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八王子市散田町在住のスポーツ好き親父の戯言!

八王子市の学童野球チーム散田ドラゴンズ元管理人(2007年3月~2016年2月)のブログです。

忘れられない日

2011年03月12日 21時35分23秒 | 管理人のこと、雑感

阪神淡路大震災は、1995年1月17日に起きました。関東からは遠い関西での出来事でしたが、あまりの出来事にいまだに忘れられない日です。

 

まだ、中野区の社宅に住んでいる時でした。仕事に出かける準備をして出かけるまで、ずっとテレビニュースを見ていたことを今でも鮮明に覚えています。朝もやにけむるような神戸の街の遠景の画面のところどころに、狼煙のように火事の煙がたなびいていました。

 

その時点では、被害状況の詳細は分かっていませんでしたが、「これはとんでもないことになった」ということが画面を通しても伝わってきました。

 

昨日3月11日(金)の地震も同じです。東京にいる自分自身が本当に命の危険を感じるような揺れを感じ、その後、震源が遠く離れた宮城沖だという報道を聞き、「これはとんでもないことになる」と感じました。

 

昨夜、やっとのことで帰宅してそれまでワンセグなどで断片的に見ていた情報をテレビで確認すると、本当にとんでもないことになっていました。阪神大震災のような火もありましたが、今回の巨大地震の恐ろしさは、津波でした。東北・北海道の海岸沿いの人は、津波の怖さは知っていますが、ここまでの津波を経験した人は当然いません。地震後30分から1時間ほどの時間はあったようですが、お年寄りなど体の自由がきかない人はすぐに避難できなかった可能性はあります。そして、浜辺だけでなく、数キロにもわたって流れ込む巨大津波では、逃れようもなかったでしょう。

 

そして、2時46分の最初の揺れは、宮城沖でマグニチュード8.8という日本観測史上最大の巨大地震だったことに加え、十数分後の余震もマグニチュード7台で場所は、茨城沖まで南下し、さらに岩手沖でも同規模の余震が起きるなど、広範囲にわたったことが、この地震の巨大さを表しています(13日マグニチュード9.0と修正されました)。

 

さらに、震源地に近い福島原発の炉心の溶解が始まり、それを止めるために、一部放射能を含むガスを放出する作業をしてるさなかに、爆発が起きて、一気に緊張が走りました。最悪の事態は避けられたようですが、まだまあ予断を許さない状況です。

 

3月11日も忘れられない日となりそうです。被災者の方には、一刻も早く、飲み物、食べ物、暖かくして寝られる場所を確保してあげてほしいですし、落ち着いてからは、一日も早く生活を立て直す手段を講じてほしいと思います。私たちも、できる限りのことをしたいですね。

 

 


何とも言えません…巨大地震

2011年03月12日 03時22分29秒 | 管理人のこと、雑感

あまりの惨状に言葉もありません。震源地近くの東北地方の被害の大きさは目を覆うばかりですが、少しでも多くの人が救出されることを願ってやみません。

 

10年ちょっと前の阪神淡路大震災の時は、遠く離れた土地のことだったので、いろいろなことを案じながらも、どうしてもやはり外から見ている面がありましたが、今回はまったく他人事ではありませんでした。

 

今回の地震

私の職場は、賃貸していたオフィスビルの建て替えのために立ち退き、約一年前に自社物件のビルに移転しましたが、そのビルは増築した建物でした。そして、震源から遠い東京で恥ずかしながら、耐震工事をしていなかったために、この増築部分が激しく揺れて、明らかに今後の執務不可能な状態になりました。

 

実は、この増築の継ぎ目部分に私のデスクはあって、揺れているさなか、真上の天井や足元の床が地割のようにずれ、真剣に死ぬかと思いました。地震はもちろん好きではないものの、これまで死ぬと思ったことはありませんが、冗談ではなく、今回は本当に死ぬのではないかと思うほどの揺れと、ビルのボロさでした。

 

とりあえず、一旦近くの小学校へ避難した後も、余震のたびに周囲のビルが明らかに揺れているのが見えました。当然、携帯は通じづらくなっていましたが、何度か試みるうちに家族の安否が確認でき、とりあえずはほっとしました。

 

帰宅難民

小一時間ほどして一旦事務所に戻り、職場単位でヘルメットをして建物に入り、荷物を取り、建物は封鎖して、帰宅することになりました。たまたま、職場のメンバー7名のうち、4名が多摩地域なので、とりあえず復旧の可能性が高いであろうと読んで、西武新宿線を目指すことにしました。時間は16時頃だったのだと思います。

 

新宿についても、当然復旧しておらず、そのまま青梅街道を4名プラス他の多摩メンバー2名でチームを組んで歩きました。よく、TV番組などで、帰宅難民のシミュレーションなどをしているのを見ましたが、本当にそんことが起きて、自分がその当事者になろうとは思いませんでした。

 

途中、寒さのためトイレに行くため、新宿付近で喫茶店に入ったり、中野付近のスーパーに入り、ついでに食料を確保したり、杉並区役所に入ったりしました。基幹道路の青梅街道はTV番組のシミュレーション通りの人混みで、自分のペースで歩くのがつらいほどでした。

 

メンバーは50過ぎ2名、私と同じくらいの40代半ば3名、40ちょっと1名という構成でしたが、一番若いメンバーが、靴が合わずに足が痛くなり、上石神井あたりでちょっと休もうということになりました。しかし、道路沿いのファミレスなどは、どこも灯りを落として閉店している店が大半です。そんな中、華屋与兵衛が開いていたので、入りました。22時過ぎだったと思います。しかし、ドアは外れているは、ダクトや壁が落ちて、使えないテーブルはあるは、待合席の壁はひび割れて、ソファーに粉が落ちているなど、営業しているのが不思議なほどでした。しかし、私たちのような帰宅難民には非常にありがたく、オーダーをしてから、なかなか出てこなくても、体は温まり、落ち着くことが出来ました。

 

また、幸いだったのは、音をあげた後輩がスマートフォンを駆使して、情報収集すると、現在地からほど近い西武新宿線が運転を再開したとの情報をゲットしたことです。食事を終えて、西武新宿線の上石神井駅を目指す途中、ほかのメンバーが西武新宿駅にいた別な人間とやりとりすると、始発駅ゆえの混雑で入場規制をされているとのことでした。

 

歩いて距離を稼いだわれわれは、上石神井駅で23時過ぎに無事に拝島行きの列車に乗り込むことが出来ました。それでも約20kmを歩いた計算になります。運動靴ならともかく、革靴で寒空の下の帰宅難民が本当につらいということがよくわかりました。列車に乗り込み、一息つきながら、小川駅で一人降り、玉川上水で二人降り、終点の拝島まで行ったのは二人でしたが、私は拝島からでもまだ10kmほどあります。歩けないことはありませんが、一休みしたあとになかなか2時間くらいかけて歩く元気はありません。

 

すると、もう一人の職場の先輩の息子が車で迎えにきてくれており、八王子まで送ってくれました。ということで、日付は変わりましたが、それほどひどい状況にならずに午前1時には帰宅することが出来ました。本当に助かりましたし、一人ではなく、メンバーで助け合うことの大切さを改めて思いました。

 

本当にひどい一日でしたが、命があっただけでも本当に良かったと思います。繰り返しになりますが、東北地方の被害が心配ですし、全力をあげて救出にあたってほしいと思います。