ナナと一緒に

母の残してくれたもの…それはねこのナナ。
愛猫ナナに癒され一緒に頑張る日々の記録

現代って

2007-05-31 | 日々

最近思う事があります。
個人情報の保護やセキュリティーの問題などが世間で騒がれ
何となく居心地の悪い環境になって行く様な。。。
いろんな意味で安全が守られる事はとても良いと思うのですが
その反面人間不信じゃないですが
昔のような人とのふれあいや信頼関係と言うものが無くなり
人付き合いの出来にくい世の中になっている気がします。

先日も真上のお部屋に人が引越して来ましたが
どんな方かは知りません。
たまたま我が家は大家なので住人の情報は書類を見ればわかりますが
そうじゃなかったらまったくマンション内ですれ違ったりしても
わからないわけでして。。。

何か不思議な感じがします。

他にも銀行やお役所なんかに関しても私なんかは車椅子なので
自由にならない分人に頼んだりする事が多いのですが
そうした場合も本人でないと申請が出来ないものや確認の出来ないものだらけ。

母が自営業だったので個人的に銀行などとお付き合いがあるため
母の死後、営業マンの方が良くしてくれたりして助かったものもありましたが
それにしたって基本的には本人がその場所まで
出向かないと駄目な物が多すぎます。
じゃあなんのために営業はいるの?特定なお客様だけのため?
私は自分がその昔に某車会社で営業をした事があり
その頃はまだ個人との関係が大事にされ信頼から商談が成立したり
お食事をお客様家族と頂いたり。
そんな小さな事に喜びを感じ毎日仕事をして次へのステップにしたものです。

小さな頃から商店街の中で育った私は、
ちょっと前までは街を歩くとみんな知り合いみたいな状態で
そんな中で繰り広げられる会話に人とのふれあいを感じ
人が人に関心を持ち毎日を過ごす事がある意味あたりまえでした

だから時代は進歩するのはいいのですが
現代を見ていると本当に過ごしにくく感じます。

きっと健康だったらそんな事はあまり思わないのかもしれませんが
病気や車椅子になり本当に感じる事は
最終的に人を守れるものは人だけではないかと思うのです。

決まり事や機械に頼るのも確かに必要です。
ですがそう言った物は所詮その枠組みの中だけで動き
感情や知能は結局は人間の日常生活から生まれるものではないかと。。。

人が人を思う事をやめてしまったらきっともの凄くこの世は生きにくく
お年寄りや障害者、病気の方や身寄りの無い方等などは
なんて孤独で寂しい毎日を不自由に過ごすのだろう。。。

いつかみんな歳もとれば病気もする。。。
人って絶対に一人では生きていけない生き物だと思うのは私だけ???
弱いから自殺なども起きるわけだし。。。
自殺を考えるのもおそらく100%人間しか考えない行動でもあるし。。。

ん?何か話しが反れたような

の音を聞きながらふと物思いにふけってみた今日の私でした(笑)


☆彡☆彡☆彡☆彡

にゃん鼻写真館 

 


大切な存在

2007-05-30 | ナナとごん太との日々
実家を飛び出してココに来て2週間。
落ち着いたような落ち着かないようなそんな日々。

週末色々ありました
でもそんな中もの凄く嬉しい事が一つありました。
それは実家から愛猫ナナがこのお部屋にお引越ししてきました。

実家を出る日に「必ず迎えに来るからね」と約束。
あの日から毎日気になって気になって仕方ない日々が続き
何度勝手にココに連れてきてしまおうか悩んだ事か・・・


そして向かえたこの週末。
彼が私の父と話しをした際に(一先ず実家にはもう戻らないと伝えてくれました)
話しの最後に私がナナを欲しがっていると話して連れて来てくれたのだ。

そもそも私がこのナナを心配した理由は
我が家には2匹猫がいるのだがナナだけは母と私しか
可愛がっていなかったからだ。
弟はナナが嫌いらしく全然可愛がっていなかったので
動物嫌いな父と弟の中で人一倍甘えん坊なナナが毎日寂しがっているのでは…
そう思うと本当に切なくて切なくて実家においてきた事が
悔やまれて仕方がなっかたのです。

でももう安心。
寂しい思いをさせてた分うんと可愛がってあげたい。
私にとってもナナの存在は大きなもので、一心同体なのだ。

それにナナは元々母が気に入って連れてきた猫。
私は赤ん坊のナナの正直しつけの悪さに飼うのは反対だったのだ。
人間のものは食べるし、机には乗る。。。
これでは正直室内飼い猫として少々問題だらけ。

なのに母は一目惚れしてその場で
「この子(ナナ)家に連れて行く」と・・・。
その晩は母とナナは一緒に寝て
翌朝目が覚めると既に母は名前を「ナナ」と付け
ナナも母の後をトコトコ呼ばれるとついて歩いていたのだ。
普通名前が決まって慣れてくれるのにしばらくかかるのに
この子(ナナ)は母が適当に色々呼んでみたところ
何故かこの「ナナ」と言う名前に返事をし母のところに駆け寄ったのです。

あれから11年が経ち随分我が家の状態も変わってしまって。。。

でもそう考えるとナナは母が残してくれた
私のかけがえのない友達でもあり家族でもあるのだ。
母が生きている頃から何故か私が大粒の涙を零したりしていると
何処からともなくやってきて私の顔を舐めるのだ。
この行為だけは不思議でしょうがないのだが
私はナナが励ましてくれているのだと思いいつも元気付けられている。

もう私は大事な存在は無くしたくない
だからナナとも絶対に離れないし、2人で必ず幸せになる
そう思いこれからのこの時間を大切に過ごしたい
                 
「ナナちゃん。幸せになろうね。
もう二度と置いて行ったりしないからね。ずーっと一緒だよ


閉店

2007-05-25 | 天国への手紙
お母さんへ 
         
お母さん明日お店が閉店になります。
この町で小さな洋裁店から初めてバブルな頃は銀座にも出店
ファッションショーから洋裁教室に至るまで本当にこの業界に全てを注ぎ
最後は「小さくても私が生きた証だからとこのビルを建てたね。

ここのビルでの開店祝いの時は私は病気になり出席できなかったのが
私は残念だったな。

お母さんに似ずに不器用で洋裁なんかは全くだめな私。
本当は私に後を継いで欲しかったのにその意思に沿う事が出来ずごめんなさい。
でも少しの間だったけどお母さんと一緒に仕事が出来た事もあったね。
毎日が楽しく、毎日色んな話しをして、時々意見の衝突をして
そして仕事帰りに一緒に飲みに行く。

皆に姉妹のようだとかどっちが親だかわからないよなんて言われたり。

小さな頃から比較的可愛い格好をさせてもらい、
ファッションショーの時はウエディングドレスのベール持ちを私がしたら
モデルさんの裾を踏んでしまった事覚えてる?
あの頃がお母さんにとって一番幸せだったのかな?

ねえお母さん。   
また一つお母さんの思い出が消えちゃうんだね。
それも一番お母さんが大事にしていた仕事場が・・・。

どこまでお母さんの思い出は無くなっていくんだろう。
まだお母さんが私の前から消えて2ヶ月なのに
いったいいくつ思い出が消えただろう。

毎日少しずつ少しずつ失っていくお母さんとの思い出に
お母さんがこの世からいないという寂しさを少しずつ実感して
ある意味では悲しみは深まるばかり。。。

お店が明日なくなるのは想像していたよりも私は考えれば考えるほど苦しい
お母さんの分まで悲しいのかも。
もしかしてお母さん私の中に入って一緒に泣いているのかな?
じゃなきやこんなに涙が出るのおかしいよ。。。

明日最後の日に皆来てくれるみたいだよ。
皆にも会いたいな。。。
でもお父さんが店にはいるし私は行けないよね。。。
這ってでも閉店を見届けたいのに。。。

はあ~。悔しいよ。
何で私が家を出て、店までも近寄れない思いをしなきゃいけないのか。。。

お母さん。時間が戻って欲しいよ。。。
あの日にあの日の朝に戻る事が出来るならって  


Angel star Box

2007-05-22 | 日々

先日は久しぶりに友人Aちゃんに再会。
凄く凄く心配してくれていた彼女は会った瞬間に「ハグ=抱き合って挨拶」
彼女のこの「ハグ」は何故かいつも私の心を包んでくれます。
(決して変な関係ではありませんよ)

色んな話しをして
彼女自身まだ20代の頃にお父様を亡くしているからか
私の深い悲しみや孤独は痛いほどわかってくれていて何も言わないでも
彼女には伝わっていました。

母のことも良く知ってた彼女なだけに久しぶりに
人と母の思い出話しをする私は何とも言えない気持ちになり
気づいたらポロポロ涙を流し彼女に頭を撫でられてました。

その時にやっとわかった事があります。
友人Aちゃんの行動は母のする事に近いと言う事を。。。
私が辛い時には何も言わず抱きしめて頭を撫でて思いっきり泣かしてくれる。


母は熱が出た時や苦しい時には手でおでこや頭を良く撫でてくれ
私はその行為が何故か落ち着くので母の手が大好きなんです。
いわゆるハンドセラピーですよね。
不思議と気持ちが落ち着いたりして。。。

久しぶりに会ったのに何だか私の話しばかり聞いてもらってしまい
Aちゃんとの楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいました。

最後に彼女はお土産にAngel star Boxなる素敵なプレゼントをくれました。
これは英国から取り寄せたもので中に願い事を入れて置くと言う物らしいのです。
ちょっとした小物入れたりにも素敵な感じで、使い方はその人の自由と言う事。



私はせっかくなんで早速お願い事を紙に書いて入れてみました。
ありがとうねAちゃん

そして明日は母の月命日です。
母が亡くなってまだ2ヶ月。。。 それなのに。。。
平和だったはずなのになんでこんな事になってしまったのか。。。

「お母さん。この先どうなっていくんだろうね。。。
私はお母さんの意思を守るべきですか?もう苦しくてくじけそうです。
お母さん、どうか私に力を貸して下さいね。


2007-05-18 | 日々
ここのマンションに来て2日。
何だか忙しい日々を送っていた。

私はどうしても身体が自由が利かない事もあり色んな方に助けられ生活しています。
そんな中幸せな事に今回私の勝手から実家を飛び出したにもかかわらず
その日のうちに皆さんが対応してくれた。
そのおかげで何不自由なく生活が出来て
母の死後こんなにも心が穏やかな日々は初めて。

実家を飛び出た時に母の写真だけは抱えて出てきたので
実家にいる時はなんとなく父を意識してか母の写真を飾ってなかったが
今は机に飾り毎日母に語りかけている。
あんなに毎日母の写真を見ては泣くのが定番になってた私だが
この部屋に着てからは考えたら母にまだ泣きついていない。
むしろ初めて向き合い久しぶりの親子の会話をしている気がする。

彼は写真の中の母が気のせいか凄く嬉しそうに見えると言っている。
そうかもな~。
確かに私も同じ写真のはずが実家で見てた時に
悲しそうな顔に見えたことがあり一番笑顔な写真を選んだはずなのに・・・
と思ったことが何度かあったから。

そして今日はなんと母校のシスター2人がここに来て下さいました。
母の死後凄く心配していてくれ、ましてや私が実家を飛び出てしまって
本当に本当に心配してくれてた。
不思議なもので正直私は学生時代は決して良い生徒ではなかったと思う。
それが今では苦しい時や悩んだ時にはいつも母のように可愛がって頂いている。
こんなに自分の生活に母校が関係してくるとは昔は想像もしていなかった。
病気の時などは懐かしい同級生達からも沢山のお見舞いやお手紙をもらった。
通っている時にはカトリック独特な厳しさに正直嫌気も差し
「絶対に自分の子供が出来たらここだけは受験させない」なんて言ってたのに
今なら女の子が私にいたら絶対に入れてあげたい学校になっている。

まだここに来て2日だが本当に上手くは言えないが
風が少し良い方に吹いてきている気もする。
問題は山積みだが少なくともここ数日でつくづく私は色んな人に助けられ幸せなんだって毎日実感している。
母が亡くなってから寂しくて寂しくて潰されそうだった心に皆が温かなものを運んできてくれる。

明日も一番私が病状が悪くなっていくその毎日の中を
毎日毎日本当に心配して「ハグ」しに来てくれた友人が側に来るので寄ってくれることに。
彼女は英国留学経験があるためいつも彼女との挨拶は「ハグ=抱き合う」である。
私も元々人と抱き合うのが落ち着くので良く別れの最後は「ハグ」したりする。
今思うと母がやっぱり「ハグ」癖があったからなのかもしれない。

この数日私が私らしさを思い出してきている気がする。
この日々が続けば本当にいいのに。。。



写真は母校シスター達がプレゼントしてくれた花です。
この部屋には花がなく寂しく感じてたから私もだけど母も喜んでいるだろうな。

そして今日はヘルパーのAさんが実家に荷物を取りに行った時に
愛猫ナナちゃんのムービーを撮ってきてくれ感激

 

ナナ必ず迎えに行くから待っててね


決断

2007-05-16 | 日々

とうとう本当に決断の日が来たのかも。

父に出て行くのはおまえ(私)だと。
お前は実の子じゃないのだからおまえがこの家から出て行けと。

不動産に生命保険、呆れる事に全て
俺がお母さんを養ってやったものから出ていると。

そして私の入院費。

全てを要求され私は前々から弁護士に頼むと言うと逆上する父。
もう父と思うのはやめたほうがいいのだろう。

5月16日 午前零時過ぎ
私はとうとう家を飛び出しました。
今この日記の続きは私が以前住んでいた母のマンション2階。
ここは彼が私の入院後に母と話し私がいつか帰れるようにと
借りて待ってていてくれた部屋だ。
ただ、車椅子になった私にはここは2階で帰れなくなってしまった部屋であった。

懐かしい香りに懐かしい風景。
26ヶ月ぶり?の我が家だ。もう二度とここには来る事が無いと思ってた
しばらくはここで頭を冷やし今後を考えよう。。。
一ついえるのはもうあの家には帰りたくない。。。

ん~しいて言えば可愛いにゃんことわんこだけが気がかりで、
今後の私の生活に出来ればあの子達が一緒にいられたら・・・。
住むところと少しの幸せそれだけが私の望み。


警察からの連絡

2007-05-15 | 母の事故

何だか正直よくわからない気持ちです。
と言うのも警察から母の事故についてのその後の連絡がありました。

結局はその後新しく目撃者も探したが出てこない(本当に探したの?)と言うこと。。。

そして「家族からちょっと話が聞きたい」と言うことだったので
父は別居生活が長かったし私は弟に警察に行ってもらいたく
折り返し電話をしますと電話を切りました。

弟は丁度その時にはお風呂だったので出てきた弟に
「警察から電話があって話がしたいから折り返し電話してちょうだい」
そう言うと弟は特に気に留めるわけでもなく
「ふ~ん。あっそ。」と話しを聞こうともせず 

はあ?ですよ。
「なんじゃいコラ~その態度人の話聞けと言いたいところ抑えて
「あのね一度話がしたいらしいからその日にちを決めたいから・・・」
「じゃあ木曜日にして」
・・・。つうかまだ話しには続きがあんだよ~って正直思いながらも
「とにかく17日、18日のどちらかが向こう(警察)はいいみたいだから
折り返しかける事になっているから電話をかけてね ゛(`ヘ´#) 」
 
すると弟君の返事は
「俺忙しいんだよね。めんどくさいな(溜息) 後でね」
さすがにこの溜息混じりな態度に私は呆れると同時になんとも言えない気持ちに。。。
猫とじゃれたり、朝から音楽聴いて湯船につかり鼻歌歌う時間はあるだろ~
そう言いたくもなったがぐっと我慢

母の死後直後はお骨に対しても
「お母さんのお骨は僕が少しもらってお母さんの希望だった雪山にまいてあげたい
などと言ってた弟君。
結局これも四十九日に私が切り出したら
「本当に持って行くの(雪山に)?俺行かないよ。」
と言い出す始末。。。
その他も言い出したらきりがないがそこまで割りきりが出来るものなのか。。。
あの涙は。。。

で結局はむっとした私ですが向こう(警察)も電話を待っているので
仕方なく私が電話をする事に。。。
私が動ければ私が行くのに…
そう思いながらも忙しいから木曜日にしろって言えと言う弟に代わり電話を。

しかし結局は交通課の担当が事故が起きて出払っていると言う事だったので
弟にメモを渡し電話させる事にしました。

最近私が短気なのでしょうか?
こうした小さな苛立ちがすぐに溜まり「もう嫌だ~
と叫びたくなったり。
とかく母のことに関しては弟も父も上手く言えませんが
仏壇も何も指摘されなきゃ要らない。
四十九日終わったらはい終わり。そんな態度に正直悔しさがこみ上げます。

母の存在が消えていく中せめて家族だけでも
母の死を母の事故をきちんと受け止めるべきと思うのに
我が家はすっかり線香の匂いすらもしなくなって。。。

そんな気持ちだから無い遺産の事には父も弟も頑張って
母の事故に対しては興味がないのねって思っちゃいます。
人ひとりが命を落とした。しかも元気だった命が突然に。

私にはこの真相が、この時に何が母に起き、母がどんな気持ちだったのか
この事以上に重要な事って、ないのに。
めんどくさいと言うその態度が理解できません。


弟よ。母がきっと泣いてるよ。
知らないからね空から季節はずれな雪やひょうが降ってきたって


幸也

2007-05-10 | ナナとごん太との日々

母の存在の必要性は何も人間だけではないのです。


その中でも我が家の愛猫幸也君(ゆきや)は人一倍、いや猫一倍甘ったれ。

母の死後しばらくは引きこもりをおこし、一ヶ月位は様子がおかしかったのです。

その後やっと家の中をウロウロするようになったと同時に弟のストーカーに大変身。

そのストーカーぶりは半端ではなく朝のお風呂からトイレ、食事と
とにかく全て片時も弟から離れようとしないのです。



弟のいない間はじっと弟の部屋の前で帰りを待ち
部屋が空いている時は弟のベットの上で帰りを待つ。。。

おそらく母が帰らないと悟った幸也は「自分が置いて行かれる」「寂しい
そんな事を強く思っているのかも。
だからもう大切な人に何処かに行かれたくない。。。
そんな気持ちでいっぱいなんだろうなって。。。

猫が大好きだった母。
だから一時、幸也君が引きこもりをおこし元気がなかった時は
「もしかしたらお母さんが幸也を連れて行っちゃうかも・・・
そう感じていた私と弟。
寿命的にも16年間生きているし幸也もお母さんに一番なついていた。

でもどうやら母は幸也に
「しっかりお兄ちゃん(弟)のそばにいてあげて
そう頼んだかどうかは判らないが幸也は今では弟のそばを離れません。

弟が小学生の時からいる幸也君。
ほとんど兄弟のように育ちいっしょに成長をした。
だからきっと母のいない隙間はお互いに埋めあっているのかもね。

「ねぇ幸也君。お母さんが見える?」

もしかしたらあなたには見えているのかもね。そう時々感じる事が私にはあります。
今日は母の本当の(?)四十九日にあたる日。
こうしている今も、もしかしたら母の魂は私のそばにいるのかもしれない。。。


雨の四十九日

2007-05-08 | 母の事故

とうとう四十九日法要の日が。。。
その日は朝からあいにくの雨。
それは私の心の中、母の気持ちを表しているようなそんな気が・・・

そもそもあってはならないのかも知れないが
母の四十九日は正確にはもう少し後だった。
葬儀の日に打ち合わせをした時に数え間違いが原因らしいが
誰もその事に気づかず、私の指摘で父は間違いに気づいたらしい。
しかし時は既に遅く早く済ませる分にはかまわないらしく
5月6日に無事執り行う事になった。

私は前の晩に母の遺影とお骨を前にこの家での最後の時間を
母とビールを飲みながら過ごした。
ありがとうの言葉、思い出、これからの事、沢山話しをした。
だが結局はやはり涙が止まらなくなった。
小さな骨壷の中に母がいる。やっぱり理解が出来ないのだ。
ついこの間まであった母の存在は私にとって今もここに、
私の中では今も生きているのだ。

その晩はどうしたわけか明け方まで寝れず、特に何を思うこともなく
ただただ時間だけが過ぎた。

あいにくの雨の中私は寝不足も関係しているのかもしれないが
体調は最悪だった。吐き気にめまい。冷や汗までも。。。
(真剣に今度の受診日に久々の検査予約をしようと思った位だ。)
もしも母の四十九日じゃなければ寝ていたいのが本音だった。

お寺さんはバリアフリーではなく長い廊下に階段まであった。
だが私は彼と弟の手をかり車椅子ではなく一歩ずつ
母の待つ本堂に向かって歩いた。
不思議な話しだが私が車椅子から立ち上がり歩くと言う行動をしたのは
昨年の夏の再発からは母の葬儀が始めてのことだった。
少し立ち上がる位はしていたが足を前に出すと言う事は私には至難の業だった。

それが今では毎日母のお線香があげたくて家の中を伝え歩きするようになっていた。

やっとの思いで着いた本堂には母の笑顔(遺影)が私を迎えてた。

「お母さん見てた?私頑張っちゃった。えっ?何?無理したら再発するって?
わかってるよ。でもねお母さんのため、お母さんの供養のためなんだよ。
素敵な贈り物でしょ。お母さん私がもう一度歩くのみたがってからね。
だからね頑張ったの。」

私はそう母に語りかけながらお経を聞いた。。。

そうだ前回この場所に来たときは何の法要だったか忘れたが
母は居眠りするしクスクス笑うはで私はそんな母の隣で
笑いをこらえるのに必死だった事を思い出した。

考えると喜怒哀楽がはっきりした性格で最後の数年は私の病気のせいで
随分本当に苦労してたなと。。。
クタクタな身体に鞭打って家の事も仕事も中途半端になってしまい
完ぺき主義者だった母には自分自身辛かっただろうなと。。。

思うようにならないジレンマは私はよくわかってたはずなのに
30過ぎても子供な私は母におんぶに抱っこ。本当に本当に苦労かけどうし。

「ねぇ。今私の声が聞こえる?お経がうるさいとか思っているの(笑)
ごめんね。お母さんの望みはここのお墓にだけは
お父さんのお墓にだけは入れて欲しくないって言ってたのに。。。
怒ってるよね。でも分骨したからそれでわかってくれるよね?

死んでもしも霊魂が存在するならちゃんと成仏してよね!
私そうじゃなきゃ悲しい。もう一度お母さんに会いたいから。
ちゃんと待ってて欲しいよ。私が死んだ時は迎えに来て欲しいし、
冗談抜きでお母さんはここの世界に留まりそうで心配だよ(溜息)
私も責任感じちゃう。行かないで行かないでっていっぱい泣いてるから。」

なんだか変なのと思いながらも私は母に心の中で話しかけ続けた。
元々「死んだら何もないわ」と言ってた母。
宗教も輪廻も何もかも非現実的そう言ってた母。。。
その割には私の洗礼を見た母は人一倍喜んで…
まあ母は白百合卒業と言うのもありカトリックにはなじみが深い
というのもあったのだろう。
私自身だって母校を卒業する時にはまさか自分がクリスチャンになるとは
思ってはいなかったから不思議なものだ。

母の納骨のためにお寺さんを出る時、外は大雨だった。
お母さんが泣いている。。。

私はパンプスに足を入れながら雨を眺めた。

このパンプスは母が事故にあう当日の朝に私と靴選びしてる再に
母が「最近デザインが気に入って買ったのと見せてくれたものだ。
あの時は私が履くなんて思いもしなかった
皮肉だが母は幅が狭いからちょっときついのと言ってたパンプスは
私にはぴったりだった


「とうとうお別れだね

私は車椅子がお墓の中には入れないためもう母のお骨とはここでお別れ。。。
母の影がまた私のそばから消えていく。。。
目を閉じるとそこにはまだある母の笑顔。 
享年66歳。 母が私を産んだ歳に私はなっている。私も大人にならなきゃね。。。
もうちょっと子供でいたかった。もうちょっと親子でいたかった。
早すぎる母の死。
人生に長いも短いもないのかもしれないが母と言う人間は確かに存在し66年を駆け抜けたのだ。
少しずつ皆から母の記憶が薄れても私は永遠に忘れない。

「お母さん。ありがとう。。。


お母さんの娘で。。。

2007-05-05 | 母の事故

今の火葬場と言うのはまるで結婚式場のように広く賑やかだ。
それと同時に人で溢れてて悲しみと言う言葉があまり合わない。

着くとすぐに時間が押していると言われ私は何事だと思った。
心の準備が。。。
最後のお別れなのに時間だなんて(怒)。。。
そう思いながら母のそばに行った。
母の棺は車椅子で覗くには無理のある高さで
私は迷わず立ち上がろうとした。叔父と父が手を貸してくれた。

「お母さん。立っちゃった。見てる?ねえ、とうとうお別れだね。
ごめんね。泣いてばかりで。でもさこれからは私一人でも大丈夫!!
一人でもちゃんと生きていくよ。お母さんの分も幸せになって頑張るよ!
もう心配しないでね。
おばあちゃん、弟さんに会えた?向こうで幸せに今度こそお母さんもなってね。
ありがとう、お母さん。いっぱいありがとう。私はお母さんの子で幸せだったよ。
またそのうちに会おうね。それまで待っててね。時々は夢で会おうね。・・・」

そんなような言葉を私は精一杯足で立って、精一杯笑顔で
花に囲まれ静かに眠る母にお別れを告げた。。。

車椅子に座り母の棺を撫でていると彼がやってきて母に最後の別れをした。
そんな彼の姿を見て母と彼、私と色んなことがあったな~と思い出した。
始めて母に会った時に母が喜んで彼をカラカイまっくた事。
夜中に帰り2人並べられ母に怒られた事。
私と母が大喧嘩し何度その間に入り彼が仲介したか・・・。

私は母に最後の別れをする彼の姿を見ながら
彼にも
「ありがとう」そう心で呟いた。

棺が閉められた。
私は今までこの出棺の瞬間が苦手で叔父や叔母の時も立ち会った事がない。
しかし今回は私の中に何が起きているのか自分でも理解できなかったが
出棺の瞬間まで私はしっかり見つめた。

「お母さん、本当にお別れだね。ありがとう。ありがとう。」

これで母とお別れ。。。もう二度と母の姿、肉体に触れる事はなくなってしまった。。。

この時よりも今の方が数百倍寂しく、悲しく母の手を恋しくなるなんて
その時には思いもしていなかった・・・。


一時間も待たなかったような気がする。。。
その後は母のお骨を母の兄、父と分骨にした。
母の骨は真っ白で綺麗だった。
病気で苦しみ薬付けになった物ではないだけに本当に綺麗なものだった。

叔父の気遣いもあり私もお骨をもらえることになった。
母の指の部分が私の手の中にそっと渡された。
私は大事に大事にそれを手にして目を閉じた
きっと私は病気がよくなる。私はもっと手が動きやすくなる。そう感じた。
デザイナーだった母の指。私を撫でてくれた指。
ありがとう。。。

(昔、石原裕次郎が自分の父が亡くなった時にその骨を食べ
 「これで親父の一部は自分の中にある」そのような行動を取り
 びっくりしたと言う話を兄の石原慎太郎氏が言ってた事を思い出した。
 私は「げっ!!変じゃない。}そう思ったが今ならその裕次郎の気持ちは判る気がする。
 むろん私は食べたりはしなかったが。

終わってしまったのだ。。。
母の事故からここまではほんの数日。
実感がない。これが正直な気持ちだろう。
悲しくなるのはここからなのだ。この時は想像もしないほどの悲しみだ。

人は生まれてくるときにお母さんのお腹の中で十月十日過ごす。
この字を組み合わせるとと言う字になる。
人は朝、目を覚ましそして夜に目を閉じる。
生きている限りあけない夜はないのだと。。。。
そうお世話になっているお坊さんが話してくれた。
だから朝目が覚めたらそれに感謝して日々送るのだと。

そう、母が亡くなっても朝は私にはやってくるのだ。