朝日新聞の土曜の別刷りに「耳をすませば」が取り上げられ、聖蹟桜ヶ丘がその舞台であると紹介されています。
近藤喜文監督「耳をすませば」〈ふたり〉へ月島雫と天沢聖司―東京・多摩
『(略)中学生のラブストーリーだからと、映画関係者の期待は薄かった」とプロデューサー鈴木敏夫さん(58)は明かす。夏休み公開が危ぶまれ、交渉を重ねて7月にした。ふたを開けると、95年の邦画収入1位になった。
この映画が初にして最後の監督作品となった近藤喜文(1950~98)が四半世紀前、脚本と絵コンテを担当した宮崎駿(はやお)さん(65)に「少年と少女のさわやかな出会いの作品を作りたい」と語ったことがきっかけだった。約10年後、宮崎さんが「こういうの好きだろう」と原作を近藤に手渡し、映画作りが始まった。
時代はバブル経済が崩壊し、リストラが進み、先を見通せなくなっていた。宮崎さんは雑誌の取材に「生きることに肯定的じゃないと大問題に立ち向かえない。簡単にニヒリズムの餌食になる」と語った。近藤は長男が1年前に高校受験をした経験から、受験生一人ひとりにドラマがあることに気づいていた。「世の中が悪いとか学校が悪いとか大人のせいにして反発するのではなく、自分の問題として考える子どもを描きたい」と考えていた。
物語は、バイオリン職人になると決めた聖司に、どのように生きるのかについて悩む雫を対比させた。不治の病や親の反対によって燃え上がるのではなく、自らが障壁という恋愛ドラマだ。舞台は、宮崎さんや近藤がかつて働いたアニメプロダクションがある聖蹟桜ケ丘駅周辺。冒頭の丘は、宮崎さんが仕事を終え、夜が明けたなか車で帰る時に新宿副都心を見た所だ。実際の町並みを配してリアルさを出した。
原作者の柊(ひいらぎ)あおいさん(43)は、人のつながりとしての異性関係を描く物語を目指した。だが、恋愛が中心ではなかったためか、月刊誌の連載は4回で打ち切りに。「未消化だったことが、映画で形になった」
(略)
「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」は、鈴木敏夫さんの娘麻実子さんが訳詞した。当時19歳と年齢が月島雫に近いことから頼まれ、宮崎駿さんが補作した。歌詞は「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見ていた」だが、麻実子さんの詞は「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛びだした」だった。
これを巡って、近藤喜文と宮崎さんが対立。近藤は麻実子さん訳を支持したが、宮崎さんの変更案が通った。
映画の宣伝のため出演したラジオ番組で、近藤は麻実子さんの歌詞について触れ、「漫画家になろうと、家出するように東京に出てきた。本当に何も持っていなかった」と涙を流して語った。口数が少なく、いつも心の中を見せなかったが、鈴木さんは「内にある熱いものが噴き出した」とみる。
(略)
激務が重なり、肺に穴が開いて縮む自然気胸などで入退院を繰り返した。「耳をすませば」を作っていたころ、「笑い話は勘弁して」と話した。笑うと、せきが止まらなくなるからだ。膨らんだ内なる世界を表現するために働くほど、体はむしばまれる。そんな近藤を支えたのは「絵にする市井の人たちだった」と、最初のプロダクション以来の友人で自宅近くに住むアニメ監督の有原誠治さん(58)は語る。
97年12月16日、出勤前に突然、苦しみだして解離性大動脈瘤(りゅう)で入院。「もっと描きたい」と語っていたが、手術後は話ができなくなった。浩子さんが「楽しいこと考えようね」と語りかけると、うなずいていた。翌98年1月21日の早朝、死亡。47歳だった。
(略)
文・平出義明 写真・会田法行』
丁寧に取材した跡が見られて、心を打つルポルタージュになっていると思います。
主題歌の訳詩の隠されたエピソードを活字に残した功績は大といえるでしょう。
また、「耳をすませば」が1995年邦画興行収入が1位だったことを私は知りませんでした。この作品の枕詞として、使われて欲しいと願っています。
近藤喜文監督「耳をすませば」〈ふたり〉へ月島雫と天沢聖司―東京・多摩
『(略)中学生のラブストーリーだからと、映画関係者の期待は薄かった」とプロデューサー鈴木敏夫さん(58)は明かす。夏休み公開が危ぶまれ、交渉を重ねて7月にした。ふたを開けると、95年の邦画収入1位になった。
この映画が初にして最後の監督作品となった近藤喜文(1950~98)が四半世紀前、脚本と絵コンテを担当した宮崎駿(はやお)さん(65)に「少年と少女のさわやかな出会いの作品を作りたい」と語ったことがきっかけだった。約10年後、宮崎さんが「こういうの好きだろう」と原作を近藤に手渡し、映画作りが始まった。
時代はバブル経済が崩壊し、リストラが進み、先を見通せなくなっていた。宮崎さんは雑誌の取材に「生きることに肯定的じゃないと大問題に立ち向かえない。簡単にニヒリズムの餌食になる」と語った。近藤は長男が1年前に高校受験をした経験から、受験生一人ひとりにドラマがあることに気づいていた。「世の中が悪いとか学校が悪いとか大人のせいにして反発するのではなく、自分の問題として考える子どもを描きたい」と考えていた。
物語は、バイオリン職人になると決めた聖司に、どのように生きるのかについて悩む雫を対比させた。不治の病や親の反対によって燃え上がるのではなく、自らが障壁という恋愛ドラマだ。舞台は、宮崎さんや近藤がかつて働いたアニメプロダクションがある聖蹟桜ケ丘駅周辺。冒頭の丘は、宮崎さんが仕事を終え、夜が明けたなか車で帰る時に新宿副都心を見た所だ。実際の町並みを配してリアルさを出した。
原作者の柊(ひいらぎ)あおいさん(43)は、人のつながりとしての異性関係を描く物語を目指した。だが、恋愛が中心ではなかったためか、月刊誌の連載は4回で打ち切りに。「未消化だったことが、映画で形になった」
(略)
「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」は、鈴木敏夫さんの娘麻実子さんが訳詞した。当時19歳と年齢が月島雫に近いことから頼まれ、宮崎駿さんが補作した。歌詞は「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見ていた」だが、麻実子さんの詞は「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛びだした」だった。
これを巡って、近藤喜文と宮崎さんが対立。近藤は麻実子さん訳を支持したが、宮崎さんの変更案が通った。
映画の宣伝のため出演したラジオ番組で、近藤は麻実子さんの歌詞について触れ、「漫画家になろうと、家出するように東京に出てきた。本当に何も持っていなかった」と涙を流して語った。口数が少なく、いつも心の中を見せなかったが、鈴木さんは「内にある熱いものが噴き出した」とみる。
(略)
激務が重なり、肺に穴が開いて縮む自然気胸などで入退院を繰り返した。「耳をすませば」を作っていたころ、「笑い話は勘弁して」と話した。笑うと、せきが止まらなくなるからだ。膨らんだ内なる世界を表現するために働くほど、体はむしばまれる。そんな近藤を支えたのは「絵にする市井の人たちだった」と、最初のプロダクション以来の友人で自宅近くに住むアニメ監督の有原誠治さん(58)は語る。
97年12月16日、出勤前に突然、苦しみだして解離性大動脈瘤(りゅう)で入院。「もっと描きたい」と語っていたが、手術後は話ができなくなった。浩子さんが「楽しいこと考えようね」と語りかけると、うなずいていた。翌98年1月21日の早朝、死亡。47歳だった。
(略)
文・平出義明 写真・会田法行』
丁寧に取材した跡が見られて、心を打つルポルタージュになっていると思います。
主題歌の訳詩の隠されたエピソードを活字に残した功績は大といえるでしょう。
また、「耳をすませば」が1995年邦画興行収入が1位だったことを私は知りませんでした。この作品の枕詞として、使われて欲しいと願っています。