法律・司法試験研究室

法律・司法試験について考察します。

出口があるから入口がある

2009年10月31日 | 学習
他人の答案を添削することは,少なくとも3つの意味で有意義だと思う。

1つ目は,添削する前提として答案をよく読まねばならないから,他人の答案と自分の答案を比較して,それぞれ良いところ悪いところを意識できるという意味である。
自分の答案というのは,言ってしまえば独りよがりな妄想の世界である。
そして,他人の妄想の世界をのぞくのは痛くも痒くもなく楽しいだけなのだが,自分の答案となると痛みを伴うのでなかなか読む気にはならない。
しかし,他人の答案と比較するという過程で,否応なく自分の答案も読まされる。
これは,他人の答案の良いところを盗む絶好の機会でもあり,自分の答案の悪いところを矯正する絶好の機会でもある。
こういう機会は貴重である。

2つ目は,添削で付けるコメントが2度目の「答案作成」として表現の訓練になるという意味である。
添削で付けるコメントや○×も一種の答案みたいなものだから,それに対する賛同や批判があり得る。つまり責任を伴う。訊かれたときに答えられなければ,嘘のコメントを書いているのと大して変わらない。
だからよく考える。答案を書くときと違って,分からないことは調べられる。それでも間違えたら,自分の能力が足りないという何よりの証左になる。
そういう緊張感をもった「答案作成」の機会を再度与えられるという点で,添削は良いと思う。

3つ目は,以上2つのおまけだが,自分の位置を知ることができるという意味である。答案の比較からも,他人が返してくれた自分の答案のコメントからも自分の位置を知ることができる。もちろん,偏差値のような客観的な水準ではないが,他人の答案と自分の答案を比較して,他人の方が勝っていれば,学習の励み(というよりは,焦りに近いものがあるが)となるし,自分の方が勝っていれば自信となる。悪戦苦闘が伝わる答案があれば,もがいているのは自分だけではないのだという救いとなる。

そして,上記の3つの意味を最大限に発揮させるためには,添削した答案は友人に返すべきだろう。
自分しか読まないコメントを書くために,だれが本気を出すだろうか?
自分のコメントが,自分にどれだけの励みを与えるだろうか?


なお,実力不十分な者同士で添削し合っても,百害あって一利なしであるという有力な反対説がある。いわく,誤った知識を定着させてしまう,重要性の低いことに時間を割いてしまう等。

たしかに,そういう面はないとはいえない。答案を交換する相手がどうでもいいことにこだわる人であれば,時間の無駄もあるかもしれない。
しかし,これらの弊害は,誰とも答案を交換しない場合により顕著に生ずるものではないだろうか。
1人では誤りを素通りする危険が大きいし,自分が重要だと考えていることについて他人がどうでもいいと思っていること,又はその逆であることについて,意識することすらなく学修を進めていくことになるだろう。

したがって,上記のような弊害を強調して答案の交換・添削を渋るのは,単なる怠惰に過ぎないと思う。

答案を書くという出口があるからこそ,新たな知識を入れる入口が開く。
添削という出口があるからこそ,答案を読んで理解する入口が開く。

そういうものではないかと思う。

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