたら」と心ならずも笑ってしまいました。
まもなく鼻の頭を赤くして父はかえって来ました。
「近くの郵便局が休みだったので街中の中央郵便局まで行って来た」というのである。
出かける前の電話は知り合いの訃報を聞き弔電をうつ目的で出かけたことがわかった。
土、日が郵便局がやすみということをうっかり忘れていたのでしょう。
何を間違って宛先に自分の名前を書いたのであろう。また、郵便局の人もそれには
気付かなかったのだろうか。
電報は家の電話から申し込めることを話すと、父は疲れた様子でやれやれと深々と
ソファーに座りこんだ。
自分で自分あてに打った電報に目を通している父を、私は寂しく哀しい気持ちと
同時に溢れるほどの愛おしさでいつまでも見つめていた。

雨の日のいちにち

2018-05-20 | 日記
 雨の音で目が覚めた。午前3時25分。
ラジオをつけると、島倉千代子の細くふるえるような歌が流れて来た。
そして天気予報によると今日は一日中雨降りのこと。
雨の日は落ち着いて静かにしみじみと過せるので私は好きなのです。
今日はどのように過そうと雨音を聞きながら時計を見ると午前4時少し前。
もう一眠りしたいとおもったけれど、すっかり頭が冴えてしまった。
毎朝の読書として枕元にある本の続きを雨音をバックミュウジックとして
読みながら朝を迎えることにした。
 随分と昔に愛読していた詩人・三好達治の詩集と彼を描いた本の二冊。
詩人・萩原朔太郎を心より尊敬し愛し慕った達治。その妹に恋焦がれ
叶えられなかった達治の純粋な切ない思いを描いた本に何度涙したことか。
昔、お気に入りのところに印をつけたのを見つけた時、その若さの自分が
いとおしく思えたり、その時は気付くことなく読み過ごしていた所に
時を越えた今だから心が止まったりして朝の読書を楽しんでいる。
ときどき耳を澄ますとまだ降り続く雨の音。
やっばり今日は雨は上がらないのだわと時計を見る。午前6時少し前。
本の続きに心惹かれながらもそろそろ起きなくっちゃぁね。
 昔も今も変わらず好きな詩。
      「桐の花」  三好達治・歌集 艸千里より
   夢よりもふとはかなげに
   桐の花枝をはなれて
   ゆるやかに舞ひつつ落ちぬ
   二つ三つ四つ
   幸ある風に吹かれて
   おん肩にさやりて落ちぬ
   色も香もたふとき花の
   ねたましやその桐の花
   昼ふかき土の上より
   おん手の上にひろはれぬ

 小さな川の橋の傍に一本の桐の木が立っていた。
うすむらさきの花が風にかすかに揺れている
桐の木が太く大きく育ったら花嫁の箪笥になるという。
10数年前に見かけたその桐の木も大きくなり
いつの日かどなたかの花嫁の元に・・・・・
 そんなことを想い出した雨の日はなんだかとてもよい一日となりそう。


     

緑あふれるこの季節に

2018-05-09 | 日記
 五月の木々の緑が若々しく溌溂としているのを見るにつけ、元気のもとを
戴いているように思うこの頃です。
ケヤキ並木の葉はもう空を蔽い始めている。メタセコイヤの木々も空に向って
真っ直ぐにすくっと立っている。銀杏の並木も一本一本三角形に刈り込まれ
お行儀よく並んでいる。これらの並木道を歩む時、若者達の進む道も真っ直ぐで
あって欲しいと切に願うのである。
都会の街中から離れた木々の葉は幸せそうに日の光を浴びて輝いている。
しかし、街中の木々の緑はどうであろう。
一日中、ひっきりなしに走る自動車の排気ガスにまみれたその木々の緑は
息苦しそう。
いろいろ困難な状況のもとにあえぎあえぎ順応しながら、けなげに生きようと
している姿に「生きることは何か」ということを私たちに問いかけているように
思える。
木々はしっかりと根を張り土を固めちょっとやさっとの大雨、大風にも耐えられる
ような役目をもっているはずである。昔の人の知恵はすごいものを持っている。
防波堤がわりに堤に桜を植えたり、松を植えたりして人びとが花見や物見よさんを
しながら、歩き回ると土は踏むことによって強い固い地盤が造られてきたはずである。
 人間は欲を満たすのに宅地を造る目的のために何年もかかり大きく育った木々を
いとも簡単に伐採し、山を切り崩すという愚かな行為をしている。
人間はしてはいけないことを沢山している。
 昨年も今年も大雨、大風で木々は根こそぎはぎとられ崩れていくさまを観ていて
胸が痛んだ。
つやつやとした緑の葉も根も泥まみれになり激しい濁流の中に流れていった。
なんと悲しい光景だったであろう。
育った木々を伐採する一方、こつこつと額に汗して植樹している人々がいる。
この方たちの植えた木々が一日も早く大きくたくましく育ってと願った。
緑あふれる季節にこんなことを心の片隅でひとり思ったことでした。