サンズ・トーク

佐倉城址公園(二) 日米修好通商条約

堀田正睦(まさよし)は、幕閣のなかでも蘭癖といわれるほどの開国貿易派であり、安政2年(1855)、幕府の老中首座となった。(蘭癖=オランダ狂いといった意味)



アメリカは黒船以来開国を迫ってきていたが、日米修好通商条約を結ぶ交渉の米国代表がタウンゼント・ハリスである。



幕府は堀田が交渉の代表となり、内外の情勢から開国必至と判断して交渉をまとめ、勅許が必要とされたため、自ら上洛して孝明天皇の許可を求めた。
ところが、公家88名が抗議したり、水戸斉昭がひそかに密書をもって反対したりしたため、天皇の許可が得られず、手ぶらで帰ってきた。

このことで、堀田は老中首座を追われるが、紀州徳川家派の井伊直弼が大老になってから、情勢が逼迫したため、勅許なきまま安政5年(1858)、同条約を締結した。
井伊大老は、体制引き締めのため、攘夷派を標的に弾圧、安政の大獄となったが、程なく、ある雪の朝、出勤の途中に、桜田門外で水戸系の刺客によって暗殺された。

このころ、幕府は末期症状となり、将軍後継問題や、財政逼迫により屋台骨がぐらくらになっていたのである。
(財政の逼迫は、安政江戸地震による大被害の補填から、突貫工事で江戸湾に砲台などのお台場を造った事、条約勅許を得るために京都へ大きなばらまきをしたことなどが挙げられる。だが、根本的には、領国の米の収穫高によって幕府、藩、旗本、武士が食っていた封建制が、工業、商業、サービス業の勃興、成長に割り負けしてしまったのである。)

今日の日米の緊密な友好関係の端緒ということで、最初の日米条約を評価、記念するために、平成になってから、この二人の像が佐倉城址に設置されたのである。

蛇足であるが、この堀田正睦、本当は正篤という名であった。薩摩の島津家から篤姫が将軍家定に輿入れしたため、篤という名に憚りありとして正睦に改名したのである。

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