ナナと一緒に

母の残してくれたもの…それはねこのナナ。
愛猫ナナに癒され一緒に頑張る日々の記録

離縁

2008-12-26 | 母の事故
母を亡くして2度目のお正月が来る
早いものだ・・・。

母の死後別居していた義理父が戻ったあの日全ての歯車は狂った。
私は住む所を失い、実の弟との仲は壊れた。

母と私の親子ローンで建てた小さなビルと
母が障害者になった私を思い残してくれた生命保険の存在が父に知れ
その遺産をめぐり今もまだ弁護士を通し協議中

今日弁護士の先生からの電話で義理父がまた何やら逆上をして
吠えている事を知った
もういい加減抵抗する事に疲れた私は殆ど向こうの要求をのむ形で
この遺産協議を終わらせようとしているのに
また義理父はそれを良いことにがめつく要求をしてきたのだ

それなのに義理父はたった一つの私の願い「離縁」をネタに
今度は「離縁」しないとも言いだした。
しかも「全てを白紙に戻すぞ」とも言ってきたらしい

はっきり言って白紙にしたければ白紙にすればいい。
と言いたいがもう私が疲れてしまっているのだ
母が亡くなって2年。ずっとだ。ずっと苦しめられて嫌な思いをさせられて
いつ義理父に町で会うかもしれないとびくびくしながらの生活。
いつここに乗り込んで来るかと恐怖の日々。
もう終りにしたい。

こんな状態なのに「離縁」しない理由の一つに
私を義理父は親として娘が可愛い。寂しい等と言っているとは呆れる

私はもうこの2年の受けた仕打ちでとてもじゃないが義理父の戸籍に
残っているなどとてもじゃないが耐えられない。

母方の親戚も離婚できなかった母の変わりに私だけでも籍を抜いて
戻って来いと言ってくれている。
(それもまた法で色々あるのだが・・・)

とにかくもう疲れた。
どうして母の死を悲しんでいるだけではいけないのか・・・

義理父はお金に汚い最悪な人間。
平気で人に嘘をつき平気で人を裏切る。

私を殺人者呼ばわりして実家を出て行くように仕向け
それだけでは飽き足らずなおも私を精神的に追い詰める父。

全て、何もかも義理父とは無関係な世界で生きて行きたい
神様お願い。私を義理父から解放して下さい

憂鬱

2008-04-28 | 母の事故
明日約一年ぶりに実家に行く
実家から自分のベットを持って行くためだ。

いちお養父に明日行くことを伝えると
「この際だから自分の荷物は持って行け」と言われた。
無論そのつもりだが言い方が人を完全に実家から追い出すようで頭にきた

あー。憂鬱です
しかも明日出来れば養父には会いたくなかったのであえて

「用事があるなら私勝手に荷物運ぶから出かけててもいいよ」

と養父に言ってみたら

「勝手に上がるのなんてだめに決まってんだろう。ちゃんと運び出す時はいるにきまっている」


だそうだ。。。
ちぇ。いないでいいのに(苦笑)
そもそも勝手に上がれては困るって母が亡くなってあなた(養父)が
帰って来るまでは出入りは自由でしたが・・・

すっかり母が亡くなってあの家の主人になっちゃって。悔しい

それにしても私この一年である意味強くなった気がする。
泣いばかりだった私も今も養父に会うのは憂鬱だが

せいぜい頑張って意地悪してください。
家族にすらそう言う事しか出来ないなんて可愛そうな人


そんな風に感じるように・・・

しかし明日はどうぞ心穏やかに無事過ぎますようにwwwそれを祈る私である
まっ久々に実家にゃん子幸ちゃんに会える事だけは楽しみ×2

占有権って・・・

2008-02-26 | 母の事故
昨日のの嵐の中、我が家の物件を管理している不動産屋が
困った事が起きていると連絡が来ました。

それは一階店舗部分の鍵を母の死後に養父が全て持っていて
渡してくれないと言うもの
母の死後に貸出しに出しているのですが、
一時は車椅子の私自身が改装して住みたいと思い養父に相談したときには
「人に貸した方が金になるから出て行ってくれ」と言われ住むのを断念。
そこを借りたいという人が昨年からちらほら現れてて
その度に鍵がない不動産屋は困っているわけです。
しかも鍵を渡さない理由を「娘が使いますから」と言っているらしく
私を追い出しといて何を言ってんだか

近所にも
「車椅子の娘のために一階部分を改装してやりたいのです」
と言って良い人ぶっている養父。
おかげで良く知らない人には養父の元に帰りなさいとか色々説教される始末

本当に娘の事を考えているなら2本ある鍵一つ私にくれてもいいはず。
それを渡さないと言う事は大体考えがわかります。

母の死後未だに決着がついていない相続問題・・・
今回の事を困った私は弁護士のM先生に相談

未だ決着してないだけにここのマンションの4分の1は
別居していたとは言え離婚していない以上養父のもの。
それに仮に全てが私のものだとしても強引に鍵交換等をすると
占有権なるものがあるので刑事告発される可能性もと・・・

何故私が仮に所有権があったとしても訴えられるわけだ?
そんなの変でしょ!!ありえない。

そんな事もあり調停に持ち込む準備中の今はひたすら耐えるしかないらしい。
不利になるような事は避けるべきと・・・。

もう、本当に頭が痛い。やめて欲しい
こんな状態でも養父を憎みきれない自分なだけに苦しい。

お母さん、どうしてこんな事になってしまっているの?
一年前は一階部で仕事をしていた母。未だにその頃の事を思い出します
一年前の今日何してた、笑ってた、泣いていた、困ってた…。

もうすぐあの事故から一年。。。


2007-10-11 | 母の事故
私は今絶対嫌な顔になってる。

信頼している人からショックな事言われ頭がパニック状態…

私は母を無くし本当に独りきりなんだと感じる。

母の死後弟は父の叔父の戸籍に入った。

と言う事はめでたく私は義理父の戸籍に一人残っているわけだ…

最悪だ(|||_|||)


いい加減解放されたい。相続だ親権だの聞きたくも関わりたくもない。


そんな事ばかりでウンザリ!

弟まで父方の人間だからと言ったって私と弟は実の血のつながりがあるのだから戸籍が変わったからと私と引き離した言い方は止めて欲しい!


どこまで私から奪えば気が済むの?

私をどこまで一人ぼっちにすれば気が済むの?

許せない。
もう父も父方の人間も最低だ。

考え方がついていけない。

いっそ今すぐ縁が切りたい。
お母さんもう疲れたよ。生きていることが辛い。

みんなして私が何をしたって言うのよ!私をこれ以上悪く言わないで!私を追いつめないで!


そっと、ただそっと静かに暮らさせて…

早くこの生き地獄から解放されたい

書けない

2007-06-20 | 母の事故

書けない。。。
書類が書けない。。。

実は母は生前に生命保険に入ってました。
お金の価値は人それぞれに違うと思いますが
私にとってはそれが小額でも多額でも母の命がお金に変わったようで
本当に嫌なのだ。

最近も保険金殺人のニュースがありましたが
どうしてこのような事が出来るのかが本当に理解出来ません。

この書類を書くことがどういう訳か私には納得がいかないのです。
こんなものこんなものと涙ばかりが溢れ悔しくて仕方ないのです。
人が思うような大金ではありません。
かりに多くても結果は同じでしょう。。。

この書類を書きこのお金が入ったところで母はもういないのだから。。。
一生懸命に生きて一生懸命に愛してくれた母が帰ってくる事はなく
私の望みはお金ではもう決して手に入る事もない母の肉体、母自身なのだから。。。

上手くいえませんが以前のような気が狂いそうな寂しさは今はもう落ち着きましたが
それでも日にちが過ぎると同時に新たな悲しみはやって来てしまいます。
漠然と母の存在の無さに悲しんできた日々が時間が経ってきた今は
日常の中での当たり前の生活の中に母が存在しないと言うはっきりとした寂しさ。。。

お母さん会いたい。帰ってきて。。。以前ならそう泣いていた私。
でも今はそうは泣かない。
母の肉体がこの世に存在しない事をよく理解しているから
会えない現実に無を感じその事が悲しいのだ。。。
存在しない母の面影を他のものに探してしまう。

なんだか上手く自分の気持ちが表現できないからこれを読んだ人は
私が何が言いたいのか判らないかもなあ・・・

とにかくこの保険請求書にサインが出来ないのだ。
これを受け取った時に私は死んだ母になんと言ったらいいのか。
いっそ抱えきれない借金を残してくれてた方が気が済んだのかも。。。

生命保険。
母の死によって私は考え方が少し変わった。
昔は貧乏だから万が一に備えてちゃんと入っておかなくちゃ。
そう思ってきてた。
私自身が難病になり入院費等お金がかかるからもあるが
友人が30歳代で癌になり死んでしまった時の苦労も知っているからだ。
自分のために家族に迷惑をかけたくない。それが一番だった。

後は万が一子供が出来たりした時に自分に何かあったら
せめて少しでもその子の成長に役立てば等。。。

自分が受け取る立場になる事なんて考えた事もなかった。
決して良いものじゃない。
よく考えちゃんと真面目に内容を把握して入らなくてはならないもの。。。
命の重さがその紙にはあるのだから。。。

お母さん。私は納得がいかないよ。。。
あの日に戻れるためならこの命さえ差し出せるのに。。。
せめて後数年で良かったから一緒にいたかったのに。。。


最後のメール

2007-06-05 | 母の事故

この部屋に来てから弟に連絡を何回とったかな?

考えたくなかったが弟は私をもしかしたら誤解したまま
恨んでいるのかもしれない。。。

元々弟は正直明るい性格と言うタイプではない。
だから自分に対して行為を持たない人間には厳しい。

小学校~高校と凄く仲の良かった親友が弟にはいたが
今はその親友を完全に見下している。

誤解されやすくちょっと考えがずれている弟。

「いいですね。包容力と経済力もないのに
結婚しようだなんて自分には真似できませんよ。

「おつりはいりません。僕は○○さんより収入いいですから


等など正直年上の私の親友たちや目上の方に悪びれもなく発言してしまう弟君。

この性格には生前から母と困ってました。
だから人から誤解は非常にされやすいのです。

でもね、根は凄く寂しがり屋で凄く優しい弟。
私にとってはもの凄くもの凄く可愛くて大切な弟。

だから良くわかっているはずだけど
最近は自信がありません。
義理父の件以来正直私は人間不信的な面が強いと思います。
弟が今何を思いどう私を見ているか・・・。
正直怖いです。

嫌われたなら嫌われたでも仕方ありません。
しかし私の立場と言うものにもそれなら少しで良いから目を向けて欲しかった。

母の死で失ったものは信頼と家族と言う最大に大きなもの達。

今日弟に「たまには無視しないでメール頂戴ね。寂しいよ~」と言った内容の
メールを少し軽い感じの文章で送った。。。私のこの行為は間違い?

返事が来ると信じたい。もし今回返事が来なかったらもう諦めようと思う。

と言うか正直言うなら私がもう疲れてしまってて
こう言った家族間の事を思い考えるのがしんどいのだ。

「もういや馬鹿じゃないの私はもう自分の事だけで精一杯なのよ
辛い、疲れた何てあなただけじゃないのよ いい加減にしなさい
あなたは長男でしょ。人の話しを最後まできちんと聞け!!
何が僕はお姉ちゃんを一生面倒見るつもりです何て偉そうに言って
人が実家出てから一度だって連絡すらしてこないやつが
さもさもしくお父さんと一緒に言うんじゃないよ

・・・
・・・

はあ~。 と叫びたくも私だってなるのです。
こんな事をもしも弟に浴びせたらあの性格だ。。。大変な事になるな(苦笑)

今弟と話さなかったらたぶんこれから先話す自信は私にはもうない。

疲れちゃったんだよね。。。もう止めたいんだ本当に。。。
自分だけの事考えてなりふり構わず我がままになってみたい。。。



明日は病院。。。メンタルケア真剣に頼もうかな。。。
いつだってどちらかと言うと姉御肌でやって来て自分には
自身や誇りがあり、笑顔でたいがいは過ごしてきたのに
今の私って目標も生きる力や自分の今が不安で仕方ない。
小さな目先の幸せだけ見る事でたぶん一生懸命立っている気がする。。。


警察からの連絡

2007-05-15 | 母の事故

何だか正直よくわからない気持ちです。
と言うのも警察から母の事故についてのその後の連絡がありました。

結局はその後新しく目撃者も探したが出てこない(本当に探したの?)と言うこと。。。

そして「家族からちょっと話が聞きたい」と言うことだったので
父は別居生活が長かったし私は弟に警察に行ってもらいたく
折り返し電話をしますと電話を切りました。

弟は丁度その時にはお風呂だったので出てきた弟に
「警察から電話があって話がしたいから折り返し電話してちょうだい」
そう言うと弟は特に気に留めるわけでもなく
「ふ~ん。あっそ。」と話しを聞こうともせず 

はあ?ですよ。
「なんじゃいコラ~その態度人の話聞けと言いたいところ抑えて
「あのね一度話がしたいらしいからその日にちを決めたいから・・・」
「じゃあ木曜日にして」
・・・。つうかまだ話しには続きがあんだよ~って正直思いながらも
「とにかく17日、18日のどちらかが向こう(警察)はいいみたいだから
折り返しかける事になっているから電話をかけてね ゛(`ヘ´#) 」
 
すると弟君の返事は
「俺忙しいんだよね。めんどくさいな(溜息) 後でね」
さすがにこの溜息混じりな態度に私は呆れると同時になんとも言えない気持ちに。。。
猫とじゃれたり、朝から音楽聴いて湯船につかり鼻歌歌う時間はあるだろ~
そう言いたくもなったがぐっと我慢

母の死後直後はお骨に対しても
「お母さんのお骨は僕が少しもらってお母さんの希望だった雪山にまいてあげたい
などと言ってた弟君。
結局これも四十九日に私が切り出したら
「本当に持って行くの(雪山に)?俺行かないよ。」
と言い出す始末。。。
その他も言い出したらきりがないがそこまで割りきりが出来るものなのか。。。
あの涙は。。。

で結局はむっとした私ですが向こう(警察)も電話を待っているので
仕方なく私が電話をする事に。。。
私が動ければ私が行くのに…
そう思いながらも忙しいから木曜日にしろって言えと言う弟に代わり電話を。

しかし結局は交通課の担当が事故が起きて出払っていると言う事だったので
弟にメモを渡し電話させる事にしました。

最近私が短気なのでしょうか?
こうした小さな苛立ちがすぐに溜まり「もう嫌だ~
と叫びたくなったり。
とかく母のことに関しては弟も父も上手く言えませんが
仏壇も何も指摘されなきゃ要らない。
四十九日終わったらはい終わり。そんな態度に正直悔しさがこみ上げます。

母の存在が消えていく中せめて家族だけでも
母の死を母の事故をきちんと受け止めるべきと思うのに
我が家はすっかり線香の匂いすらもしなくなって。。。

そんな気持ちだから無い遺産の事には父も弟も頑張って
母の事故に対しては興味がないのねって思っちゃいます。
人ひとりが命を落とした。しかも元気だった命が突然に。

私にはこの真相が、この時に何が母に起き、母がどんな気持ちだったのか
この事以上に重要な事って、ないのに。
めんどくさいと言うその態度が理解できません。


弟よ。母がきっと泣いてるよ。
知らないからね空から季節はずれな雪やひょうが降ってきたって


雨の四十九日

2007-05-08 | 母の事故

とうとう四十九日法要の日が。。。
その日は朝からあいにくの雨。
それは私の心の中、母の気持ちを表しているようなそんな気が・・・

そもそもあってはならないのかも知れないが
母の四十九日は正確にはもう少し後だった。
葬儀の日に打ち合わせをした時に数え間違いが原因らしいが
誰もその事に気づかず、私の指摘で父は間違いに気づいたらしい。
しかし時は既に遅く早く済ませる分にはかまわないらしく
5月6日に無事執り行う事になった。

私は前の晩に母の遺影とお骨を前にこの家での最後の時間を
母とビールを飲みながら過ごした。
ありがとうの言葉、思い出、これからの事、沢山話しをした。
だが結局はやはり涙が止まらなくなった。
小さな骨壷の中に母がいる。やっぱり理解が出来ないのだ。
ついこの間まであった母の存在は私にとって今もここに、
私の中では今も生きているのだ。

その晩はどうしたわけか明け方まで寝れず、特に何を思うこともなく
ただただ時間だけが過ぎた。

あいにくの雨の中私は寝不足も関係しているのかもしれないが
体調は最悪だった。吐き気にめまい。冷や汗までも。。。
(真剣に今度の受診日に久々の検査予約をしようと思った位だ。)
もしも母の四十九日じゃなければ寝ていたいのが本音だった。

お寺さんはバリアフリーではなく長い廊下に階段まであった。
だが私は彼と弟の手をかり車椅子ではなく一歩ずつ
母の待つ本堂に向かって歩いた。
不思議な話しだが私が車椅子から立ち上がり歩くと言う行動をしたのは
昨年の夏の再発からは母の葬儀が始めてのことだった。
少し立ち上がる位はしていたが足を前に出すと言う事は私には至難の業だった。

それが今では毎日母のお線香があげたくて家の中を伝え歩きするようになっていた。

やっとの思いで着いた本堂には母の笑顔(遺影)が私を迎えてた。

「お母さん見てた?私頑張っちゃった。えっ?何?無理したら再発するって?
わかってるよ。でもねお母さんのため、お母さんの供養のためなんだよ。
素敵な贈り物でしょ。お母さん私がもう一度歩くのみたがってからね。
だからね頑張ったの。」

私はそう母に語りかけながらお経を聞いた。。。

そうだ前回この場所に来たときは何の法要だったか忘れたが
母は居眠りするしクスクス笑うはで私はそんな母の隣で
笑いをこらえるのに必死だった事を思い出した。

考えると喜怒哀楽がはっきりした性格で最後の数年は私の病気のせいで
随分本当に苦労してたなと。。。
クタクタな身体に鞭打って家の事も仕事も中途半端になってしまい
完ぺき主義者だった母には自分自身辛かっただろうなと。。。

思うようにならないジレンマは私はよくわかってたはずなのに
30過ぎても子供な私は母におんぶに抱っこ。本当に本当に苦労かけどうし。

「ねぇ。今私の声が聞こえる?お経がうるさいとか思っているの(笑)
ごめんね。お母さんの望みはここのお墓にだけは
お父さんのお墓にだけは入れて欲しくないって言ってたのに。。。
怒ってるよね。でも分骨したからそれでわかってくれるよね?

死んでもしも霊魂が存在するならちゃんと成仏してよね!
私そうじゃなきゃ悲しい。もう一度お母さんに会いたいから。
ちゃんと待ってて欲しいよ。私が死んだ時は迎えに来て欲しいし、
冗談抜きでお母さんはここの世界に留まりそうで心配だよ(溜息)
私も責任感じちゃう。行かないで行かないでっていっぱい泣いてるから。」

なんだか変なのと思いながらも私は母に心の中で話しかけ続けた。
元々「死んだら何もないわ」と言ってた母。
宗教も輪廻も何もかも非現実的そう言ってた母。。。
その割には私の洗礼を見た母は人一倍喜んで…
まあ母は白百合卒業と言うのもありカトリックにはなじみが深い
というのもあったのだろう。
私自身だって母校を卒業する時にはまさか自分がクリスチャンになるとは
思ってはいなかったから不思議なものだ。

母の納骨のためにお寺さんを出る時、外は大雨だった。
お母さんが泣いている。。。

私はパンプスに足を入れながら雨を眺めた。

このパンプスは母が事故にあう当日の朝に私と靴選びしてる再に
母が「最近デザインが気に入って買ったのと見せてくれたものだ。
あの時は私が履くなんて思いもしなかった
皮肉だが母は幅が狭いからちょっときついのと言ってたパンプスは
私にはぴったりだった


「とうとうお別れだね

私は車椅子がお墓の中には入れないためもう母のお骨とはここでお別れ。。。
母の影がまた私のそばから消えていく。。。
目を閉じるとそこにはまだある母の笑顔。 
享年66歳。 母が私を産んだ歳に私はなっている。私も大人にならなきゃね。。。
もうちょっと子供でいたかった。もうちょっと親子でいたかった。
早すぎる母の死。
人生に長いも短いもないのかもしれないが母と言う人間は確かに存在し66年を駆け抜けたのだ。
少しずつ皆から母の記憶が薄れても私は永遠に忘れない。

「お母さん。ありがとう。。。


お母さんの娘で。。。

2007-05-05 | 母の事故

今の火葬場と言うのはまるで結婚式場のように広く賑やかだ。
それと同時に人で溢れてて悲しみと言う言葉があまり合わない。

着くとすぐに時間が押していると言われ私は何事だと思った。
心の準備が。。。
最後のお別れなのに時間だなんて(怒)。。。
そう思いながら母のそばに行った。
母の棺は車椅子で覗くには無理のある高さで
私は迷わず立ち上がろうとした。叔父と父が手を貸してくれた。

「お母さん。立っちゃった。見てる?ねえ、とうとうお別れだね。
ごめんね。泣いてばかりで。でもさこれからは私一人でも大丈夫!!
一人でもちゃんと生きていくよ。お母さんの分も幸せになって頑張るよ!
もう心配しないでね。
おばあちゃん、弟さんに会えた?向こうで幸せに今度こそお母さんもなってね。
ありがとう、お母さん。いっぱいありがとう。私はお母さんの子で幸せだったよ。
またそのうちに会おうね。それまで待っててね。時々は夢で会おうね。・・・」

そんなような言葉を私は精一杯足で立って、精一杯笑顔で
花に囲まれ静かに眠る母にお別れを告げた。。。

車椅子に座り母の棺を撫でていると彼がやってきて母に最後の別れをした。
そんな彼の姿を見て母と彼、私と色んなことがあったな~と思い出した。
始めて母に会った時に母が喜んで彼をカラカイまっくた事。
夜中に帰り2人並べられ母に怒られた事。
私と母が大喧嘩し何度その間に入り彼が仲介したか・・・。

私は母に最後の別れをする彼の姿を見ながら
彼にも
「ありがとう」そう心で呟いた。

棺が閉められた。
私は今までこの出棺の瞬間が苦手で叔父や叔母の時も立ち会った事がない。
しかし今回は私の中に何が起きているのか自分でも理解できなかったが
出棺の瞬間まで私はしっかり見つめた。

「お母さん、本当にお別れだね。ありがとう。ありがとう。」

これで母とお別れ。。。もう二度と母の姿、肉体に触れる事はなくなってしまった。。。

この時よりも今の方が数百倍寂しく、悲しく母の手を恋しくなるなんて
その時には思いもしていなかった・・・。


一時間も待たなかったような気がする。。。
その後は母のお骨を母の兄、父と分骨にした。
母の骨は真っ白で綺麗だった。
病気で苦しみ薬付けになった物ではないだけに本当に綺麗なものだった。

叔父の気遣いもあり私もお骨をもらえることになった。
母の指の部分が私の手の中にそっと渡された。
私は大事に大事にそれを手にして目を閉じた
きっと私は病気がよくなる。私はもっと手が動きやすくなる。そう感じた。
デザイナーだった母の指。私を撫でてくれた指。
ありがとう。。。

(昔、石原裕次郎が自分の父が亡くなった時にその骨を食べ
 「これで親父の一部は自分の中にある」そのような行動を取り
 びっくりしたと言う話を兄の石原慎太郎氏が言ってた事を思い出した。
 私は「げっ!!変じゃない。}そう思ったが今ならその裕次郎の気持ちは判る気がする。
 むろん私は食べたりはしなかったが。

終わってしまったのだ。。。
母の事故からここまではほんの数日。
実感がない。これが正直な気持ちだろう。
悲しくなるのはここからなのだ。この時は想像もしないほどの悲しみだ。

人は生まれてくるときにお母さんのお腹の中で十月十日過ごす。
この字を組み合わせるとと言う字になる。
人は朝、目を覚ましそして夜に目を閉じる。
生きている限りあけない夜はないのだと。。。。
そうお世話になっているお坊さんが話してくれた。
だから朝目が覚めたらそれに感謝して日々送るのだと。

そう、母が亡くなっても朝は私にはやってくるのだ。


告別式

2007-05-04 | 母の事故

母の告別式の朝、空は晴天だった。
一気に桜が咲いてしまうのではと言う位の温かくさわやかな日だった。

その日は泣かないで母を送ってあげようと私は心に決めていた。
会館に着き母に「おはよう」と挨拶をした。
母と共通の知人のKさんが横で涙を流しながら
「私はteacatを置いては死ねないの。teacatが可愛くて可愛くて仕方ないの。
いつもそう言ってたのに・・・」
そう言って泣くものだから私ももらい泣きしそうになった。
そんな時も母の顔は幸せそうに眠ったようだ。

葬儀が始まり私は母の棺と写真を交互に見た。
ぼーっと眺めながら母に色々語りかけた。
そんな時ふっと私は笑いそうになった。
母は葬式が嫌いなのもあるが元々笑い上戸な所もあるので
お坊さんの木魚の音を以前法事の時に「リズムが~」と笑い転げてた事を思い出した。

「あ~あ。あんなにお母さんの寝ている横でポコポコ木魚叩いて
お母さんうるさいっておこってんだろうなあ。

そんなくだらない事を不思議と思ったりしていた。

そして棺に花を入れお別れをする時になった。
母の大好きだった胡蝶蘭や私の大好きなガーベラなどで母の全身は埋め尽くされていった。
綺麗だった。可愛かった。
悔しいが花に囲まれて人生を本当に終わらせようとしている母の姿は幸せそうだった。
「お母さん良かったね。こんなに沢山の花に囲まれて嬉しいね。
まるでお姫様のようだね~
そう言って母の顔を撫で続けた。
どの位そうしてたのだろう気づくと私と母を囲み皆が見ていた。
弟にだったと思うがそっと母の棺から離され母の棺は閉められた。

ふと外を見ると霊柩車が用意され母の棺が運び出された。。。
そんなものに乗せないで!!やっぱりおかしいよ。夢ならもう覚めてよ!!
私は心の中でそう叫び続けてた。

静かに扉は閉められ私は彼に車椅子を押されて彼の車に乗り込んだ。
空は高く、青々とし
「温かくなったら去年みたいにお庭で日光浴しようね
そう約束していた事を思い出していた。
私が実家に帰ってきた昨年の春、私と母。にゃんこ2匹に我が家の愛犬と楽しく庭で過ごした。
何故かあの時のことは私は凄く忘れられず、母も嬉しそうにし仕事に行くのも忘れ時を過ごした。
おそらく母もあの時に過ごした時間は思い出の一つになってたはずだ。
これからも春が来るたびに我が家の恒例行事になる。
そう思い今年もその日を楽しみにしていた。

火葬場までの道のりは青々とした空が妙に印象的で
小さな子供を連れ幸せそうな家族連れが目に付いて仕方なかった。
そんな中彼は
「泣きたいなら思いっきり泣いちゃえよ。
本当にお別れなんだからその時はありがとうって笑って言えよ。
そうじゃなきゃお前の事が心配で成仏できなくなっちゃうぞ。いいのか?」
そう私に言い火葬場まで手を握っててくれた。

が大きく右折した。
喪服の人が沢山いる。火葬場に着いた。
その時に不思議な記憶がよぎった・・・。

そう私の記憶が確かならそこは母の母、私のおばあちゃんを火葬した場所だった。
私は5歳位の時だから記憶は怪しいがおそらく間違いはないだろう。
皮肉だ。
そんな事を思い、思ったよりも心は乱れずに火葬場に降り立つ事が出来た。

目を瞑り、大きな深呼吸をし私は入り口の自動ドアをくぐった。。。