恥を知れ

サディスティック・サディーの生かさず殺さず日記

4/11

2015-04-11 18:11:46 | litera

中島敦のパラオ滞在と前後ざっくりまとめ

東京帝大卒業後、横浜高等女学校に教師として就職
(ちなみに在学中に結婚)
8年ほど勤めたが持病の喘息が悪化し退職
転地療養と文学への専念を考えていたところへ
知人の斡旋があり南洋庁に就職

昭和16年(1941年)
現地用の国語教科書を作る準備、調査のため
南洋庁編修書記としてパラオに単身赴任
7月
コロールの寮で官吏生活を始めるが
暑い、メシがまずい
(かろうじて果物だけはうまい)
食料が乏しく物価が高い
アメーバ赤痢やデング熱にかかる
期待に反して喘息の発作も治まらずたいそうへこむ
(ちょうど雨季だったため湿気が災いしたらしい)
9月
体調が落ち着いてきたところで
息抜きも兼ねて近隣諸島の公学校を視察する長期の出張旅行に出る
現存する日記はこの出発の数日後から始まっている
一等の船旅の間は発作も起こらず
コロールより食事も豪華で文明的な娯楽もあり
美しい景色などを楽しむうちに
寂しさや虚しさを覚えつつも癒やされていったとみえる
2ヶ月弱でトラック、ポナペ、ヤルートを巡ったが
特にヤルートが気に入ったらしい
一番辺鄙な島のはずが予想外にごはんがおいしくて
文明の開けていないところが「スティヴンスンの南洋」っぽくて良いと
この頃の手紙はちょっと明るい
11月
パラオに戻って2週間ほどですぐに次の旅行へ
とにかくパラオにいたくないんだな
メシはまずいし喘息発作は起こるし役所も同僚も気詰まりだし
(仕事について具体的な記述はあまりないが相当嫌な思いをしてたらしい)
それらから逃れられる出張旅行が本当に唯一の息抜きであった
1ヶ月ほどかけて前回行けなかったヤップ、サイパンへ
サイパンは余りに内地化していて面白くないと
ぶれない感想
しかしパラオよりは涼しくて過ごしやすく
物資が豊富で価格も安い
12月
サイパン滞在中に日米開戦のニュースをラジオで聞く
無事パラオへ戻るも
案の定というべきか喘息発作再開
船便や飛行機便が激減し物資がますます乏しくなる
手紙の検閲が始まり郵便事情も悪くなったため
日本へ帰る人に手紙を託して東京のポストへ投函を頼んだりしている
昭和17年(1942年)1月
わびしい年越し
再びごはんの不満噴出
しかし開戦してもまだパラオは落ち着いており
またまた出張旅行へ
2週間ほどでパラオ本島(バベルダオブ島)を一周
この頃から帰京までの手紙は残っていない
2月
ベリリュウ(ペリリュー)、アンガウルへ単発の出張あり
日記は最後のアンガウルからコロールへ戻った日で終わる
3月
東京出張の許可が出て帰京

出張といっても結局パラオに戻ることなく南洋庁を辞職している
東京の父の家で妻子とともに暮らし始めるが
喘息と気管支カタルで病臥
一旦回復して作品集『光と風と夢』『南島譚』を出版したが
病勢悪化し12月死去

最晩年の1年余りの出来事だったのだな


 

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