Sam'sダイアリー

日々の出来事、これまでの出来事を思いつくまま書き込んでいきます。

KXシリーズの開発(KX125・250) 回想録―7

2013-04-12 06:00:00 | 回想録
-Fシリーズに代わって、新たにKXシリーズの開発-

久々に回想録をアップ!!!
<手元に写真が無く、個人の写真を拝借した。あしからず>



1973年 KX125 & KX250
 



新体制になった1972年。この当時のモトクロスは本格的に国内4メーカーが参戦したことで、開発ピッチが急速に進んだ。ヤマハは「モノサス」を装着、スズキは世界チャンピオンマシンをさらに進化させ、ホンダも徐々に戦闘力を増してきた。 当然カワサキも本格的なマシンを開発するために、それまで市販車ベースであった「Fシリーズ」からファクトリーマシンとして「KXシリーズ」の開発に着手した。 

「KX125」はロータリーバルブを継承したが、「KX250」は「F11M」をさらに進化させた位置づけでピストンバルブで開発を進めた。 引き続き、私は「KX250」のエンジン開発を担当することになる。

当時の開発スタンスは、設計担当者と実験担当者がペアで進めることが多かった。「KX250」もしかり
しかし、当時ペアを組んだ設計担当者は前任の基本設計者から代わり、岐阜工場からの転籍で「ヘリコプター」の設計をしていた「U君」・・・経験の浅い私とバイクエンジン設計未経験の「U君」の迷コンビがスタート
しかし、「U君」はセンスがあったので物事をよく理解し、何とか走らせることが出来るレベルに仕上がった。

開発も進み 1972年シーズン途中の全日本モトクロス選手権第10戦東北大会。 場所は福島県二本松市の「えびす高原特設コース」が「KX125・250」のデビュー戦の場となった。 しかし前日からの大雨で、大会当日はパドックまでたどり着けないトラックが多く中止になり、福島でのデビューはならず・・・


<その時のサイクルサウンズ記事>

クリックで大



それ以後も開発テストと走行テストを繰り返し、1973年から赤タンクの「KX125・250」での参戦が始まった。ライダーは1972年度と同じく「竹沢正治」と「川崎利広」の2名で参戦・・・がここで問題が。

KXは元スズキのライダーで後にカワサキの契約ライダーになった「オーレ・ペテルソン」の意見を多分に取り入れた結果RH色の濃いマシンになってきた。「川崎利広」選手はもともとスズキからの移籍のため、さほど違和感が無かったが、「竹沢」選手は彼独特のライディングで「F81M」「F11M」と乗り継いできたため、エンジン特性、ハンドリング特性とも拒絶反応であった。当然レース結果も伴わない。

それからは「エンジン・フレーム」とも「竹沢仕様」を数種類作っていったが、なかなか満足のいく仕様が見出せない。逆にチャンピオンを狙うには逆方向に行こうとしていた。極端な話、当時フレームはキャスター、ハンドル取付位置・形状、ステップ位置、エンジン搭載位置など毎戦仕様が異なっていた。エンジン仕様しかりである。 このような状態が2年ほど続いた・・・

が転機が訪れたのは1975年 当時、カワサキはフィンランド人の「トーレフ・ハンセン」と契約して世界GPに参戦していた。その「ハンセン」が、日本でテストをした時のことである。気持ちよさそうにKXをライディングする「ハンセン」を見て竹沢は「なぜ?」と思ったらしい。 「ハンセン」は『バイクの特性を生かしたライディング』をしていると・・・
それ以後 竹沢もライディングを変へ、マシンの開発も徐々に進みKXを自分の物にしていった
そして、1976年に後の「KX250」で全日本チャンピオンに輝いた・・・

私はすでに「KR」の開発を行っており 「竹沢」の全日本チャンピオンの場にはいなかった



<以下ダートクール記事より>

「初めて乗ったKXは最悪でした。これじゃダメだと思って『以前のマシンに変えてくれ、それなら勝てる』と言ったのですが、許してくれませんでした…」と語るのは、’76年、カワサキKXで全日本セニア250ccチャンピオンを獲得した竹沢正治。’72年にセニアへ昇格して以来ワークスマシンに乗るようになった竹沢は、カワサキのモトクロッサーが“KX”となる時期にマシン開発を担当し、“最悪”からタイトルを獲得するまでにKXを育て上げたライダーだ。

’60年代後半から2ストローク単気筒の250ccワークスマシンの開発を本格的にスタートさせたカワサキは、ロータリーディスクバルブの238ccエンジンを搭載するF21M、ピストンバルブのF11Mなど“F”シリーズという優れたモトクロッサーを造り上げていたが、開発の手を緩めることなく、’70年代に入ってからは“KX”と名付けられたワークスマシンの製作を開始した。これが竹沢が「乗るのに苦労した」というKX250である。
「フレームがダメで、ハンドリングが悪かった。砂地など柔らかいところ、デコボコの深いワダチができるようなところはいいのですが、それ以外では全然走らない。F11Mなら勝てるのに…と思っても、会社はKXで行くという。3、4年は辛い思いをしましたね。でも、我慢強く、コツコツと変えていったんです」

KX250がライバルに追いつき、互角に勝負できるように仕上がったのは、’75年の後半に入ってからである。それは竹沢を含むカワサキのライダー、開発スタッフたちが少しずつ改良を加えていった結果だけでなく、竹沢自身のマシンセッティングの方法、乗り方も大きく変えた結果、生まれたものだった。
「バイクを自分のオリジナルに仕上げることができるかが、勝つためのカギ。その方法がわかったんです。当時、世界GPでカワサキはトーレフ・ハンセンというフィンランド人と契約していたのですが、彼が日本へテストにやってきたとき、気持ちよさそうにKXを走らせている。聞いてみると『このバイクの特性は、こういうふうに乗れば活かせる』と言うんです。そこで気づきましたね。僕は『ここがダメ、あそこがダメ』とばかり考えて乗ってました。そうじゃなくて、バイクのいいところを活かせる走りをしてやることが大事だった。全開にできるセッティング、しっかり荷重をかけられるセッティングをしてやればよかったんです」

積極的な体重移動など乗り方をガラリと変えた竹沢は、セッティングもマシンと自分の長所を活かせるようなものへと変えていった。その結果出来上がったのが’76年のワークスKX250で、竹沢はそのマシンでスズキに乗る渡辺明と接戦を繰り広げ、わずか1ポイント差ながら見事全日本チャンピオンを獲得したのだ。






1972年全日本モトクロス選手権第1戦谷田部・・・回想録-6

2013-02-14 08:00:00 | 回想録
当時、全日本モトクロス選手権の第1戦と言えば「谷田部(旧日本自動車研究所 JARI)」の周回路内の、フラットでアップダウンがない、ジャンプとコーナーの連続したコースでレースを行っていた。

1972年のカワサキチームはそれまでのセニアクラス(現国際A級)「山本隆・従野孝司」両選手に代わって、スズキから移籍してきた「川崎利広」と前年度ジュニアクラス(現国内B級)で「125・250cc」のダブルチャンピオンとなり、2階級特進でセニアクラス(現国際A級)になった「竹沢正治」選手の2名体制でスタートした。

また社内組織も変更になり、それまで開発は技術部、国内のレース運営はカワ販(現カワサキ・モータース・ジャパン)が主体であったモトクロスも、ロードレースと一つの班にまとめられ、設計・開発から国内レース運営まで一貫したプロジェクト体制の『技術本部 開発一班』が誕生した。同時に私も量産車開発グループから「開発一班」へ転籍となった。

マシンも250ccはこれまでと全く違なる「F81MS」ロータリーバルブから、私が担当した「F11MS」ピストンバルブでの参戦である。 しかも全日本のモトクロスカラーは「開発一班」に新たにこられたY長の発案で、ライムグリーンではなく、B1時代の無敵の「赤タンク」を継承して赤色で出走した。

ゼッケンNo24は竹沢選手の「F11MS」「F6MS」


           *当時の写真はほとんどなく、たまたま掲載されていた方の写真を借用



この年はヤマハの「鈴木秀明・都良夫」兄弟・「鈴木忠男」、スズキが「矢島金次郎」こと「金ちゃん」・「増田耕二」。そしてホンダが昨年スズキで「チャンピオン」と「3位」の「上野広一」・「吉村太一」両選手を引きぬき本格参戦し、まさに強豪ぞろいである。

しかし、カワサキの主力マシンとなる「F11MS」は入社2年目の私がエンジン実験担当・・・到底他メーカーより非力であることはわかっていた。
ライダーも未知数であり今年のレースは結果が残せるか不安であった。とにかく勉強させてもらおう・・・ そんな気持ちで第1戦を迎えた。

スタートライン横1列で、いよいよレースがスタート・・・非常に緊張した。
とにかくトラブル無く、無事に完走してくれればいい・・・。そんな思いで1コーナーになだれ込むライダーの後ろ姿を見ていた。 

そして最終コーナー・・・なんと、そこにはゼッケンナンバー24「竹沢」選手がトップ争いを展開していた。
まさか、考えてもいなかったレース展開にチーム内は唖然とした。 と同時に何か熱いものがこみあげてくるのがわかった。


結果「竹沢」選手は125cc「2位」、250cc「3位」と大健闘であった・・・

担当する私も入社2年目の23歳、ライダーも未知数であったが、優勝こそ逃がしたものの「竹沢」選手がトップを走ってくれたことは、その後の仕事に大いに自信が持てるようになった・・・





1972年全日本モトクロス選手権第1戦谷田部









アナログストップウォッチ そして計算尺と方眼紙    回顧録-5

2013-01-31 11:30:00 | 回想録
<回想録-4>のつづき

そろそろ 回想録の続きを・・・


いよいよF11「量試(量産試作)エンジン」のチューニングである。

「性能テスト」は「耐久テスト」と同様に、通常ベンチと呼ばれる動力計室にエンジンをセットし単体で行う。
性能測定の要領はエンジン回転数500rpm毎に「動力計指針の荷重」を読み取る。と同時に、その回転数の「燃料消費量」を測定する。これはビューレット内(あらかじめ決められた容量cc)を燃料が通過する時間を読み取る。 ここで使用するのが「アナログストップウォッチ」・・・
慣れないと瞬時にコンマ数秒を読み取るのは厄介だ。




さらに「点火プラグ」と「シリンダーヘッド」の間に銅ワッシャーをセットし、「熱伝対」を介して表示される「プラグ座温」を読み取る。ビューレット内は測定後バルブを切り替えて、次の消費量テストの測定が出来るように準備をしておく。 1ポイント測定するのにこれだけの作業をこなさないといけない。

慣れるにはコツを要したが、失敗も多々あった。 よくやる失敗が「エンスト」・・・
測定後バルブの切り替えを忘れ、ビューレット内が空になりエンストさせてしまう。
「ポテンションメータ」のダイヤル調整で動力計回転数を合わせるのだが、微調整が必要なため時間を費やす。そのため測定時間がバラツキ、性能が安定しない。またプラグ座温の上昇スピードも観察しておかないと急激に温度が上昇する場合は「異常燃焼」・「焼付き」の兆候でもあるため、すぐにエンジン停止しないといけない。これも見落すと「ピストン」、「シリンダー」を焼付かせてしまう。


当時は空冷エンジンであったため、1ポイント測定毎に温度を下げ冷却していた。
その間に測定した「動力計荷重」、「燃料消費時間」、「プラグ座温」をデータ用紙に記入し、測定開始温度まで下がると再び500回転あげて測定を始める。

この繰り返しで「出力ピーク」、「オーバーラン」まで測定していたので、1回の性能測定時間は結構かかっていた。 回転数の高いエンジンは測定ポイントが多いのでなおさらである。

しかし、これで終わりではない。「計測」が終わっただけで、はたしてどのような性能になっているのか・・・
ここで登場するのが「計算尺」である。

計算尺は「各回転数」の「動力計荷重」を元に「馬力(ps)」・「トルク(t)」計算。そして「燃料消費量(L/h)」
「燃料消費率(g/ps・h)の計算に使用していた。

このように「アナログストップウォッチ」と「計算尺」は測定者にとっては必需品であった。
次はこの計算値をもとに方眼紙に性能カーブを描き、初めて目で見てわかる出力特性が出来上がる。




このようなスタンスで性能測定を行っていたので、数種類のテストパーツの比較テストは
数日を費やしていた。


程なくしてベンチ全室に「光電管式」の「燃料流量計」が導入され、回転数を合わせスイッチを押すだけでタイム測定でき、エンストの心配も無くなった。もちろんストップウォッチも不要になった。

また電卓も与えられた、と言っても卓上電話機ぐらいの大きさだったと思う。今では100円ショップでもカードタイプが買えるが、当時は結構な値段だったように記憶している。

それ以後、「XYプロッター」も導入され、性能グラフも作図されるようになった。
初めて性能測定を始めたころから比べると、ずいぶん楽になったな~と言うのが実感だった。


で今はどうか。カワサキ独自の「自動計測システム」が構築され、すべてがオート。作業者はエンジンを始動して回転数を最初にセットするだけ、後は自動ですべてが完了する。


測定時間が大幅に短縮され、一度の測定で数項目のデータが入手できる。もちろん性能カーブもリアルタイムにモニターに表示される。当然計算の必要はなし・・・「はたしてこれでいいのか?」・・・は別として

また、上長はいちいち報告を受けなくても自分の席のパソコンで、いながらにして現状性能を確認することが出来る。




KHI明石工場入社 回想録-4

2013-01-12 08:00:00 | 回想録
少し時間が出来た。 
回想録を再開しよう。 話が前後するが、思いつくままに・・・

1970年。 私が川崎重工明石工場へ入社した年だ。
所属は単車の技術部。 とわ言へ、まだ「発動機事業本部」と言われていた。
もともとバイクが好きだったので、希望がかなったわけだ。

技術部は「設計部門」と「実験部門」に分かれており、私は「実験部門」の配属となる。
その中でも細分化されており「エンジン実験」、「車体実験」に別れている。
さらにエンジン実験は「多気筒グループ」と「単気筒グループ」に分かれていたが、
私はエンジン実験の「単気筒グループ」で業務を行うことになった。

当時の実験棟は戦前からの建屋で、整備室の床は俗に言う土間、しかも凸凹であった。
裏手に増設したベンチ室(エンジン単体試験室)は、さすがにコンクリートの床であったが、
「こんな場所で開発をしているのか~」 と言うのが率直な第一印象だった。

今でもこの建屋は健在であるが、建屋内は大幅に改修され、設備は最新の計測機器を
導入してテストが行われている。
また新しい実験棟が出来たため、現在はモトクロス専用の実験棟になっている。

しかし建屋の老朽化・作業効率の見直しのため、現在は新実験棟を含む明石工場の
再編計画が着々と進行している。



そんな中で、最初の業務はエンジン単体での「ベンチ耐久テスト」だった。
エンジン実験は大まかに単体での「性能」・「機能」・「耐久」テストと実走行で確認する
「性能」・「機能」・「耐久」テストがある。

耐久テストは社内のテスト基準にもとづき、規定回転数・時間で運転を行い
シリンダー、ピストン、クランクシャフト等の出力系とクラッチ、ミッション等の駆動系、
および、エンジン全般の耐久性を確認するテストだ。

先輩の指導でエンジンの組立から、ベンチのセットアップ、動力計の操作手順、耐久テスト後の
分解、各パーツの目視とカラーチェック。カラーチェックは洗浄したパーツに浸透液をスプレーし、
時間をおいて再洗浄後、現像液をスプレーする。もしクラックが発生していたらその箇所から浸透液が
浮き上がってくるのでクラックの有無が判定できる。
最後に「研メモ(テスト報告書)」の作成・・・

運転途中で部品が破損すれば設計に連絡し、対策品を組込み再テストを繰り返し行う。
このテストをクリアしないと量産へ移行出来ない。

私の入社当初は、まずこの「耐久テスト」でエンジンの組立・分解・内部機構を理解し、
ベンチの運転技術を習得するのが常であった。  

                       
入社1年ころか? 耐久テストもマスターし、性能テストのサポートを行っていたころ、
新機種の「キットパーツ」を担当するよう命じられた。

「キットパーツ」とは市販車を改造してレース仕様に組み替えるパーツである。
担当するベース車両はオフロードバイクでシリンダー、ピストン、ヘッド、マフラー、電装品等を
交換して、不要なものを取り外し、モトクロスのレース車両に仕上げることである。

担当機種はF11の「量試(量産試作)エンジン」。 
試作の砂型エンジンから金型へ移行したエンジンである。カワサキにとって初のピストンバルブ方式の
単気筒250ccエンジンで、量産車はF11、キットパーツ組込車はF11M、そしてファクトリーマシンは
F11MSと呼ばれた。

当時多気筒スポーツモデルは250cc、350cc、500cc、750ccの3気筒エンジンがシリーズ化
されていたが、これらの機種はピストンバルブ方式で、単気筒エンジンはロータリーバルブ
吸気方式であった。
F11は250cc最後のロータリーバルブエンジンF8の後続モデルになる。

こうして、初めて担当した「F11M」・「F11M S」のチューニングがスタートする。



<1970年の主な出来事>

 大阪万博開幕
 よど号ハイジャック事件
 アポロ13号打ち上げ








「”最速”に挑む男たち」・・・回想録-3

2012-04-14 10:00:00 | 回想録
「"最速"に挑む男たち」 ~バイク開発チームの10か月~


これは前回 回想録―2で取り上げた「カワサキ」が20年ぶりに「WGP」に復帰する過程を、撮影した
「NHK」の「ウィークエンドスペシャル」 と言う番組で 放映されたドキュメンタリー番組のタイトルで
ある。今から10年前 2002年11月2日放映・・・

DVDに残しておいたので、久々に観てみた。 開発当時の様子が時系列で映し出され、改めて当時が懐かしく思いだされた。


番組の内容は計画・設計段階から、開発過程を経て、復帰第1戦の パシフィックGP「モテギ」参戦に至るまでの10カ月をまとめたものである。その中で、今はリタイアされたが、今回初の本格レーサーエンジンを担当した「渡辺 芳男」設計リーダーを メインにまとめたものである。

本来であれば、『部外者以外立入禁止』の設計・開発現場にTVカメラが入ることは まずないことだ。
そういう意味では 興味深い映像になっており、一般視聴者も 『このようにしてレーサーが出来あがるのか!』 ~と思われるが、 あくまでも「設計者」の立場からの映像であり、ごくごく表面的な内容である。


               ざっとこんな内容・・・

               オープニングタイトルから  川崎重工明石工場の紹介








企画・基本構想から設計段階へと 「わずか12名の、少人数でスタートした」・・・うんぬんのナレーションだが、これはあくまでも「設計者」。 実際に開発を担当する、我々「実験者」はメカニックも含む18名で、先行テストに取り組んでいた。




構想が決まった時点で、車体側はクレイモデルを制作。これは 6月1日に行われた「風洞テスト」の様子。空力特性に優れた、フェンダー、カウル、タンク、シート形状を模索していた









かたや、エンジンは 当初、6月に入手予定のクランクケースが、大幅に遅れた。

一般的には砂型を造り、鋳造で造るべきところを、軽量化と強度を考慮し、極力肉厚を薄く均等にするため、アルミブロックからの総削りで製作した。

この工法だと1台製作するのに、数工程の複雑な機械加工が加わるため 時間がかかる。おまけに加工メーカーにとっては初物。 加工ミスも発生する

~結果、初号機のクランクケースを受け取ったのは7月23日・・・これから組立て、時間が無い







早速組立・・・しかし、ここでも簡単に組立は進まない。全くの試作初号機では、よくあること
部品同士が干渉しているため。 そこは機転を利かし、手加工で改修し なんとか初号機を組上げる











そして8月1日、初号機の「火入れ式」・・・

「カワサキ」ではレーサー・量産車を問わず、試作の初号機エンジンを、初めてベンチで運転する時は
関係者全員で、エンジンに清めの酒、シャンペンをかけて、以後の開発が順調に進むように 「火入れ式」を行なっている。






「火入れ式」が終わると、本格的な出力アップのための 「性能テスト」が、繰り返し行われる






~が「性能テスト」を開始して、1週間後に 「重大トラブル」が発生した。

このエンジンの新機構である 「倍速ジェネレーター」 ギヤが破損した。インラインフォーのエンジンは、通常クランクシャフトの左側に ジェネレーターが取り付けられるが、これだとエンジン幅が広くなる。 

エンジン幅を狭くすると同時に、軽量化を目的に小型化し 背面にセットした。 そして発電量を増すため 回転数を倍速にしたので ギヤに負担がかかり破損。そのあおりでジェネレーターカバーはもとより、1台数千万円のクランクケースが一瞬にしてお釈迦。アッパー・ロアケースが共加工のため、即廃却処分。







ジェネレーターの対策品は、すぐには出来てこない。原因調査が必要である。しかしその間も他の確認作業を進めなくてはならない。先行して「シャーシテスト」では、ミッションを含む駆動系の耐久確認を行う








ニューマシンのデビュー戦は10月のパシフィックGP「モテギ」と決められていた。 が部品の大幅な入手遅れ、トラブル対応に追われ 7・8・9月は深夜まで仕事が続き、もちろん休日出勤、徹夜と、残業時間は軽く100時間を超えていた。しかし、なんとかしてマシンを仕上げ、「モテギ」に間に合わせようと言う思いが全員にあった。



結局、ジェネレーターの対策品が入手できたのは、不具合発生から1カ月後

ジュネレーターカバーには数か所に歪ゲージを貼り付け、応力を測定しながら確認する。OKの最終確認が出来たのは9月4日である。




ジェネレーターの確認後は、9月18日オートポリスでの「シェイクダウン」に向けてテストマシンを仕上げる。

そして初走行 その日が・・・







  ライダーは「柳川 明」  「シェイクダウン」は、さして大きなトラブルも無く走行できた 

  いよいよ、本格的な走行テストが始まる。 走行データをもとに、細かなセッティングを行う。

  マシンのレベルはまだまだであるが これでスタートラインに並べることは確認できた。








10月1日は20年ぶりの「WGP」参戦と、目前の「モテギ」レースに向けて、「出陣式」が行われた。全従業員を招集し、社内のグランドで行う予定だったが、あいにく雨になり、関係者だけで室内で行われた。







そして10月6日第13戦パシフィックGP「モテギ」・・・もちろんライダーは「柳川 明」

ついに復帰第1戦を迎えることになった。 20年ぶりに復帰と言うことでマスコミの注目度も大きかった。 






まだ 産声をあげたばかりの「Ninja ZX-RR」・・・ 
「柳川」君のガンバりもあり、予選順位は18位。 ポジション的にはこんなもんだろう。

そして、いよいよスタートの瞬間・・・タイミング良くスタートした。スタッフもピットのモニターにくぎづけである

スタート後の追い上げもよく、6週目には15位までポジションをあげていった・・・が、しかし・・・








         *まだまだ 映像は続くが 最後に 同番組の動画を張り付けています。
          48分50秒とTV放映された、そのままです。 続きは動画で確認してください
          少し長いですが・・・







  「カワサキ」も「MotoGP」の世界に足を踏み入れた。

  番組中「安井 隆志」監督も言っているが「もう、後戻りは出来ない」・・・

  思えばここに至るまでの時間はあまりにも短すぎた。しかし、これがレースの世界である。
  レースは待ってくれない。

  40年間 この仕事をしてきたが、新しい機種でレースに挑むたびに 同じスタンスである。

  これは「カワサキ」に限ったことではない。他社も同じである。レースは勝負である。
  勝たないと意味がない。勝つためには他社を上回らなければならない。

  レースを続ける以上、開発が終わることは無い・・・
     

  ~が「カワサキ」は2009年「MotoGP」撤退
  そして今年2012年 サーキットで「スズキ」のマシンを見ることはなかった。 



「“最速”に挑む男たち」 ~バイク開発の10カ月~








「MotoGPレース」・・・回想録-2

2012-04-06 10:00:00 | 回想録
『歳をとるにつれ、物覚えがだんだんと悪くなってくる。
そうなる前に、少しずつ 今まで歩んできた道を振り返り
日記代わりに、書き留めておこうと思う・・・・・とりあえず回想録-2』



2012年の 「MotoGP」 レースもいよいよ今週末からスタートする。
恒例となったカタール「ロサイル・サーキット」の ナイトレースから開幕し 全18戦が行われる

その「MotoGPレース」に2009年5月まで 川崎重工で携わっていた。

以前は「WGP」と呼ばれ 純粋にレースに勝つためだけに作られたマシン 選ばれたライダーによる
2輪レースの最高峰・・・4輪のレースで言えばF1に相当する。

エンジンは排気量500cc (2サイクル)が「GP500」としてクラス最高だったが、2002年にレギュレーションが改正され、4サイクルエンジン排気量990ccで参戦できるようになり、名称も「WGP」から「MotoGP」と呼ばれるようになった。

時の流れから一般市販車も排ガス規制が厳しくなり、2サイクルから4サイクルエンジンに変わりつつあった。

2003年の開幕戦は国内4メーカーを含む海外メーカー(ドゥカティ・アプリリア)のほとんどが4サイクルエンジン990ccでスタートした。 と言っても「カワサキ」は1983年に、「WGP」から撤退していたため、実に20年ぶりの
復帰・参戦になる。

しかし、4サイクル大型市販車の生産が主流のカワサキにとって、ひとつのチャンスでもあった。


<2002年10月 社内でのmotoGP参戦出陣式>

20年ぶりの「GP」復帰を記念して、社内で出陣式が行われた。
本来であれば社内のグランドで、全従業員を前にして行う予定であったが、雨のため急遽室内で行った。

マシン名も以前の「KR」から一新「ZX-RR」と命名。 ユニフォームも「コシノ・ジュンコ」プロデゥース・・・
と力の入れようであった。



記念すべき復帰第1戦は、第13戦パシフィックGP「モテギ」で、ライダーは「柳川 明」で参戦した。

しかし結果はマシントラブルで 転倒リタイア おまけにライダーは負傷・・・

これから先を暗示するような結果になってしまった。











翌2003年はベテラン「ギャリー・マッコイ」新人「アンドリュー・ピット」のレギュラーライダーと開発ライダー
「柳川 明」・・・と言う体制でフル参戦、完全復帰した。

しかし、20年のブランクは予想以上であった。  走っても走っても縮まらない他社とのタイム。
結果は散々なもので、予選・レース結果とも悲惨なものだった。



2004年からは開発ピッチを上げるため、国内ではエンジン開発に専念し、車体開発はヨーロッパの
フレームビルダーと共同開発を行った。

ライダーも日本人ライダー「中野真矢」を起用し、マシンに対する評価もダイレクトに反映できるようにした。
結果、その年のパシフックGP「モテギ」では3位入賞と、初表彰台を日本でゲットした。










しかし、フルチューンされた4サイクル990ccのパワーは半端ではない。
コーナーではリアタイヤが簡単にスリップし、グリップすると今度はウイリーと、ライダーのスロットル操作が
非常にシビアなマシンだった。

この時期から乗りやすさ、扱いやすい出力特性にするため、エンジンの点火間隔の検討、キャブからFI化、
FIセッティング、点火時期、トラクションコントロール等の、電子制御が主なチューニング要素になってきた。

また直線の長いサーキット(と言っても1km強ほど)では345km/hオーバーとタイヤにとっても負担が大きいため、主催者側も安全性を考慮し、2007年から排気量を990ccから800ccにサイズダウンした。

このようにレースに勝つことが目的の「MotoGPマシン」は、当然レギュレーションいっぱいまで軽量するため
素材は、カーボン、マグネ、チタンと高価な素材をふんだんに使用している。

エンジンの耐久性も、1レース持てばいいという考えで、毎レース後、各サーキットから川崎重工明石工場に
返送され、部内(モトGP部)の専属メカニックの手によりオーバーホール・メンテ・再組立て、そして性能確認後、再度レース開催国へ発送する、と言うスタンスをとっていた。

当然ながら、開発コストは年間数十億を費やしていた。

今となってはこの開発コストもあだになり、2008年アメリカのリーマンショックに端を発した世界同時不況のあおりを受け、2008年いっぱいで「カワサキ」は「MotoGP」レース活動を休止することになった。

すでに2009年型の試作マシンは出来ており、年明けの海外テストに向けて準備を進めていただけに
ショックだった。




しかし、20年前のように、簡単に撤退することはできない。
今の「MotoGP」レースは、完全に主催者側(DORNA)によりプロモーション化され、2010年までレース参戦する契約になっていたため、撤退するにも数億円の違約金を支払わなければならなかった。


最終的に主催者側との協議の結果、ライダー1名のみの参戦とした。

レース活動の休止発表と同時に解約した現地(オランダ)のチームメンバー・メカニックを再契約し、マシンを託し1年間参戦することで決着がついた。

そのためマシン・チーム名にも「カワサキ」のブランド名は一切なく、レーシングカラーのライムグリーンも使われることなく、あくまでもプライベートチーム(ハヤテレーシングチーム)として参戦した。







当然、開発費の予算はなく、モトGP部も最小限のスタッフを残し、あくまでも補給パーツの製作予算のみでレースサポートをしていた。

それでも開幕当初は3位入賞と明るい話題もあったが、所詮開発がストップしたマシン、毎戦レベルアップしてくる他メーカーの後塵を浴びることになる・・・


そして、2009年最終戦スペイン「バレンシア」をもって、サーキットから完全に姿を消すことになる。

ようやく 先が見え始めるレベルまでになってきたマシンであったが・・・



「GPレース撤退」  私にとっては1983年の「KR」時代と2度目だ。

今後、景気の動向で再び「カワサキ」が「motoGPレース」に参戦する機会が訪れても
私が参加することはない。







1984年1月31日・・・高松にて・・・回想録-1

2011-01-31 19:16:05 | 回想録
     アルバム整理をしていると懐かしい写真が出てきた。

     撮影日は1984年1月31日・・・ちょうど今から27年前になる。
     場所は高松・・・

     当時、私はモトクロス車の開発業務を担当していた。
     例年1月は来年モデル(1985年モデル)の試作車の開発がスタートする時期であった。
     この時も来年モデルの方向性を見極める走行テストのため、USのテストライダーと
     一緒に香川県さぬき市にある「香川スポーツランド」で前日からテストを行っていた。

     1月31日朝7時前、目覚ましで目が覚めた
     ~?がチョットおかしい。いつもなら外を走る車の騒音が聞こえるがやけに静か・・・
     窓のカーテンを開け外を見るとなんと一面雪景色。まだ雪が降っている・・・


                         ホテルの窓から・・・




                     雪が降っていて遠くが見えない・・・

                      

                        ホテルの駐車場も積雪・・・


              ここは高松市内のホテル・・・まさか市内で積雪になるとは



              とりあえず駐車場で記念撮影?・・・




          さすがにこの日は走行テストはNG・・・他の用事で市内の営業所を訪ねた
          その時の市内の様子・・・






         前日(1/30)はテストコースの所どころに雪が残っていたが走行テストは出来た









          翌日(2/1)は雪もおさまり晴天になったのでコースに向かった。
          ~が終日の雪で御覧のとおり一面の雪景色・・・スキー場になっていた
          この時点でテスト続行は無理と判断し帰社した。










         高松市内で積雪があったぐらい寒い日・・・
         27年前も今年と同じように寒い冬だったようだ・・・

         寒~い思い出の中にも当時がなつかしい・・・