酒好きオヤジのプラモ制作記

パーキンソン病のリハビリのつもりでプラモ作りを再開し今ではすっかりハマっています。
アメ車中心の作品を紹介していきます

地下鉄サリン事件

2018-07-08 05:48:49 | その他

松本智津夫(麻原彰晃)以下7名の死刑が執行されました。
地下鉄サリン事件の23年後です。
長い年月が流れましたが、この事件の起こった当日、霞が関の駅の中に私は居ました。
これまであまりこの事を話してこなかったのですが現在、自律神経の持病のせいで言葉が出ずらくなったのでブログに書き留めておくことにします。

当時、私が勤めていた会社が神谷町にあり通勤で小田急線から千代田線、霞が関で日比谷線に乗り換えて神谷町に通っていた私はあの日、いつもの様に千代田線から日比谷線に乗り換えるために構内を移動して日比谷線のホームに入った時、電車が一両、電気が消えたまま停まっているのを目にしました。
後でこの車両の中にサリンがあったのを知ったのですがこの時はまだホームに人が沢山いて電車が動くのを待っている状態でした。
8時半前後だったと思います。

そのうち「列車妨害事件がありもう運行しないので駅から出てください」との趣旨の構内放送があり
霞が関駅から地上に上がったのですがその時、やけにサイレンの音がして救急車、パトカーが走っているので何事があったのかと思いながら会社のある神谷町の方に向かうと、神谷町の駅から地上に出たところの交差点に救急車が何台か停まっていて人が何人も救護を受けていました。

どうしたんだろうと思いながら見に行こうとしたとき、後ろから肩を叩かれ「会社はこっちですよ」と同僚の女性から声を掛けられて野次馬根性を捨てて会社のあるビルに入っていきました。
この時声を掛けられなければサリンをもっと吸っていたかもしれません。
実際、同僚で神谷町駅の構内で一旦出ようと改札口まで行って騒ぎを聞いて戻ってガスを吸い2か月程入院した人もいます。

その直後、ニュースを聞いてサリン事件を知り目に軽い痛みを覚えたので会社の近くの医者に行きましたが医者も手だてがなく眼を洗っただけで帰ってきた記憶があります。
余談ですが2~3日後に刑事さんが会社に来てその日病院に行った人は全員、事情聴取をされました。
その当時は個人情報保護法など無い時代でしたが今ではどうなのでしょう?

その日、家に帰ってニュースを見たら私のいた駅構内に防御服を着た特殊部隊の人が入っていく様子が映し出されていてまた亡くなられた駅員の方がサリンを持って歩いた何分か後に私が歩いていると知り愕然とした覚えがあります。

私が軽傷で済んだのは運が良かったからだけかもしれません。
あの日何故か駅のホームに風が強く吹いていたのを憶えています。
今はそんなことは無いのでしょうか?

もうテロはあって欲しくはありませんがテロを起こすのは人間の心の中にあるものなので
心の平和を追求していかなければならないと思いますがその答えを出すのは私の生きているうちには無理かもしれません。

改めて事件で無くなられた方のご冥福をお祈りいたします。