ナナと一緒に

母の残してくれたもの…それはねこのナナ。
愛猫ナナに癒され一緒に頑張る日々の記録

通夜

2007-04-30 | 母の事故
通夜の席は密葬を希望してた母にとっては予想外。
いや、母だけではなく私達もびっくりしたくらいの人が
母に最後の別れに来てくれた。

母の仕事上からごく内輪の人間にだけは知らせてあったが
母に会いたいと多くの方が思ってくださり集まってくれた。

母の人徳だなと感じ、
母と言う人間は娘が思う以上に皆に愛され仕事をしていたのだなと・・・

葬儀は母が始めて店を構えた場所のすぐそばにある会館で行った。
母にとっても私にとってもゆかりがあるのであえてその場所での葬儀にしたのだ。
そこは本当に思い出の地。
母の出発点でもあり、私が生まれしばらく住んでた土地である。
懐かしいその場所は私の記憶を呼び覚まし母との思い出にまた涙が溢れた。

母の友人、お客様、従業員や色んな方が私の手を握り励ましの言葉をかけてくれた。
ほんのちょっとの間だが母と仕事もしていた事もあるのが
母の人間関係の中に自分と言う存在が思った以上に関わっていた事には
自分でびっくりした。知らない方がいない位だったからだ。
私の小さな頃から知っている母の知人も大勢いらしてくださった。
ちょっとした同窓会のようだ。
そして皆が「先生は凄くteacatちゃん(私)を自慢してたわ」「先生のあなたは宝だったのよ」など等
そう言って皆が私を見ながら涙を流した。

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「もうすぐ本当にお別れになっちゃうんだね」そう私は母に語りかけた。
相変わらず穏やかな顔で寝ているかのような母。
私はあまりに周りの人が私を心配したりするので
本当は泣き出しそうな自分を一生懸命にこらえてた。

「泣いてばかりじゃおばさんが成仏できないよ。「ごめんね」や「何で」じゃなくて
お別れなんだからおまえの本当の気持ちをちゃんと「ありがとう」って伝えなきゃね。
明日のお別れは後悔しないようにしような
そう母の死後ずっと着いててくれている彼に言われていた。

こんな時は本当に彼の存在は大きかった。

母の死後直後から会社を早退して、心配でつきっきりで私のそばに着いていてくれる彼。
人生に絶望する気持ち、母を私から奪った現実
そして母子寄り添い生きてきた私にとってはある意味唯一の肉親。
(弟はいるが弟には父もそして父方の親戚もいる。
特に気にしてはいなかったが母の死後私を守り味方してくれる人は
本当に母だけなんだなと感じた。
その寂しさは味わった事のない孤独と深い悲しみだった。
この寂しさの淵にかろうじて立ってられたのは本当に彼のおかげだろう。

その晩通夜の終わった後に彼は私を連れ出してくれていた。
私は大声で泣き、そして声に出して叫んだりもした。

どの位そうしていたのか、あまり帰らないと先に帰った父と弟が心配すると
そう思い自宅に帰ったが2人とも何も聞いてはこなかった。

父はさすがに疲れたらしくすぐに寝たが、私と弟そして彼は
「いや~お母さんもあんなに人が来てびっくりしてんだろうね
そんなたわいもない話しをした。
お母さんの悪口も言った(笑)そうやってその晩は過ぎていった。。。


母のしだれ桜

2007-04-26 | 天国への手紙

季節はずれな話しだが今年は我が家のしだれ桜はとうとう咲かなかった。
チョボチョボとは咲いたが咲いたと言うには少々無理が…。

この桜は母の大事なしだれ桜だった。
毎年見事に咲くのだが弟はその度に毎年頭を悩ましてた。
何故ならもの凄く花びらが下にある弟の車に落ちるからだ。
昨年はとうとう高圧ホースを購入して出かける前には車の洗車からしていた。

「切っちゃうぞ!!」そう弟が言うたびに母は毎回
「だめ!!これはお母さんの桜だから切りたければお母さんが死んでからにして
そう言ってた。

私が一人暮らしの時には必ず毎年このしだれ桜を自宅から切って私の部屋に持ってきた。
もちろん入院している場合も同じ。
病室に大事そうに持ってきてくれた。
「虫がついてるからやめて~」と文句もよく言ったもんだが
母は季節のものを大事にする性格で秋には自宅の柿や柿の葉を拾って差し入れてくれた。
私はそんな母の優しい性格が好きだった。

小さな頃は旅行に行くと拾った花等を押し花にして写真と一緒にアルバムに収めたり。

だから私も季節の花を感じながら過ごすのが好きである。
今の時期だとつつじが綺麗だ。
もう少しすれば深大寺のバラが見頃を迎えるだろう。

今年咲かなかった我が家のしだれ桜。
弟はずっと咲くのを待っていた。
母が死んだ今年、とうとう咲かないで緑の葉が出てきた我が家の桜。
こんな偶然ってあるのだろうか?
毎年毎年立派に咲いてた桜が今年だけ咲かないなんて・・・。

あんなにしだれ桜を楽しみに大事にしてた母。
もしも、もしも母が生きてたら今年も満開に咲いたのだろうか。。。

「お母さん。桜咲かなかったね。
お母さんがいないから桜も寂しくてすねちゃったみたいだよ。
来年はさ、立派に咲いてもらえるように弟と私で大事にするね。
堆肥をあげて愛情込めて来年の春には天国から綺麗に見えるように咲かせるね。

お母さん。一緒に散歩したかったね。気持ちの良い季節だよ。
お母さん、これからは誰が季節の花や季節行事を私に知らせるの?
今年一緒にやった節分は私が投げた豆がお母さんに当たって大声で弟と3人で笑ったね。
楽しかったね。 この年になって家族で節分が出来るとは思ってなかったよ。
ありがとういつも。
また大泣きしちゃいそうだから今日はこのへんで。。。

  

☆彡写真は昨年春4月に撮影☆彡


失うって。。。

2007-04-25 | 日々
最近このブログを書きながら思うのです。
母の記憶を少しずつ失っていく、思い出す時間が少なくなる、思い出の品がなくなっていく・・・。

心が癒されていくと言うのはこう言うことなのか?
どちらかと言うと大切な人を少しずつ失っていっていると言う感じの方が近い気がする。

このブログを書き始めた時には本当に私の心はぼろぼろ。
思い出すたびに涙で書く事で自分の本音や区切りになり気持ちが楽になれればいいなと
そして母の最後の瞬間を知りたいなど・・・(←上手く表現出来ない)
そう思って書き始めた。

人を失うって本当に一気にではなく、少しずつ少しずつなんですよね。
声が聞こえない。匂いがなくなる。その場所に居たと言う生きてた存在が少しずつ薄れる・・・。
そして日記を書きながら私の中の記憶が少しずつ薄れる事に気づいた。
私は母の生きてた証が薄れるのが少し怖くなった。
忘れたくない、忘れちゃいけない。私は母の存在に依存して生きようとしているのか?
いや既に依存してしてたからここまで母の死が辛いものになってしまったのかも・・・。

私にとって母は一番の憧れの女性でもあった。
しかしその事を言ったり書いたりしたのは初めてだと思う。
一番だったから許せない事や一番だから理解できないものも多かった。
こんな事を人に話したり、ましてや母自身に話したところで
仕方ない事なので話したりはしなかったが
今感じる事は母には伝えるべきだったかなと・・・。

段々と母に似ていく私。
その中に確かに母が生きてた証があるのだろうが
母と言う女性が風のように駆け抜けた人生を私は確かにここに残したい。
それが依存だとしても今はこのまま気が済むまで。。。


母の頬

2007-04-25 | 母の事故
母の事故の知らせからどの位経ったのだろう。
私が母に会えたのはもう夜の7時頃だったと思う。

結局母は自宅には帰れず検死解剖後は葬儀社の用意した場所に運ばれた。

自宅からその場所に向かう車の中私は意外にも冷静であった。
周りの人は散々今日その場所に私が会いに行くのを止めた。
私の病気の事や精神面を考えての事だったのだろうが
私は「大丈夫取り乱さないから」そう約束をし母に会いに行った。

そこは幸いにも24時間親族だけがいつでも出入りができた。
入り口を入るとすぐに母の棺と写真が目に飛び込んできた。

目を閉じる。

「お母さん、お姉ちゃんが来たよ。」そう言って弟が白い棺の中に話しかけた。
私はそっと近づいた。
そこにはまるで眠っているかのような母がそこにいた。
「お母さん?」
棺の上から私は母の顔の辺りをなぞった。

「お願い。開けて。お母さんに触れたい。
そう言って頼むと叔父と弟が棺のふたを開けてくれた。
「お母さん。。。会いたかった。何寝てるの?」そう言って触れた母の頬の冷たさに私はびっくっとした。

そこに寝るようにして母はいるのに頬の温かさがない。
「お母さんどうしたの?まるで吹雪の中スキーでもしたみたい」そう言ったと同時位に
私の目からは大粒の涙がこぼれてきたのを覚えてる。

後はもう止まらなかった。
ひたすら「何故?」「お母さん起きて」「早く家に帰ろうよ」この繰り返しだったと思う。

あまりに私が泣き叫ぶので私は棺から引き離されるように車椅子を後ろにひかれ
「放してほっといてやめて」とその場で母の棺にしがみつき気が狂ったように叫んだ。

私はこんなに泣いた事はないんじゃないかと言うくらい泣いたと思う。
「酷いお母さんを返してお母さんが何でこんな事になるのよねえ何で?」
ひたすら眠るような母の顔を見ながら全てのものを恨んだ。

どの位そうして時間が経ったのか私が冷たい母の頬を温めるようにして触っていると
「冷たいよなおふくろの頬。まったくいつもの寝顔でさ。」そう言って弟が
私が触れてる母の頬と逆の頬を弟が温める様に触れた。

こうやっていると母が死んだなんて本当に思えなかった。
母はお酒が好きで酔うとすぐにDOWNだった。
そうすると面白がって昔はその寝顔に弟と二人でいたずらをしたりしたものだ。
「お母さん起きて。起きないと鼻つまんじゃうよ。」そう言って私が笑うと
「なんかさ、おふくろ笑ってるように見えない?皆が集まって嬉しそうだよね。
きっとさ今も自分が死んだって思ってないんだろうな」そう弟が言うので母の顔を見ると
確かに微笑んでいるようにも見えた。

寂しがり屋でわがまま。怒るとすぐに仕事場の上にある部屋でイジケルてプチ家出をする母。
もうお母さんが家出しても私も弟も怒らないから早く目を覚まして。
そんな事を言いながら母を見つめてた。

「おふくろ。良かったな。おふくろにぎやかなの大好きだもんな。みんないるぞ~」

そう言って私の肩に手をかける弟の手にこの時大きなものを感じた。
子供だと思ってた弟は私なんかよりもしっかりしていて大人だった。
私は改めてそれを感じながらまた涙が止まらなくなっていた。 


母からの手紙

2007-04-23 | 天国への手紙


今日は母の月命日になる。

まだ桜が咲くには少し早いが風は春を運び始めたそんな時期だった。
「いってきます」その言葉を最後に二度と帰る事が出来なかった母。

私はその日、翌週の母の誕生日プレゼントに母の希望通りの
白いパンプスをネットで見つけ母の喜ぶ顔を想像した。

だがその靴を母が履くことはなかった。

☆彡☆彡☆彡☆彡

昨日はここの所少し母の死から精神的に凹み気味だった私は
「今日は何かストレス発散に大きな買い物でもするか
などとちょっとテンションを上げるつもりで出かける事にした。

いつものように彼の車に乗り込み
彼が車椅子などを積み込むのを助手席で待った。
ふと何を思ったか私はいつも持っているポシェットの中を何気なくゴソゴソとした。
・・・。
領収書やごみに紛れカバンの内ポケットの中から何やら丁寧に包んだ紙が出てきた。
「おや?何だろう?」
・・・。
包んであった紙の中にはお薬の説明の紙が入ってた。
広げてみるとその紙の裏には母の字が・・・。

私宛に書いた母の遺言のようなものだった。

何なの?何なのこれは?
日付は昨年の12月16日。。。

そう、母は昨年の師走の忙しい時期に救急車で運ばれICUに入院したのだ。
その時にどうやら書いて私がトイレか何かで席をはずした時に
カバンにそっと入れたものらしい。
あの時は幸い大事に至らずにすんだが
母はその出来事以来、調子がずっと悪そうだった。

私は涙が溢れてきた。
「どうしてなの?なんでなの?もう嫌だよ。 こんなのないよ。
こんな紙切れなんかいらないよ 何でこんなもの書くのよ
私はもう自分が何を思っているかなんてわからなかった。

あの時に母は医師の止めるのも無視して嬉しそうに自宅に帰ってきた。
家族中呆れたが母は一人ニコニコしてた。
そうして微笑む母を見ながら私はこの仕事人間の母は不死身だわ。
そう心で思ったのだ。

そうしてクリスマスを向かえ、お正月が過ぎ変わらない毎日だった。

それなのに、それなのに。神様は本当に何処まで意地悪なんだろう。
だったら何故昨年あの時に母を助けて今回はこんな酷い仕打ちを母にしたのか?
「神は耐えられない試練など与える事はない」
そう母校の信頼するシスターから聞いて、そう信じて私は毎日を頑張ってきたのに
私は母の事故以来、信仰が何なのか見失っている。
実際に母の死後、私はそのシスターに電話で「私は神様を恨みますそう口にした。
なんて酷い事を口にする卒業生なんだろう私は・・・。

だが誰かを恨んで母が帰るわけもなく、自分がしっかりするしかないのだ。
わかってる。すごくわかっているのだけど・・・。

月命日の前日に母の手紙が私の元に・・・。辛いけど母は何かを伝えたいのかも・・・。


「お母さん手紙受け取ったよ。びっくりしたよ。何でこんなもの書いたのよ。
退院した時点でこの手紙は処分しなきゃだめでしょ
これじゃあ本当に遺言になっちゃったじゃんでもちゃんと私読んだからね。
ごめんね。笑ってたけど本当はあの入院の時お母さんは不安だったんだね。
どんな気持ちで書いたんだろうね。
お母さん私はやっぱりまだまだお母さんのいない日々に慣れるには時間がかかりそうです」

あーあ。また今日も泣いちゃった。 この一ヶ月涙の皆勤賞なんて自慢にならないよ


2年前の記憶

2007-04-22 | 病気
春の空は3日ともたないと言いますが
ここの所の東京はこの言葉がぴったり。

ずっと雨の続いてた空に青空が。。。

ちょうど2年前の今頃私は持病の多発性硬化症
http://www.nanbyou.or.jp/sikkan/068.htm
で入院中に再発が止まらずどんどん病状は悪化。
左半身の麻痺が徐々に全身に、そして呼吸器に・・・。
私はこの病気では死ぬ事はないと聞いていたので
始めは自分の身に起きていることが把握できなかった。

初めての免疫吸着。
簡単に言うと免疫吸着とは体内の血液を一旦外に出しろ過をして
悪いものだけを取り除きもう一度体内に戻すと言ういわゆる透析のようなもの。

この時は本当に辛かった。
だが私はある意味幸せにも感じたのを覚えている。

その時の私は個室に移されてて24時間呼吸器につながれてた。
意識は正常だ。
個室の窓からは春の青空が覗きその年は4月なのに24度を毎日のように上回った。
昼ともなると病室は熱くて居られない位になり私は暑いのが苦手なので
氷枕を全身に引いて冷やしてた。
自分で水も飲めない、ナースコールも出来ない
そんな私のそばを母は24時間泊り込みで看病してくれた。

私は小さな頃から両親が仕事をしていたので病気になっても
一人で自宅で寝ているのがあたりまえだった。
だからそんな風に母を独り占め出来るなんてめったにない事。
そして弟が休みの日には家族が4人病室に集まって笑いが絶えなかった。
週末には彼も病室を訪れてくれる。
そんな光景に私はなんて自分は幸せなんだろうって思ったのを強く覚えている。
だから仮に自分が死んでしまうとしても今ならもう悔いはないと思ってた。

しかし考えたら私って言う子はいつからこんなにマザコン(?)になったんだ?

やはり病気になってからだろうな~
それまでの私はどちらかと言うと家が嫌いであまり寄り付かないタイプだった。
それが病気になり改めて家族の大事さや必要性を考えるようになった。
まあ病院と言う場所は特にやる事もないので考える時間が沢山あったし・・・

病気は正直なりたくなかったが、そこから得たものは私の人生に意味あるものばかりだ。

とにかくこの時期の青空を見るとこの時の事を思い出す。
よくよく考えたら私の病気の確定診断もこの時期だったかも。。。
・・・。と言う事は再発に気をつけなくては・・・
(案外嫌な事は寝たら忘れるそんなタイプなので病気の事に関しては
 辛い思いは沢山しているはずだがあまり普段思い出す事がないのだ

そうそう。この時の出来事で後から母に私はいつ死んでもおかしくない状態と
医師に説明されたと聞かされた。
確かに医師は私にもそう言ってたかも(笑)
その言葉は半分本気半分聞き流してたのでさほど自分にとっては重要視した記憶がない。
ただ両親がいない時に私は医師を呼び尊厳死を主張して主治医を悩ませはしたが
案外その時は冷静で死について怖いとか思わず
両親が悲しんで欲しくない事と入院費の事考えてた気がする。

そうだ私って本来はその場は考えるが基本は暢気な性格なんだよな
都合悪い事は忘れちゃう久々に自分を思い出したかも。

ここの所暗いぞ私
今日は花を買いに行くついでに何かお買い物でもして気晴らしでもしよ


衝突

2007-04-19 | 母の事故

母が死んでからのこの家の毎日の生活は
正直私にとって落ち着かないものとなっている。

母の死後父が当たり前のようにこの家に帰ってきたからだ。
この事に関しては本当に悔しいが動けない私にはどうする事も出来ない。

すでに母の死後、父との衝突は何度か起きている。
生前母はこの家に父が帰ってくる事を非常に恐れてた。
そして私に
「あの人とは絶対にあなたは住んじゃだめだからねあなたの病気が酷くなってしまう
そう言って私が色々な面で後々に不自由のないように母はちゃんと考えてくれていた。

が・・・。現実は突然の母の死によって父にとっては非常に好都合なものになった。

小さなものだが我が家は持ち家にマンションが1つあるのだ。
(どちらもまだローンが残っているのだが。。。
その話しはさておいて母は生前にメーカーとブティックを経営していた。
よって母の死でもちろん母の口座は全て封鎖されてしまったので
商売上一刻も早くこの口座内容を把握するべく開かなくてはならないのだ

そしてにも書いたが実は自宅は母と弟、マンションは私と母の共有名義でローンを組み
この支払いも把握しないといけないのだ。

そう、この自宅とマンションには父の名前は一切ない。
それは父も実は再婚で子供が前妻にいると言う理由もあるのだ。

あ~ややこしい。

だがこの事よりも何よりもはっきり言えば両方とも一切父は関係してないし
マンションを買う際には連帯保証を頼んだら自分には関係ないとつっぱね一切助けてくれなかった。

文章では書ききれない色々な理由からとにかく父はこの家の一切に権利がないのだ。

母と別れてなかったので夫と言う事以外は・・・

そんなある日私は弟に委任状を求められた。
内容は母の財産一切に関して父と弟に全てを任せると言う内容だ。
愕然とした。いったいなんなんだ?
説明もなしにこのような物を私は書けと言われても納得がいくはずがない。

父は元々は銀行員だからお金に関しては詳しい。
だが私と弟はずぶの素人。
弟は父の言いなりになり(信用して)全てを父にゆだねてたのだ。
だが私は父の良いところも悪いところも大体知っているつもりだ。

委任状を使う理屈はわかっていたが私は説明なしに
それを進めようとする父が納得いかなかった。

だいたい、自分でこの家を出て行き自由に暮らして
なにのこのことココに居座っているんだ?誰の許可でここにあなたは居るの?

だが結局は動けない私も弟も父にはかなわなかった。

そして父は私に言った

私は病気になって散々入退院を繰り返し、迷惑をかけ
今では車椅子で自由にならない身体じゃないかと・・・。
お母さんを苦しめてたくせに。お母さんを殺したのはおまえだ。
お前が元気ならお母さんももう少し幸せな人生だったのにな。
お母さんが死んだのはお前のせいなんだぞ!!
おまえが大きな口たたく権利が何処にあるんだ?

もう何も言葉はなかった。
ただ確かに私のせいでお母さんは苦しんだと思う。
だがそれ以上に最低な行為を母にしてきたと思ってた父に言われるなんて・・・

私はもう何も言えなかった。生きていたくなくなった。

弟が父に「お姉ちゃんに謝れ殺人者呼ばわりした事を謝れ」と怒鳴っていたが
もう父は撤回などはするはずはなく、むしろ「本当の事だ」そういい続けた。


一人にしないからね

2007-04-19 | 母の事故
朝になり9時を迎える頃には父と弟、私そして父の兄が飛んできて
葬儀の準備が始まった。
それから私は周りの方への連絡等におわれた

友引が入るので葬儀はひとまず2日後になり
少なくとも少しは長く母と過ごせる事になったのだ。

母の死後まだ数時間と言う中どんどん進む葬儀の準備
地方からは連絡を受け朝一番で飛んできた叔父や叔母。
私の喪服の準備や母の最後のお別れに着る服選びに写真選び・・・
従業員達からの連絡。母の知人たちからの花が次々に届く。

もの凄い勢いで我が家の中は人や花、電話の嵐になっていったのだ。

ほんの12時間前は母は生きていたのだ。
そう24時間前はこの場所、自宅で私とおしゃべりしてたのだ。

不思議だった。だからなのかまったく実感がないのだ。

従業員達が号泣しながら私に話しかける。
「大丈夫!大丈夫だから!本当に皆さんありがとうございます。」
私はそう言いながら悲しいはずなのに笑って対応している。

泣き声と電話の音が自宅の中をかけめぐる。

そんな時に一本の電話が私の元に入った。
それは母のことも私の事も知っている方。もちろん弟の事も。
お姉さんのような大切な我が家のヘルパーのAさんからだった。

「大丈夫?ちゃんとご飯食べている?大変だけどご飯はちゃんと食べてね。
私はちゃんとそばにいるから。一人にしないからね。」

私はこの言葉でそれまでピーンと張った何かが切れるような不思議な気持ちになった。
それはまるで魔法の言葉のようにも聞こえた。
「私はそばにいるから。一人にしないから」
が溢れそうになるのがわかった。それは私の弟も同じようだった。
これほどまでに心に響き、そしてきっと私や弟が一番欲しかった言葉なのかもしれない。

今も彼女は確かに私達のそばに笑顔を振りまいてその後もついていてくれる。
弟なんかは「もう一人お母さんがいるようだ~」とAさんの言う事には逆らえず今日も笑っている。

「お母さん。心配しなくても今日も元気に私達は過ごしてます」


私は殺人者

2007-04-17 | 母の事故

母の死後、私はずっと考えることがある。
母は私と言う娘をどう思ってただろうか・・・。
正直愛されてたとは思うがこの1年この家に私が戻ってからは
自分だけ良い子になるつもりはないから正直に書くが
酷い衝突もいっぱい起きた

車椅子で本当に動けず、病院のようにはいかない生活の苦しさから
自己中心的に私は考えを述べてきたと思う。
転んでも起き上がれない→母は仕事→一人動けない事にジダンダ
→自分にイライラ→母に文句言う→母怒る→口論になる。

こんな事が始めの頃は多かった。
そのうちにこの生活に私は慣れてきたが、母は違ってた。

今まであった生活が私が帰って来た事でヘルパーさんや看護婦さんの出入りや
自分で私の世話をやらないとと言うプレッシャーの日々と仕事。
と同時に父の自宅への出入りが当たり前になり
母は段々自宅に居場所をなくし始めていたのです。

この頃から少しずつ帰りも遅くなっていき会話も以前のようにはしなくなってきてた。

本当に仲が良く、一緒に飲みに行くと皆に「姉妹のようだね」と言われたりしてた。
無論衝突も激しかったがお互いにそれでも分かり合ってた。親友のようでもあった。

だが判らない 母がこうなってずっと考える。
母の人生は私が病気になった事でどれだけ苦しかったか・・・。
もしも、私がせめて車椅子にならずにいたらこんな事にはならなかったのでは・・・。
私が実家に帰ったことで全てが狂ってしまったのではないか・・・。

母の居場所を奪ったのは私だ。私自身なのだ

そして一番嫌がってた父がこの家に自由にまた出入りし始めたのだって
私のリハビリの送り迎えをしたりしてくれてたからだ・・・。
母は私に頑張って欲しいからと父のご機嫌をとり本当は嫌なはずなのに
「お父さん頼りにしてるから」「お父さん助かるわ」など等
そう言って手を振り私の通院やリハビリを見送ってた

どちらにせよ、そうやって母は私の事で自分らしさは押し殺して生活したのだ。

そんなの母親なんだから当たり前だ位にしか私はたぶん思ってなかったような気もする。
だからこそ自分が許せないし、息することも考えると苦しい。
母の人生を私は奪ったんだ。
口癖のように
「病気のあなた残しては死ねないからお母さん頑張らなきゃ
「あなたは私の生きがいなの。あなたの幸せが一番の私の幸せ
「あなたがもし死にたいのなら、一人では死なせないよ。
お母さんも一緒に死んであげるからね

そんな命をかけるほど私に真っ直ぐに愛情を注ぎ込んでた。
正直「重(おもっ!)」って思った事もある。

そんな母に対し私は何をしてあげられてたのか?
苦しみばかりを母に与え、最後は母を孤独にさせてたのではないか?
母の死後私は毎日のように「ごめんね。ごめんなさい。」が口癖になる位
母の事を考える度に謝り続けている

私がこの家に、こんな病気にならなければ母はきっと今もここで笑ってた

「おまえがお母さんを殺したんじゃないのか?」
母の死後ある衝突から父と口論になり言われた言葉だ
自分でも毎日考えてたことだけに父のその言葉は私の胸に鋭い刃物のように刺さった
この時の事はまた後日書くが、一つ言えるのは
少なくとも私自身だけじゃなくそう思う人が居ると言うことだ。

「おまえに文句言う資格あるのか?おまえのせいでお母さんは死んだんだ
おまえがお母さんを殺したんじゃないか

父は何かある度にこれからも私にそう言うだろう。私は殺人者なのだ


自宅に帰して!

2007-04-17 | 母の事故

身内が亡くなると泣いている暇がない等とよく聞いてはいましたが
まだ母の検視が終わる前から母の葬儀について話し合いがされました

正直私は一生懸命何か私に相談する父に対し
「何この人?今まで散々したいようにしてきてお母さんの葬儀とか言ってんの
そんな事を思っていた。

そもそも母は葬式は絶対にあげて欲しくないと昔から言っていた。
それでもやらない訳にはいかないわけで・・・
私も弟も葬儀については何も判らない
だから結局は父に頼るしかない。 悔しかった。

私は考えが子供なのだろうか?
まだ母の遺体を見てないから余計に葬儀の準備をすること事態が許せないのだ。
しかし母の検視が終わり次第遺体を保管するために移動しなくてはならない。


「自宅に帰る途中で事故にあったのだから自宅に連れてきたい

私はそう強く主張した。この意見には父も耳を傾けてくれたが
結局は自宅は狭いので葬儀社に任せることになるのだが
私はひたすら
「お母さんを連れて帰ってきて
そんなわけ判らないところに連れていかせない
葬儀は式場でも、とにかくお母さんを自宅に帰らせてかわいそう

そう言って一歩も引かなかった。せきを切ったようにそう言って泣き叫んだ

父は私を説得してきた。


わかる。私の意見は本当はそれは少々不可能だとわかってた。
でもその時の私は自宅に帰ろうとして事故にあった母の気持ちを考えると
何が何でもこの自宅に連れ帰りたかったのだ。
それにそうじゃなかったら母がこの家に帰れるのはお骨になってからになってしまう。

「それは嫌絶対に嫌

そして私を説得する父も許せなかった。
その時はおそらく全てを憎んだと思う。私から母を奪おうとする全てを。
しかし父に関しては我が家は色々あり、苦労させられてもいた
決して悪い人ではない。そうだと思う。
だがとにかく自己中心で物を考え意にそぐわないと威圧してくる。
そして何よりも許せないのが


暴力だ


私は常に今思うと衝突しても母が守ってくれてたので
直接暴力は受けた事はない。

そして父は嘘つきでもある

この嘘はもう言い出したらきりがないくらい自分有利な嘘だらけ。

最後はギャンブル

昔、まだ家族みんなで住んでた頃
母がやはり自転車で仕事の帰り道に左折するトラックに巻き込まれ
これがちょっとしたやくざがらみの最悪な人で大変だった事がある。
この事故のときに母の怪我は運良くたいしたことなかったが
父に連絡したくても連絡取れず結局連絡取れたのは
母がもう病院で手当も終わり帰ろうとしてた時である。

「今頃何しに来たんだ

私は病院関係者に注意されるくらい怒り任せに怒鳴った。
父は謝るだけ。まあマージャンしてたのは検討ついてたが私は悔しかった。
毎晩毎晩家にお金を入れるわけでもなく
プラプラ遊び、負けると家族に八つ当たり 

そんな父に別れたくても父の暴力が怖いのもあって
離婚できずにた母。 まあ他にも離婚できない理由はあるが・・・

とにかく私はその数々の父の今までがあるだけに
きつい言い方だが何故父より先に母なのか?
母の人生の締めくくりを何故こいつが仕切っているのか?

私はあまりに母がかわいそうで、かわいそうで仕方がなかったのだ