noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)という言葉があります。「高貴さは義務を強制する」という意味のフランス語です。王族・貴族などの特権階級は、高い倫理観を持ち、社会的責任を果たすべきだという考え方です。だからと言って、こうした特権階級が許されるというわけではないと思いますが、図らずもこうした特権階級に生まれてしまった人が、こうした考え方を持つのは、意味のあることだったと思います。
スポーツ選手は、封建時代の特権階級ではありませんから、こうしたノブレス・オブリージュが求められるわけではありませんが、トップ選手は少なからず特別待遇を受けるわけですから、模範となる行動が求められるのは当然です。
そんな中、巨人の賭博問題に続き、バトミントンのトップ選手の違法賭博が発覚しました。桃田選手、田児選手は、メダルも期待された有望選手でしたが、リオ五輪への出場がほぼ絶望となりました。「若い選手の将来を断つべきではない(リオに出してやれ)」という意見も届いているようですが、それはやはり筋違いで、過ちを犯したら、まずはそれを償うべきで、その後再びチャンスを与えるべきです。選手のピークは難しいもので、今回を逃すと次に出られる保証はありませんが、それだけのことをしたのだということを思い知らなければいけません。
それにしても、ノブレス・オブリージュを持つことの何と難しいことでしょうか。スポーツのトップ選手は、その位置に登りつめるまでには、自らを律して誰よりも努力をしていたはずで、誰よりも高い倫理観を持つ能力があるはずなのです。にもかかわらず、トップに近づき道を誤ることのなんと多いことか。
こうしたことを見ていると、能力だけではなく、やはり教育の大切さを改めて感じます。巨人の賭博問題に関して松井秀喜さんが発言していましたが、その言葉は「ダメなものはダメ」と極めてシンプルでした。松井さんが賭博に手を染めることはとても想像できません。また、王貞治さんも同様です。二人は、私が最も尊敬する野球人ですが、それ理由はプレーだけではなく、その人間性にもあります。それは倫理観と言ってもいいと思います。スポーツはスポーツで、倫理観なんて精神論は関係ないという意見もあるかもしれませんが、倫理観は精神論とは違います。精神論は非合理的な考え方であり、倫理観とはぶれることのない考え方でむしろ合理的なものだと思います。
王さんも、松井さんも、親や指導者から厳しく教育されてきたということから、決してぶれることのない倫理観があるのだと思います。
こうしたことを見ると、本当につくづく教育の大切さを感じます。ここ最近報道を賑わしている、清原和博、巨人の賭博問題に関与した4選手、バトミントンの桃田、田児選手。彼らは、これまでにどのような教育をされてきたのか。もちろん、厳しく指導されてきた時期もあったでしょうが、本当の意味で、トップ選手がどうあるべきかの教育はされてこなかったのではないでしょうか。
ノブレス・オブリージュという言葉を聞くと、天皇陛下のことが真っ先に頭の浮かびます。天皇は特権階級などではなく、むしろ自由を奪われた存在という見方もあるくらい、とても大変な立場です。にもかかわらず、現在の天皇陛下が、フィリピン、グアム、サイパン、パラオなどの南洋の戦地に赴き、沖縄や広島などの国内の戦地に赴き、東日本大震災の被災地を見舞い、国民に寄り添おうとする姿勢は、本当に頭が下がる思いで、その倫理観にはただただ頭が下がります。
天皇陛下は、あまりに特別な存在で、教育をされた、普通の生活を送ってきたというよりも、自らの立場や戦争経験から自ら学んでこられたと思われますが、普通のスポーツ選手には、やはり教育の重要性を感じます。育成時代の指導者も、勝ち負けだけを指導するのではなく、しっかり人間的成長を考えるべきですし、トップ選手になってからも、協会などの団体が組織的に教育をしていくことが必要になってくるでしょう。
海外では、ドーピングなどが後を絶ちません。スポーツの勝敗が自らの人生に直結しているためですが、日本は、震災での冷静な対応が海外で驚愕されたように、その高い倫理観は大事にすべき長所です。しっかりとこうした倫理観を保ってほしいと思います。
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