goo blog サービス終了のお知らせ 

猫の同居人のつぶやき

猫との日常をつぶやいています。

老いてたたかう

2007年02月05日 | 認知症と障害と医療と家族と
家に暮らして介助を受ければ、ゆっくりと良くなって筋肉も戻りもとのように立ち歩くこともできるようになるだろうに、それを介助できる手がなく、トイレにもいけずに安全策を選ぶしかない。そしてそれではなかなかよくなれない。

高齢者のよくなっていく時間を入院のリハビリでは待ってくれない。退院を迫られるときはまだリハビリの必要なときだ。
当たり前に、劇的でもなくゆるゆるとよくなる。その時間を共に歩める環境は見当たらない。
当人不在の家に慣れ、退院後の介助の労に戸惑う頃に、以前のようには家で過ごせないことを思い知らされる。

それを嫌い、入院を拒み続けた恩師は、入院では仕方なく受け入れるオムツも、決められて寝て過ごす時間も無く、病床のときもその後も「重労働」の生活を続けもう五年以上。
そしてこの暮れ、またひとつ回復の大きな階段を登ったのだろう。
急にはつらつと元気な動きを見せ、艶のよい顔に変わった。
病み上がりでもなく、介護老人でもない、普通の暮らしの老人にたどり着いた。


入院の負担を払うのにたかが3ヶ月のリハビリ入院は「時間」が足りない。
足りない時間で結論を出し、望む生活に挑む望みをたたれ、老人たちは、望みもしない、不慣れで、それが当たり前だと思われている生活に放り込まれ、閉じ込められてゆく。

もうしばらくは仕方が無い。

次には

もう仕方が無い。

と、自分の「仕方なく辛抱する」とは異なる、他人の「仕方が無い我慢してもらおう」に巻き込まれ、選び取る自由を奪われていく。

機能を失い新しく再出発する。道を断たれ、新しい道に分け入る。
そうであるなら、仕方が無いまでも、新しい「獲得」への挑戦だ。

機能があるのに、戻るまでの時間を奪われ、繋ぐステップを奪われていくなら、本人には何も「獲得」できるものが無い、おとなしくしているうちに身包み剥がされていくような終末への道だ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。