殊に驚くべきは、想像し得る限りの最も明るき瑠璃色をなせる(リーフ魚の如き)小魚(長さ六七糎もあらんか)の群なり。朝日射し来る水中に、彼等の群のヒラヒラと揺れ動くや、その鮮かなる瑠璃色は、濃紺となり紫藍となり緑金となり玉虫色となって、目も眩むばかりかかる珍魚共、種類にして、二十、数にして千をも超えたるべし。その徴逐去来して嬉戯する美観、奇観、筆舌の能く尽す所に非ず。
(中島敦/『日記』昭和十六年九月二十八日より)
天皇皇后両陛下がパラオご訪問ということで
パラオといったらネットで見かける親日エピソードも好きだけれど
おいら的にはやはり久方振りにに中島敦を引っ張り出してくるしかなかろう
硬い、硬いよ
南の島の海で見た熱帯魚の群れの美しさをどれだけ硬い文章で表現できるか大会があったら
間違いなく優勝できるよ
でも漢字だらけの難解な言葉の森をくぐり抜けていくと突然驚くほどやわらかであたたかな感動に触れるんだよ
そこが好き(告白)(どさくさ)
家族への手紙などはふつうにくだけた言葉で書かれているけども
日記はずっとこんな調子
さすがはショパンのノクターンを聴いた感想を漢詩で書いたり
動物園に行った感想を短歌で書いたりした人
中島がパラオへ赴任していたのは昭和16年6月頃から昭和17年3月頃まで
本人32歳の頃
現存する日記はちょうどそれに重なる昭和16年9月から昭和17年2月までのノート1冊という
おそらくもっとたくさんあったろうが
帰国してから自ら原稿など焼いたことがあったそうなので
その時処分された可能性がある
なにゆえ1冊のみ残ったのかわからないが
本人もこれだけは貴重な記録だと思ったりしたのかなと夢想してみる
戦争という視点を通さないパラオ(途中で開戦はするけど)
当時たまたま赴任していた公務員(ただし文学者の感性)の素朴で率直な感想が
なんともいえずなんとなく好きなんだな
期待に反して健康状態がよくなるどころか病気にかかりまくったり
仕事に失望したりごはんがまずかったり
妻や可愛い盛りの子供2人とも離れ離れで寂しい思いをしたりと
中島個人としてはパラオで結構散々な目に遭ったので
愚痴や弱音も多いんだけど
悲惨な体験を記しながらもそこはかとなくユーモアが漂う
手紙は自分で保管するものではないのでさすがに多い
とりわけ南洋部分を日記と照らし合わせてみるとなかなか興味深い
素直にでも心配させすぎないようにと
話題のチョイスや書き方に妻への気遣いが感じられる
現地の島民のことを土人とか平気で書いてるんだけど
これ差別的な意味合いはなくて当時のふつうの感覚だったんだろうなあ
本州のことを内地というのは北海道も一緒
外地どうしの淡い親近感
それにしても容姿についての記述はちょっと
正直ヒドイ
日本人の子もこっちで暮らしてると島民に似た顔になるとか
妻子を呼び寄せたいけど自分の子がそうなったら嫌だなとか
文学者とはいえプライベートな手紙に現代の感覚であれこれいうのも野暮だが
かなりアウトです中島先生
しかしもちろんそんなことは主眼ではない
土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある、教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるということは、今の時勢では、出来ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物を十分与えることが、段々出来なくなっていくんだ。そういう時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にして見た所で始まらないじゃないか。なまじっか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかもしれないんだ。オレはもう、すっかり、編纂の仕事に熱が持てなくなって了った。土人が嫌いだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民(土人)がスキだよ。南洋に来ているガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない。単純で中々可愛い所がある。オトナでも大きな子供だと思えば間違いがない。昔は、彼等も幸福だったんだろうがねえ。パンのミ・ヤシ・バナナ・タロ芋は自然にみのり、働かないでも、そういうものさえ喰べてれば良かったんだ。あとは、居眠り、と踊りと、おしゃべり、とで、日が暮れて行ったものを、今は一日中こき使われて、おまけに椰子もパンの木も、ドンドン伐られて了う。全く可哀そうなものさ。(今の有様については、くわしく書くことを禁じられているから、これは、もう之で止める)
(中島敦/『書簡Ⅰ』昭和十六年十一月九日より)
当時のパラオで実際に生活した日本人の実感
そして開戦1ヶ月前という不穏な空気が段落末に滲んでいる
他方では当時8歳の長男に宛てた手紙も全集に所収されているが
これがまたかわいくておもしろいの
自筆の挿絵まである
離れていても
いや離れているからこその愛情と学者家系ならではの教育熱心を感ずる
けさ、クサイという島につきました。
クサイという名前でも、少しもくさくはありません。かえってバナナやレモンのいいにおいがするくらいです。
島へあがってみちを行くと、島民の子が「コンニチハ」とあいさつします。
ぼくも「コンニチハ」と言ってやります。
すると、ニコリと子どもたちがわらいます。
ぼくもニコリとわらいます。
(中島敦/『書簡Ⅱ』昭和十六年九月二十五日 クサイ島にて。)
これとかなんともかわいくて好き
児童書として刊行する計画があったというのもわかる気がする
しかしながら解説者によれば今残っているのはこのとき清書されたもので
現物の絵葉書はほとんど失われているのだそうな
中島敦の人生がもう少し長かったなら
もう少し生活に余裕があったなら
児童向けの分野でもなにか残してくれたんじゃないかしらなんて
夢想してしまうのは私だけではなかったろう
この日記と書簡Ⅰと書簡Ⅱの文体書き分けだけを見てみても
さすが文学者というか
お見事