カメブログ

聖蹟桜ヶ丘に住むおじさん(通称カメちゃん)のブログ

『中越大震災 - 自治体の危機管理は機能したか』

2006年11月12日 | 身辺雑記
『中越大震災 - 自治体の危機管理は機能したか』
長岡市災害対策本部編集 ぎょうせい発行

 図書館に行って本の背表紙を見ているとき、テレビで見た「新潟県中越地震から今日で2年が過ぎました」「いまだに募金が続いています」といったニュースが甦ったため、上記の本を借りました。

 中越地震は2004年10月23日(土)午後5時56分に発生しました。二年の月日が過ぎ、遠隔地に住むものには過去の大災害と思いがちですが、現在でも生活の見通しが立たずに仮設住宅に暮らしていらっしゃる方々がたくさんいます。
 この本は災害対策の最前線で奮闘した長岡市災害対策本部の方々が執筆した自体の側から見た中越地震の体験記です。しかし悲惨な災害体験記ではなく、自治体が大災害の復旧、復興にどのように立ち向かったを描いているところに何にも代えがたい貴重な情報が含まれています。

 災害対策の陣頭指揮に当たった森民夫長岡市長自らが執筆する、災害直後の被災者支援の様子には胸を打たれます。混乱の中で情報収集と避難指示を行い、支援物資の手配に忙殺される様子、全員避難を余儀なくされた山古志村村民の受け入れ対策、どれも待ったなしの緊急事態です。避難勧告を発令する側の苦悩と葛藤や、山間の蓬平温泉で災害にあった観光客を徒歩で避難させる時の職員の失策に心を痛める様子など、ほかの誰にも書き得ない、被災した自治体の首長ならではの心境が控えめな筆致で綴られています。

 本書は災害後の復興における法整備の問題を数多く、鋭く指摘しています。
 家屋の被害は国の基準により屋根、外壁等の被害を点数化し、4段階に分けます。しかしたった4段階しかないため、1点の差により見舞金に大きな差が生じてしまい、被災者にも自治体担当者にも大きなストレスを生んでしまったことが報告されています。災害のため、被災者が立ち合いなしに外観から調査を行わざるを得なかったため、再調査を依頼されるなど大きな混乱が生じ、長岡市だけで被害調査等の業務に4ヶ月に延べ9950人の職員(他市からの支援職員も含む。給与換算で推計約4億9千万円)を動員したといいます。時間をかけて調査するわけにもいかない状況下なのに、わずか1点の差で見舞金が百万円単位で違うのですから、混乱するのは仕方ないことが想像できます。国の制度が被害実態に追いついていないことは明白であり、被害判定の細分化か点数に応じた比例配分などを用意すべきと提言しています。
 次の大災害で同じ混乱が繰り返されることが予想されますから、貴重な経験を生かしていただきたいものです。

 本書の大半は上記のような行政の問題を扱っていますが、山古志村の闘牛の救出劇が紹介されています。
 全村全員避難するときに、生き残った牛のロープを涙ながらに切って逃げてきたが、地震によって川がせき止められ、水位が上昇し、村が水没しようとしている。牛飼いたちにとって村に残してきた牛は家族の一員であり、牛を見殺しにすることはできなかった。
 人命確保に懸命な行政に頼ることはできない。村民13人が集まり、闘牛九頭を二日かけて山を越えて、小篭集落から小松倉集落まで連れ出した。道のない雑木の生え茂る山を木を切りながら、牛を連れて奮闘したといいます。
 「ただ牛を助けるということだけではなく、決してあきらめずにやる。そのやる姿を子どもたち、次世代の者にしっかりと見ていてもらいたい」山越えの途中、一服したときに村民が語ったことばです。
 牛を避難させるのにどれだけの汗が必要だったのでしょう。牛も飼い主も必死だったことでしょう。二次災害を覚悟しなければいけない状況であったと思いますが、13人の村民たちは闘牛の歴史を継ぐことができました。
 子どもたちは父親たちの苦労をきっと語り継いでくれるはずです。


参考: 
○ 「中越大震災-自治体の危機管理は機能したか」の刊行について(長岡市長平成17年6月21日記者会見) - 『刊行の目的は、長岡市に支援をいただいた全国の自治体等の関係機関に私たちの経験をありのままにお知らせして、参考にしていただきたいということで、お礼の意味で配布します。』
○ 新潟県中越地震 (Wikipedia)
○ 復興の途上で  新潟県中越地震から2年(神戸新聞) - 『亡き息子と暮らした地を離れるのは、苦渋の決断だった。(略) 〈息子と一緒にいてやりたい〉。剛さんは当初、元の場所での自宅再建を強く望んでいた。(略) しかし、生活再建の現実は厳しかった。養鯉池が大きな被害を受け、収入の見通しが立たない。』
○ 牛の角突き (山古志村商工会)

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