Sam'sダイアリー

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1972年全日本モトクロス選手権第1戦谷田部・・・回想録-6

2013-02-14 08:00:00 | 回想録
当時、全日本モトクロス選手権の第1戦と言えば「谷田部(旧日本自動車研究所 JARI)」の周回路内の、フラットでアップダウンがない、ジャンプとコーナーの連続したコースでレースを行っていた。

1972年のカワサキチームはそれまでのセニアクラス(現国際A級)「山本隆・従野孝司」両選手に代わって、スズキから移籍してきた「川崎利広」と前年度ジュニアクラス(現国内B級)で「125・250cc」のダブルチャンピオンとなり、2階級特進でセニアクラス(現国際A級)になった「竹沢正治」選手の2名体制でスタートした。

また社内組織も変更になり、それまで開発は技術部、国内のレース運営はカワ販(現カワサキ・モータース・ジャパン)が主体であったモトクロスも、ロードレースと一つの班にまとめられ、設計・開発から国内レース運営まで一貫したプロジェクト体制の『技術本部 開発一班』が誕生した。同時に私も量産車開発グループから「開発一班」へ転籍となった。

マシンも250ccはこれまでと全く違なる「F81MS」ロータリーバルブから、私が担当した「F11MS」ピストンバルブでの参戦である。 しかも全日本のモトクロスカラーは「開発一班」に新たにこられたY長の発案で、ライムグリーンではなく、B1時代の無敵の「赤タンク」を継承して赤色で出走した。

ゼッケンNo24は竹沢選手の「F11MS」「F6MS」


           *当時の写真はほとんどなく、たまたま掲載されていた方の写真を借用



この年はヤマハの「鈴木秀明・都良夫」兄弟・「鈴木忠男」、スズキが「矢島金次郎」こと「金ちゃん」・「増田耕二」。そしてホンダが昨年スズキで「チャンピオン」と「3位」の「上野広一」・「吉村太一」両選手を引きぬき本格参戦し、まさに強豪ぞろいである。

しかし、カワサキの主力マシンとなる「F11MS」は入社2年目の私がエンジン実験担当・・・到底他メーカーより非力であることはわかっていた。
ライダーも未知数であり今年のレースは結果が残せるか不安であった。とにかく勉強させてもらおう・・・ そんな気持ちで第1戦を迎えた。

スタートライン横1列で、いよいよレースがスタート・・・非常に緊張した。
とにかくトラブル無く、無事に完走してくれればいい・・・。そんな思いで1コーナーになだれ込むライダーの後ろ姿を見ていた。 

そして最終コーナー・・・なんと、そこにはゼッケンナンバー24「竹沢」選手がトップ争いを展開していた。
まさか、考えてもいなかったレース展開にチーム内は唖然とした。 と同時に何か熱いものがこみあげてくるのがわかった。


結果「竹沢」選手は125cc「2位」、250cc「3位」と大健闘であった・・・

担当する私も入社2年目の23歳、ライダーも未知数であったが、優勝こそ逃がしたものの「竹沢」選手がトップを走ってくれたことは、その後の仕事に大いに自信が持てるようになった・・・





1972年全日本モトクロス選手権第1戦谷田部